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【連載小説】『晴子』3

 あの人は、私の本当の名前を知らない。私が晴子だということを知らない。彼は私を麻美と呼ぶ。麻美という名前は、彼が名付けてくれたのだ。
 あの人と出会ったのは、先日例の変な男に絡まれたあのバーだった。季節は冬で、その日は風の強い日だった。日が出る時間も短く、昼で晴れていてもなぜか明るく感じない季節だった。
 仕事終わりに飲みに来ていた私は、いつものようにカウンターでカクテルを煽っていた。その日は何故か店が混んでいて、カウンター席もそれなりに埋まっていた。いつもは誰もいない両隣も、左側には先客がいた。
 ザワザワとした店の中に、あの人が入ってきた。あの人は空いていた私の右側の席に着こうとした。ジントニックを注文すると彼は、コートを脱ぎ、マフラーをはぎ取ってウェイターに預けた。彼は私の右隣に座った。彼は体格が大きいから、私の位置が少し窮屈になった。
 知らぬ存ぜぬ人に挟まれて、なんとなく居所が悪い感じがして帰ろうとしたとき、彼が話しかけてきた。
「お一人ですか?」
 女一人で飲んでいると、こんなことも何度か経験する。ちょっと大人びた感じを出しても、していることはナンパと同じだ。いつものようにあしらおうと思った。
「ええ、そうよ。」
「これだけ店が混んでいると、一人はなんとなく気まずいよね。」
 彼は私に苦笑いを向けながら、私の居所の悪さに同情するような口調でそう言った。笑うと目尻にしわがよって、それが彼を実際の年齢よりも大人びて見せた。彼が話しかけてきたせいで、帰るタイミングを逃してしまった。彼の前に、ジントニックが置かれた。
 彼は、私越しに、私の左側にいる客に目を向けた。こっちの客には連れがいて、その客はその連れに熱心に何かを話し込んでいる。
「こういう時は、彼みたいに連れがいれば、気まずくないんだけどね。」
 彼はもう一度、私に同意を求めるような表情を向けてきた。
「そう?私は一人でも全然構わないけど。ちょっとうるさいのはごめんだけど。」
 この空間で自分一人だけが孤独なことに、別に恥ずかしさや気まずさを感じる性質の人間ではなかった。同調を予測した彼の言葉に、逆らうような返答をしたつもりだったが、彼は飄々としていた。
「君はそういう人だと思った。」
 意表を突いたつもりの返答だった。しかし、そんなことを、ほとんど後ろ姿だけでどうやって見破ったのだろう。というより——「それが分かっているなら、どうして話しかけてきたのだろう。」彼の声が重なった。
 私は驚いて、彼の方を見た。一瞬、心を読まれたかのようだった。実際、そうなのかもしれない。
「ごめんごめん。なんとなく表情を見た感じ、そんなこと考えているのかなって思っただけ。別に超能力とかじゃないよ。」
 あの人は少し笑って、そう応えた。自分の考えが、これほどにまで表情に現れているとは思わなかった。昔から表情に乏しく、何を考えているか分からない(前の恋人は別れる理由にこれを挙げた)と言われてきた私が、これほどあっさり表情から内心を読まれるとは思わなかった。後にこれは、私の表情の問題ではなく、あの人の勘の鋭さ故に為せる技だという事に気付くのには、もう少し時間がかかった。
「なんだか、僕ばっかり喋ってるね。君の話も聞きたいよ。名前は?」
 初対面で改まった感じのしない口ぶりを見ると、少し高揚していると思った。この高揚を見抜くまでに少し時間がかかったということは、私も少し動揺していたのだろう。
「名前?なんだと思う?」
 私は、再度彼の意表を突こうとした。今度は成功したようだ。彼はきょとんとした表情になった。
「そんな風に聞かれたことはなかったな。」
 彼は、回答は避けたが、辛うじて反応は示した。反応を捻りだすのに苦労した感じはあったが、それでもどこか楽しそうだった。
「自分の名前がそんなに好きじゃないの。」
 もう意地悪はやめてあげた。
「そういう人もいるさ。」
「好きじゃないというより、自分の名前に執着がないの。自分がどんな名前で呼ばれるかっていうことに。」
「なるほどね。」
 彼は納得した様子だった。ジントニックを一口つけて、彼は言った。
「なら、僕が付けてあげようか。君の名前を。」
 私はしばらく彼の言うことが理解できなかった。そんな反応を返してきたのは彼がはじめてだった。名前が気に入らないという話をすれば、大抵は無責任な励ましか、無理解な反駁か、親への感謝を説くお説教が始まっていた。あっけに取られている私に、彼は続けた。
「もちろん、君が気に入ればの話だけど。」
 あの人は、すこし気恥ずかしそうにジントニックを煽った。
 私はこの時点で、既にあの人を気に入っていた。少なくとも、これまで私に絡んできた訳の分からない男どもとはわけが違う感じがした。私は、彼に名前を付けられるのも悪くない提案だと思った。
「いいわよ。名前、付けてよ。」
 私が言うと、あの人は提案を受け容れられたことへの意外さを隠さなかった。名前を付けると言った割には、別に具体的な案を用意していたわけではなかったのだろう。
「わかった。ちょっと待ってね。今考えるから。」
 彼の困惑がいじらしく思える。私は助け舟を出した。
「こういうのは、意外と直感的にいった方がいいのよ。ほら、私にはどんな名前が似合うかしら?」
 私は、スツールから降りてゆっくり目立たないように一回転してみた。その時着ていた紺色のワンピースがひらりと膨らむ。彼はその様を見て、まだ考えに耽っている。
「じゃあ、質問を変えましょう。あなたは、私のことを何て呼びたいかしら?」
 彼はしばらく考えて、今度は結論を出した。
「麻美、なんてどうだろう?」
 麻美、あさみ。いい名前だと思った。

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