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江戸をぶらつこう(日本橋)

( 日本橋 )
 橋の日本橋は慶長九年(一六〇四)に五街道の起点となりました。
 五街道とは家康が天下を取って今までの京都を中心とした五機七道に対し、江戸を中心とする街道で、東海道は七道と同じで現国道十五号です。中仙道は現国道十七号、甲州街道は現国道二十号、日光街道は現国道四号です。
 日光街道と奥州街道は宇都宮まで重複します。
 他に脇街道として江戸から佐倉を経由して水戸に通ずる佐倉街道(現国道五一号)があります。

 家康は、当時まちまちであった一里を三十六丁(約四千メートル)とし里程標りていひょうを一里毎道路脇に建てました。これは明治になっても引き継がれ、日本橋の中央には道路元標が置かれています。
 道路案内板の東京へ何キロは日本橋までの距離です。
 東京の何何丁目は日本橋に近いほうを一丁目とする約束があります。この橋から京橋に向かって、江戸時代から最近までは通り一、二、三丁目(現日本橋一、二、三丁目)であり、西川、白木屋(現東急)、高嶋屋があり、明治に入ると洋書屋の丸善も顔を出すのです。
 神田へ向かえば越後屋呉服店(現三越)、海苔の山本、羊羹の駿河屋、鰹節の「にんべん」、刃物の木屋きやなどの老舗が軒を並べておりました。

 明治に入りますと、三井合名の本館も建ちました。隣の本町は薬種・香料問屋の町と金座で名高い。現在も大手の製薬会社の本支店が密集しています。
 交通の要衝であった証拠に、名前が大伝馬・小伝馬町、馬喰町と字で判断できそうです。堀留、富沢、横山町はアパレル屋の本拠です。

 少し離れた水天宮は、今も安産の神として崇められ、この神社は有馬記念の久留米の殿様の持ち物であったことから、馬券必勝祈願をする者もいるらしい。

 水天宮の隣は人形町で明暦三年(一六五七)の火事までは吉原遊郭の在った処です。当時は葺屋町と言っておりました。今も大門跡があります。大門と読めば寺の門です。芸者町として葭町よしちょうがありましたが、今は人形町に吸収されました。江戸時代から履物の町として栄えましたが、今は見る影もありません。

 隣の久松町は日本最古の小学校のある処です。
 人形町から都心寄りの蛎殻町は商品相場のメッカで鎧橋を渡ると株の兜町です。

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