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【連載短編】『白狐』6

 親のたてる物音は、どうしてこんなにも煩わしく感じられるのだろう。
 反抗期は既に終わっても、彼らのたてる物音がやはり好きじゃない。皿が重なる音、足音、唐突な深いため息、洗濯物を干したり取り込んだりする音、車のドアを閉める音、雨戸を開け閉めする時の音。
 親がたてる物音は、自分が人生で一番なじみ深い分、ただの物音として処理することができない何かがある。
「お帰り」
「ただいま」
 仕事から帰ってきた母親が、玄関で靴を脱ぐ。
「もう、ちょっと聞いてや。大変なんよ、仕事が」
 母親の仕事の愚痴が始まる。俺が夕食の準備を手伝う時は、それを延々と聞くことになる。父が帰ってくるまでに、母はそれを言いきってしまわなければならない。父親が帰ってきたら、今度は父が愚痴を垂れなければならないからだ。
「あの新人君、いつも話してる子。あの子もう大変よ。最近の子って電話せえへんのかな。電話のかけ方一つなっとらんの」
 止めどなく怒気をはらんだ言葉が吐き出される。
「まあでも、まだ新人だから、多少のミスは大目に見なあかんわな。それに真面目でやる気もあるからまだええよ。全然マシ。でもね、問題は課長や。口だけで何にもやりよらん」
 いつもこんな感じだと、世間的に見れば「最近の子」の部類に入るであろう自分も非難されているような気がしてくる(し、実際に俺がとばっちりを食らうこともある)。
 父親が帰ってきたら帰ってきたで、仕事のイライラを俺たちに話してくる。
 父も母も、話している内容と比例するように物の扱いが荒くなる。俺にとってその時彼らがたてる物音は、感情を表す意味のある何かで、それを読み違えることは許されないように思ってしまう。
 俺は、母の隣でニンジンの皮を剥きながら思う。たいていの家庭は、不快感情のごみ箱だ。みんな、怒りとか、悲しみとか、愚痴とか、苛立ちとか、そんなものを外から持ってきて、それぞれの家庭で処理するのだ。もちろんそれは、悪いことではないと思う。それを処理できるから、明日からも何食わぬ顔で働いたり勉強しに行ったりできるのだから。でも、高校生の俺にとってそのいなし方を覚える過程は決して平坦ではなかったし、覚えたあとでも、やっぱり疲れる。
「章斗?章斗?」
 母親に名前を呼ばれていた。
「なに。ボーっとして」
 母親は、俺の呆けた顔に軽く笑って、調理に戻った。
 夕食が終わった後、洗い物をする母親の背中に話しかけた。
「1月9日さ。ちょっと帰り遅なる」
「なんで?」
「ちょっと約束があって」
「桐田君?」
「いや、そうやないけど」
「じゃあ沙雪ちゃんや」
 こんな小さない田舎町では、子どもの恋愛も町ぐるみになる。付き合ってすぐ、学校中に噂が広まったかと思えば、1週間後には隣近所を含め保護者のほとんどに、俺と清水の関係が知れていた。
俺は沈黙したが、母にとっては十分すぎる応答だった。
「何時に帰ってくるん?」
「9時くらいには帰るつもり」
「あんまり遅くならんようにな。沙雪ちゃんもおるんなら、あんまり遅くまでプラプラしとったらあかんで」
「分かっとるって」
 本当に分かっている。分かっているからこそ清水に強く迫られるまで躊躇していたのだ。その日、彼女に、いや俺たち二人に何かあれば、俺が責めを負うことになる。清水が俺に強く迫ったとしても、何かあれば深夜に後輩の女の子を連れ出したのは俺ということになる。それに納得がいくかどうかは別として、世の中はそういうものだと理解するのに、17年は十分だ。
 振り返って二階の自室に戻ろうとした時、母親が何かを思い出した。
「ねえ、あんた、9日って言うた?」
「うん」
「私、その日高校の同窓会やわ」
 お父さんの晩御飯どうしようかな、そう言いながら、母は洗い物を続けた。

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