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【連載小説】『晴子』4

 仕事を終えて、今日はまっすぐ帰ることにした。あの人に会う予定もなかったし、気に入っていたあの店も、例の件があって以来、行きづらくなっていた。梅雨は明けて、昼には入道雲も見えるようになっていた。蒸し暑く汗も噴き出して、肌がべたつく。
 家に着くと、ストッキングを脱ぎ捨てた。こんなもの、ずっと履いていられるわけがない。私は、後ろに束ねていた髪を雑にほどいて、衣服を剝ぎ取っていく。シャワーを浴びた。気温が高いので、浴室が湯気で満たされるまでには時間がかかる。シャンプーの時にいつも不意に思い出すあれこれも、今日は特になかった。
 風呂から上がって、ようやくエアコンのスイッチを入れた。ぬるく重たい風がやんわりと吹き出す。私は、夕食の準備に取り掛かる。と言っても、夕食もあの人と一緒でない時はあまり量を食べない。今日も、トマトスープとフランスパンを切ってマーガリンを擦り付けたもの、あとは野菜を適当に盛り付けたサラダ。
 あの人と食べる時は、彼に合わせて注文するのだが、私たちはむしろお酒を嗜む方がメインだった。あの人は大体ジントニックやバーボンが好きで頼むが、私は季節や気候によって頼むものが変わる。
「もしかして、麻美って浮気性?」
 こんなこと聞いてきたことがあった。
「どうかしら。あなたはどう思うの?」
 もちろん、浮気性だという自覚はなかった。なかったが、明確な答えを言うのはなぜか、無粋な気がした。
「ほら、よく言うじゃん。煙草の銘柄を頻繁に変える男は浮気性だって。お酒にもその理屈当てはまるのかなと思ってさ。」
 彼には、ひとえに好奇心しかないように見えた。
「まあでも、例え浮気性でも、麻美が素晴らしいのは変わらないよ。」
 あの人はそう言った。さすがあの人だ。私がこの返答に満足したのは、それが私を褒めそやす言葉だったからではなく、返答があの人らしかったからだ。
 回想に浸っていたら、スープが吹き上がりそうになっていた。急いで火を止める。温めすぎたスープがいい具合に冷めるまで、キッチンとリビングの境目に立ってぼんやりテレビを見ながら、フランスパンを齧っていることに決めた。立って飲み食いすることは、別に珍しいことではない。たまにふと、はしたないことをしているような気分になることも、ないことはない。
 スープが冷めるのを待っている間、あの人からメッセージがあった。

 今週、金曜日夜、例のバーにて待っています。マスターから聞きました。随分派手にやっていたと。またあの店に通えるように、僕が間に入るので安心してください。

 文章になると、会う時の感じとは打って変わって改まった感じになるのも、私は気に入っている。例の件があってから、あの店には何となく行きづらくなってしまっていた。私がキープしていたティーチャーズはもう粉々に砕け散ってしまった(というか砕いてしまった)。砕け散った酒瓶とウィスキーに濡れるカウンター席を見つめるマスターの顔が頭に蘇った。
 謝って許してくれるだろうか。そんな気持ちと同時に、あの夜の全てはアイツのせいだという気持ちも湧いてきた。

 了解しました。金曜日の夜、仕事が終わったらすぐ向かいます。

 返信をして、スープを飲むことにした。テレビでは、今日一日のニュースが流れていた。どのニュースも、私にはよく分からない。というか、興味を惹かない。チャンネルを回してみても、特にめぼしい番組はなく、テレビを消した。
 夕食後、食器を片付けたあと、マティーニをグラスに注いで飲んでいると、電話がかかってきた。
「もしもし。」
 電話の向こうから、応答はない。まただ、と思う。
「もしもし。」
 今度は少し苛立って見せた。しかし、電話の向こうは相変わらず無言だった。
 3か月くらい前から、こうした無言電話がかかってくるようになった。はじめは気味が悪くて、あの人や職場の人に相談しようか悩んだこともあった。しかし、何回もこうしてかかってくると、その気味の悪さも薄れてきた。大体決まった曜日と時間にかかってくるので、最近では電話を待っている節もあるくらいだ。
 それでも、変わらず無言を貫かれるのは、あまりいい気はしない。特に要件もないくせに電話をかけてくるなんて、それも、一回でなく何度も電話をかけてきてるのに要件の一つも思い付かないのだろうか。
「ねえ、もうこれで何回目かしら。最近はあなたからの電話を待っているくらいなのよ。」
 先の苛立ちを緩めた口調で話かけた。向こうが音をあげて電話を切るまで待ってみたことはあったが、私から話かけるのは初めてのことだった。
「でも、下着の色くらい聞いてくれなきゃ、こっちだって張り合いがないわ。」
 そこまで言っても、まだ向こうからの返答はなかった。電話の向こうからは、一応うっすらした呼吸が聞こえるから、人の気配はある。でも、下着の色に興味のありそうな息遣いではなく、とても穏やかな呼吸だった。
 しばらくして、向こうから電話が切れた。——さようなら、また今度、連絡待ってるわ。心でそう思いながら、携帯をテーブルに置いた。
 ふと玄関を見ると、脱皮の後みたいにストッキングが脱ぎ捨てられていた。

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