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ニューヨークフェロー月報<4> ワークショップ・イントロダクション 原稿

10月は、同じグランティのチェト、シーヤン、ロッキーや、インドネシアのレイリ、そして同じ授業を受けているベルリンから来た客員研究員のハンナやスイスから来ていたダヴィッドに誕生日を祝ってもらったり、

https://note.com/mnzk/n/n0b73d0d82700#a1939a1c-d1f6-4fea-84b3-e32544f09421

先住民のコミュニティイベントに参加したりしていました。

その一方で、演劇のシーズンが佳境を迎え、CUNYのセーガルセンターが主催する「プレリュードフェスティバル」にできる限り参加してニューヨークの劇団のワークインプログレスを見飽きるほど見たり、

https://note.com/mnzk/n/n88ba9c24b43c

日本から来た高山玲子さんとともにウースターグループのリハーサルに参加させてもらったり、

ニューヨークで展示中の元ニューヨークフェロー・三野新さんが泊まっていったりと、慌ただしく日々は過ぎていきました。

その一方、11月にイギリスで行うワークショップについてずっと考えていました。今回、オンゴーイングのリサーチをワークに落とし込むために、いろいろとこれまでの思考を整理しつつ、ワークを考えていました。

そこで、今回は、月報の代わりとして、このワークショップ冒頭の挨拶文を掲載します(実際はこういうことをたどたどしい英語で話します)。

ーーーーー

はじめまして。日本から来ました演出家の萩原雄太と申します。これまで、わたしは、日本でかもめマシーンというとても小さなカンパニーを運営しながら、演出家として活動をしてきました。

現在、わたしはAsian Cultural Councilという組織の助成を受けて、ニューヨークで半年間のレジデンスをしています。このプログラムでは作品をつくる必要はなく、自分の興味に応じたリサーチを行います。そこで、わたしが取り組んでいるのが、「ニューヨークの民主主義と演劇の関係」についてのリサーチです。まだ、現在進行系のリサーチですが、今日のワークショップは、このリサーチで考えたことを中心にしてワークを用意しました。

しかし、「民主主義」といっても、とても大きなテーマです。その全体を捉えるのはとても難しい。では、わたしは、民主主義という概念の中で、どのような部分に興味があるのでしょうか?

アメリカ人は民主主義という言葉が大好きです。わたしが見た限りでは、どんなスピーチでも、あるいはミュージカルの中でも、「民主主義」という言葉が出るだけで観客は熱狂します。アメリカ人にとって、民主主義とは疑いようのない信念のようなものであり、彼らにとって民主化とは正義を意味します。だから、他国を「民主化」することに、なんら疑いを持つことがないのでしょう。

しかし同じ「民主主義」という言葉でも、その内実には大きな違いがあります。例えば、それは政治システムのことを指していたり、革命的な市民活動のことを指していたり、あるいはこの社会のあり方、小さなコミュニティの運営方法まで「民主主義(的)」という言葉が使われます。例えば、こういうふうに分けられるかもしれません。

(スライド作成中)

民主主義というのは、とても基本的な概念です。基本的だからこそ、そこには色々なニュアンスが含まれていて、それぞれの文化圏に応じて、異なった使われ方をしています。その証拠に、同じ「民主主義」という言葉を使っているのに、グーグルが示すイメージは大きく異なります。アメリカでは、主に、市民運動や選挙としてのイメージが提示され、日本では政治システムとしてのイメージが表示される。中国の検索エンジン「百度」によれば、中国ではジョン・デューイの「民主主義と教育」を中心に、図書の中の出来事という印象です。


英語
日本語
中国語(百度)

時代によって、国によって、文化圏によって、「民主主義」という言葉が指し示すものは異なる。

では、今、民主主義をどのように捉えることが、この社会にとって、もっとも有意義なのでしょうか? これまで、ニューヨークに4ヶ月滞在し、美術館、歴史博物館、劇場、文化イベントなどに参加しながら、そんなことを考えていました。そして、考えていくにつれ、ふと、もしかしたら、わたしが興味がある民主主義とは、「I love you」という言葉で表せる関係性ではないかと思いました。

