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【連載小説】『晴子』6

 金曜日。夜でもまだ人出が多い。心なしか、いつもより酔っ払いの数も多い気がする。暑さも相まって、そういううるさい連中の甲高い戯言を聞くと、苛立ちもひとしおだ。街も人もすっかり夏の装いになっていて、暖色の灯りがたっぷりと溢れている。大通りを曲がり、小さい路地に入ると、人通りは一気に減って、暴力的とも言える暑さは少しだけ緩む。
 店に入ると、その音を聞きつけてか、カウンター席の端に座っていたあの人がすぐに私を見つけた。彼は既にジントニックを頼んでいた。
「注文は、いつものハイボールですか?」
 改まって見せて、マスターの代わりに彼が注文を聞いた。私は頷いてそれに応じた。
「この店は久しぶりなんだよね。」
 私が席に座るなり、そう尋ねた。
「うん。」
 前回の出来事もあって、あまり大きくない声でそう応えた。
「大丈夫。マスターも状況を把握してたし、怒ってないよ。」
 マスターの優しさを代弁するような声で彼は言った。
 それ以降、私が申し訳なさから堂々と会話する度胸もなく黙っていると、注文の品を持ってマスターがやってきた。
「こちら、ティーチャーズのハイボールです。」
 いつもと同じ銘柄のもので持ってきてくれた。それも、いつもと同じような声で。
「前回のことですが。」
 私から話しかけることができずにいることを察して、マスターの方から話を始めてくれた。いつもの穏やかな表情を私に向けていた。
「事情が事情ですから、別にあなたに対しては何とも思っておりません。謝罪していただく必要はありませんよ。あの男は出禁にしましたし、これからも安心して当店をご利用ください。ただ、割れてしまったティーチャーズは、どうにもできませんが。」
 彼は最後に微笑んでみせた。これが、許しの合図らしい。
「私の方こそ、申し訳ありませんでした。事情が事情とはいえ、少し手荒過ぎました。ご迷惑をおかけしたのに、こうして許していただいて、なんと言っていいか…」
 ここからは言葉が続かなかった。意外にも、否、マスターの人柄を考えれば意外ではないが、それでも少しくらい何か責められた方が振る舞い方が分かりやすいとは思った。マスターの穏便で寛容な対応に、ありがたい反面、どう振る舞うべきか難しかった。
「大丈夫ですよ。これからも遠慮なく、当店をご利用してください。」
マスターは姿勢正しく頭を下げて、カウンターの奥に戻って行った。
「ありがとうございます。」
 去っていくマスターに聞こえるか聞こえないかくらいの声で、呟いた。
 私とマスターが話している間、あの人は私の隣で黙って、でも会話には耳を澄ませながらグラスを傾けていた。
「よかったね、麻美。」
あの人は言った。その表情には労いと同情があった。
「ありがとう、あなたがいてくれて、話しやすかったわ。」
 まだ、いつもより小さい声で話していた。まだ何となく窮屈な感じが、残り香のように私の中に渦巻いていた。小さくしていなければいけないような感覚が。
「これで、全部さっぱりしたんじゃない。マスターのあの感じで、前僕が言ったこと分かったでしょ?」
 私はやはり小さく頷いて、ハイボールに初めて口を付けた。通りの暑さの中を通り抜けてきた体に、炭酸の刺激が心地よく駆け抜けていくのが分かった。隣を見るとあの人が私の方にグラスを差し出していた。
「乾杯を忘れていたね。」
 私たちは、お互いのグラスを軽くぶつけた。涼しい音を立てたのは、既に半分くらいジントニックが減っていたあの人のグラスで、まだたっぷり入っている私のグラスは少し鈍い音が混じって、手に中の液体が細かく揺れる感触が伝わってきた。
「マスターがいい人でよかったわ。」
「分かってたろう。そんなの。」
 店内には珍しくDonald Fagenが流れていた。いつもはジャズがよく流れているのに。金曜日なのにこの日は店内に人は少なかった。普通の声で話していたら、他の人に聞かれてしまいそうなくらい(と言っても、秘密にすることなんてそうそうありはしないのだが)静かな店内だった。
 少し心地よく酔いが回ってきた時、あの人が唐突にカバンの中を漁り出した。
「さっきマスターが、割れちゃったウィスキーは取り返せないっていってたから。」
そう言って、彼はカバンの中から瓶のウィスキーを取り出して、私の前に置いた。
「僕の奢りだよ。」
 酔いもあって、一瞬反応が遅れた。が、徐々にそれを認めると、私ははっきりと嬉しくなった。銘柄もどんぴしゃりだった。あの人のことだから、私のお酒の好みくらい優に把握していることを分かっていても、なお改めて嬉しくなった。
「ありがとう。」
 心なしか声が弾んでしまっていた。
「もちろん、ボトルキープで頼んでおいたからね。」
 何もかもに手が行き届いている。これで、またこの店に来ることを正式に許可されたような気がした。あの人が間に入ると言ったのは、まさにこういうことだったわけで、これは効果覿面だった。
 他に誰もいなければ、抱きつきたいくらいだった。

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