「僕たちの祖母は絵を描いていてね、ずいぶんオーガニックな人で、にんにくを干したところから、砂色の絵の具をつくったり、よくしていました」
『夜のカフェテラス』という作品の前まで来たときに竜之介りゅうのすけはそんな話をして、そこから唐突に、
「ゴッホが色弱だったと言われているのを知ってますか？」と訊ねた。
実環子みわこは「知らなかったです。それは本当ですか？」と訊いた。

竜之介は、「それを確かめたくて僕は来たんですよ」と少し笑って、
「実環子さんにはこの作品はどう見えますか？」と訊ねた。
実環子は、
「黄色いカフェと夜空の蒼のコントラストがどても綺麗です」と言った。
竜之介が、
「このまんなかの道はどこまでも奥に続いていくように見えますか」
　と訊ねたので、実環子は、首をふった。実環子にとってコントラストが綺麗ということは、全体的にぺたっとして平面的ということでもある。竜之介はおもしろそうに続けた。
「僕の目には、この左の黄色の諧調の変化も、夜空の蒼から黒への諧調も、非常に細やかで奥行きがあり、結果、この道はどこまでも夜の向こうに続いているように見えるんです」

　実環子は竜之介が羨ましかった。
実環子の周りで起きてきた、ささやかな感度の不具合は、こんな風にひとつも証明できない。どうせ人とすこし感度がずれているのであれば、竜之介や宇宙のように、完璧に違う、猫の目を自分も持ちたい。
わたしにはこう見えます。と言い切りたい。
こう感じます、といったような抽象的なものではなくて。
　実環子は竜之介の左手に、自分の右手をつないだ。
そしてすうと息を吸って言った。

「わたしにはこの奥の二人は、どうもケンカをしているように見えます」
　
その二人は、カンバスの上では、八センチほど尺で、
表情は描きこまれていなかった。
　竜之介は楽しそうに笑うと、実環子の手を握り返して言った。

「実環子さんはおもしろい人ですね、素敵な感性だと僕は思います」

　竜之介は実環子に、身体ではなく心で繋がりたいと思わせた最初の男だった。そして多分最後の。今この瞬間にもカフェテラスの黄色と蒼の間を抜けて、二人で夜の向こうへ行けそうな気がした。ふたり互いに違った景色を見ながら、同じ気持ちで。

桃色うす紫の夕暮れは、夕暮れと呼べる時間の終わりに差しかかっていた。桃色うす紫は、透きとおる青に姿を変え、イーゼルも、筆先も、カンバスも、少しその中に沈んだようだった。

「今日さ、買いたい画材あんだけど、あそこ遠くてひとりじゃみちみちつまんねえからみわこもつきあってよ」
　
　実環子の足元に座りこんでスケッチを直しながら宇宙そら
が言った。
返事をしようとしたら、オーディオから流れる、バンジョーの音がぶつぶつっと飛んだ。立ち上がってＣＤを出し、裏を画材道具の布の綺麗な部分で拭いていると、スケッチブックを見ながら宇宙が笑った。
「そのＣＤ聴きすぎなんじゃねえの？」

実環子が「そうでもないよ」と笑うと、宇宙はそれには反応せず、
「芳本かをりの兄ちゃんのどんなセックスしてんの」
小さな犬が鳴くみたいに訊いた。どんなって、普通よ、普通。実環子がぼそぼそ答えると、
「みわこに一番似合わないね、普通とか言う言葉」
宇宙は毒を含んだように笑って、パン、とスケッチブックを閉じて鞄にしまいながら、まあ、俺はみわこが誰とどんな風にセックスしててもどうでもいいんだけどさ、というと、
「とりあえず、外で待ってる」
と美術室を出て行こうとした。
その背中に実環子は言った。

「宇宙はセックスに何を求めてる？」
え？　振り向いて宇宙は答えた。いくことだけだよ。
「その他には？」
実環子が訊くと、面倒くさそうに宇宙は言った。
「たいがいの場合はだれでもよくて、ときにだれでもよくないようなものを求めてる」
実環子だってそうだろ？　違うの？
「相手に見えている景色を同じように見たいって思う？」

宇宙は答えた。全然。

「俺は、相手の目の中に俺がちゃんといればそれでいい」
俺の目には、どうせ相手が見ているようには見えないんだから。まあ、でも、そういうセックスもいいんじゃないの。
投げ出すように言うと宇宙は美術室を出て行った。
ＣＤの裏に傷はなかったし、出て行った宇宙の後ろ姿はやっぱり子犬みたいだった。

昨日のレディオは【OFF AIR】珍しく恋愛と結婚について語ったり、しています。あと親友ちほちゃんのご実家「KUMAMOKU🌳」のCMソングを本邦初公開しています。