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淡くて苦い恋はマスターベーションで儚く終わった話


高校生の頃、私は恋をしていた。
恋をしていたのは同級生の背の高い男の子で、いつも何を考えているのかわからない人だった。指先が綺麗で、それに喋ると聴き惚れてしまうほどの声。サッカー部に所属しており、顔はイケメンという、王道中の王道を私の気持ちはひた走っていたのだ。確かにモテていたし、私からすれば高嶺の花のような存在だった。そう、スクールカーストトップオブトップ(?)のイケメンである。
私みたいなスクールカースト中堅女と釣り合うわけがないと思いつつも、好きな気持ちは日に日に大きくなるばかりだった。


何気ない会話をするだけでも緊張してしまうし、喋ったあとには、口の中がカラカラになってしまうほどに緊張し、口の中の水分もなくなっていた。
そんな状況下でも友達の協力もあり、なんとかメールアドレスをゲットしたのである。
協力してくれた友達は、彼と中学の頃から仲良くしていたと教えてくれた。「あんな奴のどこがいいかわからない。」と言いつつも、彼と喋るとどこか楽しそうで、それを傍から見ていた私には、喉から手が出るほど羨ましい気持ちと同時に、どこか諦めに似た虚しさと寒々しさを感じていた。


当時はまだガラケーが主流の時代。
メル友になって仲を深めるのが恋愛の初期段階においては定番だった。彼とメール交換を始めた日のことを今でも鮮明に覚えている。折りたたみ携帯のミニディスプレイが爛々と光り、彼の名前が映し出される。
入力されている一文字一文字が何故か可愛く見え、そして愛おしくて堪らなかった。
眼に映る文字が踊り、それだけで自己肯定感が満たされるようだった。
ただ、それだけだった。

彼との間にそれ以上の関係はなかった。ただ、教室にいても遠くから見つめるだけ。
あの関係性、そうそれは「メル友」だ。

いまから考えると可笑しくて笑えてくる。
メル友に恋をしていたなんて、なんて先進的なんだろうか。思えば今の若者がネット上で恋愛をするのと同じような形で恋をしていたのかもしれない。そう思うと文通という文化もかなり先進的だ。
ただ、実際に毎日同じ教室で顔を合わせているのに会話をしないのである。
「できない」のである。

ある日の席替えで、私の席がその好きな人と前後になった時期があった。
プリントを配るとき、休み時間のとき、話しかけるタイミングはいくらでもあった。何気ない会話のきっかけなどいくらでもあるではないか。今日は天気がいいね、昨日メールで話してたけどさ、今日の寝癖やばくない?などと言ってみてもいい。どうしても後ろが向けない。どうしてもプリントを回す時に目を合わせられない。どうしても今日の天気の話ができない。そして時間はあっけなく過ぎて行く。

なぜそんな簡単なことができないのかという話だけど、ただ自信がなかったということと、自分と向き合えていなかったからだろうか。自分の感情に流されてばかりで本当に感じている気持ちや伝えたいことを見れていなかったからだとも思う。
若いうちは勢いだけはあったのだ。(今も十分に若いだろうという声が聞こえてくる気がする。)ただあの人と近付きたい、その感情だけで突き進めたし、帰り道、夕陽のオレンジが広がる中チャットモンチーを聴きながら自転車で坂を勢いよく下ったりして「これが青春か…」などとバカみたいに浸ったりしていた。あのときはそれが精一杯だったのだ。それだけですべて自己完結していた。自分の中だけで勝手に傷つき傷つけられていたのである。

「コミュニケーションとは傷つけ合うことである。」と言葉を残した人がいた。
傷つかなければ強いプラスの関係を生み得ないのではないだろうかとその人は説く。28歳になった今、振り返ってみると家族以外の他人と本音をぶつけたことなんて今まであったのだろうか、と考えるもほとんど思い浮かばない。私は傷つけ合うのが怖かったのだろうか。いや、それ以上にこれ以上傷つきたくないと自分を守っていたかったのだろう。

この歳になって、傷つき合うことが全てにおいて悪ではないことに気付く。そして、そうしなければ現状維持はできてもプラスの結果は生み出さないのであろうことを、私はもう知っている。

冬の気配が漂う京都、ノートパソコンで文字を打ち込む私がいる。
高校生の頃の私にEメールを送信した。


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