基本的にひとつの国にはひとつの政府があり、民主主義社会ではひとつの社会を必要とします。しかし、多くの人々が、ひとつの集団に統合されるとき、そこには必ずマイノリティの迫害が起こります。現在、アイデンティティポリティクスが活発になっているのは、「わたしたちはあなたたちとは異なる」と、マイノリティ集団が声を上げているからです。民主主義の集団においては、「わたしたちは異なっている」と言えること、その上で、「わたしたちは同じ集団に属している」と言えることが必要となります。それを「I love you」という言葉が表してくれるのではないか。

では、どうしてLOVEという言葉を思いついたのでしょうか? 

例えば、NYで活動していた演劇集団the Living Theater の「パラダイス・ナウ」。1968年に作られた、革命をテーマとしたこの作品のビデオを見ていたとき、ふと、これは「LOVE」という概念に支えられているのではないかと思いました。全裸で、肉体を重ねながら、まるで乱交のように、「ひとつ」になることを目指すこの作品は、ヒッピー的な意味で「LOVE」という概念を目指していると言えると思います。


もうひとつ、Dumb Typeというグループのメンバーであり、彼らの代表作S/N(1994)を手掛けた古橋悌二という人がいます。テクノロジーを駆使した作品で、当時は珍しいワールドツアーを行った彼は、80年代のニューヨークシーンから多くの影響を受けてきました。そして、ゲイであり、ニューヨークでHIVに感染した彼は、遺作となった「S/N」において、未来のラブ・ソングというテーマを設定しています。スクリプトに、彼はこう書き記します。

あなたが何を言っているのかわからない
でも
あなたが何をいいたいのかはわかる。
わたしはあなたの愛に依存しない。
あなたとの愛を発明するのだ。
これは世の中のコードに合わせるためのディシプリン。
わたしの目に映るシグナルの暴力。


60年代に語られたヒッピーとしてのLOVE、90年代に生まれたクィアとしてのLOVE。では、20年代には、どのようなLOVEが見えるのか? それは、今、民主主義とはなにかを考えるにあたって、補助線となるのではないかと考えたのです。

それをいろいろと考えていたとき、ふと、こんな言葉に出会いました。

「WE ARE HERE」

これは、ランドールズ島で行われた先住民コミュニティのフェスティバルでの一コマでした。南北アメリカの先住民たちが、ダンスを披露したり、スピーチをしたりするなかで、ひとりのメスティソの女性がこの言葉を繰り返していて、そのスピーチは胸を打つものでした。この言葉自体は、多分珍しいものではなく、この文脈での決め台詞のように語られるものであるような気がします。

ニューヨークの街にいると、さまざまな場所から、さまざまな語り方で語られる「WE ARE HERE」が聞こえてきます。ブラック、クイア、ラティックス、先住民、各国のコミュニティがパレードを行ったり、博物館を開設したり、デモを行ったり。それらは、「WE ARE HERE」という声になって届きます。では、各所から喧しいほどに聞こえる「We Are Here」という言葉を聞くのは誰なのでしょうか? 果たして、誰が耳を傾けているでしょうか? 「WE ARE HERE」という言葉が、聞き取られないままに消えていく。それが、わずか4ヶ月だけど、ニューヨークで生活して生まれた実感です。

かつて、ニューヨークには、ヒッピーとしてのLOVEが、クイアとしてのLOVEがありました。いま、受容としての/聞くことのLOVEは可能か。わたしはたった半年間の滞在者であり、本当のところはわかりませんが、もしも、この街に暮らすとしたら、アジア人としてのわたしを受け入れてほしいと思うかもしれない。いや、東京にいても、わたしはわたしであることを受け入れてほしいと思っているような気がします。

もし、受容というスキルを発達させて、IとYOUの間に橋をかけられるならば、もしかしたら、わたしたちは、この民主主義社会を少しだけ良いものにできるかもしれない。

そこで、今日のワークショップでは、I love youという言葉を、単語ひとつひとつに分解して、それらを見つめるような時間を過ごせればと思います。

では、始めていきましょう。

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