脱「エモい」論~あるいは、エモいものを「エモい」と言うために~

 若者言葉というのは、いつの時代も上の世代を困惑させる。若者の間では、ある言葉の使用が流行し、またその流行は衰退していく。時には、ある既存の言葉が、本来意味していた意味を超えて使用され、またある時には間違って使われることさえある。その流行に理解の及ばない世代は、その流行を追おうとして右往左往したり、困惑したりする。そして最終的に、その世代は若者たちをこう叱責するようになるかもしれない。——言葉は正しく使いなさい。
 この一連の流れは、別に今の若者言葉に特有の出来事ではなく、歴史上(少なくとも私が生きてきたここ20年近くの間には)何度も繰り返されてきたことだと思う。俗っぽく言えば「お約束」の流れであり、冗談っぽく鷹揚に言えば「様式美」といったところだろうか(美しいかどうかはおいておこう)。
 最近、よく使われる若者言葉の代表例を挙げれば「エモい」だろうか。私も世間的に見れば、一般的に「若者」と呼ばれる世代に属する人間の一人であるとは思う。しかし、最近の「エモい」の濫用に困惑、ひいては辟易さえする若者の一人でもある。
 私が「エモい」の濫用されている状況に辟易さえするのは、別に「エモい」という言葉を使う若者へのネオフォビア的な嫌悪感からではない。そうではなく、正しく「エモい」という言葉が使われていないように思われる場面によく遭遇するからだ。
 「エモい」という若者言葉についての記事は今やそこらへんに溢れているだろう。例えば次のようなものだ。

 「炎上する「おじさん構文」と「エモ文体」の共通点、本質が見えない危うさとは」(https://diamond.jp/articles/-/286616 )

 この記事では、あろうことかnoteに投稿される「エモい」記事がやり玉に挙げられている。この記事についても、突っ込みどころを探せば山のようにあるが、本記事の趣旨に即してまとめると以下の2点になるだろう。

1.「エモい」という言葉を「幼稚な」や「メルヘンチック」という既存の言葉に還元することによって、「エモい」という言葉の独自性や、その言葉を使う必然性を損なっているように見られること。もしそうであれば、別に「エモい文体が」とか言わずに「幼稚な文章が溢れている」と書けばいいだけの話である。
 
2.この記事では文章の「本質」と「内容」を混同していると見られる。本来、文章の「本質」と「内容」は異なるものである。内容は本質を構成する一要素でしかない。いわば、文章の本質とは、「なにが書かれているか(内容)」「どのように書かれているか(文体)」「何に書かれたものか(形式)」「いつ書かれたのか(時代あるいは歴史)」「書いた主体は誰か(著者)」等を総合的に加味して判断されるべきものであり、「文体がノイズになる」という主張は早計な判断を招きかねない。もっと言えば、文章の内容のインパクトが、文章の本質を見抜く上でノイズになる場合だってあるのだ。

 他にも突っ込みを入れたい場所はある。例えば、この記事によれば「エモい」を「なんとも言い表せない素敵な気持ちになったときや、ある対象に対して“感情の変化”が起こったときに使われる」として、エモ文体は「エモくないものをエモく仕立てる」表現としている。では、著者は感情の変化が起こるべき出来事とそうでない出来事を区別できるということが前提になる。もしくは、感情の変化が起こるべき出来事、そうでない出来事を判定するための、社会的に合意のある何かしらの基準を前提としているように見られるが、そのような合意が本当に存在するのか。あるいは、記事を書いた者が、それらを判定する何かしらの権限を有しているというならば、その権限はいかなるものであり、またその権限はいかなる根拠に基づいているのか、等々。これ以上は本記事の趣旨から外れるからやめておこう。
 では、「エモい」というのは一体何を意味する言葉なのか。これについて集団的に合意を図ることは難しいかもしれない。しかし、先ほど私が、正しく「エモい」が使われていないと言った以上、せめて個人的な次元では正しい「エモい」を提示しておく必要があるだろう。
 では、いたって個人的ではあるものの、私なりに「エモい」という言葉について見解を示してみようと思う。
 まず、個人的な話しで申し訳ないが、私は大学生の時、軽音学部に所属しており、部活の外でもライブ活動を行うバンドマンだった。それはもう4、5年前の話になるが、実はそれ以前から「エモい」という言葉を使っている人達がいたのだ。それが、バンドマン、あるいは彼らに関わる音楽業界人だ。
 実は音楽のジャンルにはエモというものがある。「エモい」という言葉が英語のEmotionalからきているというのは今や説明するまでもないだろうが、実は音楽のジャンルとして既にエモというものは何十年も前から存在している。(もちろんエモがジャンルとしてどのくらい確立しているかは音楽好きの間で議論の余地があるかもしれないが、それは別の方に譲ろう。)また、メロコア、メタル、シューゲイザー、ノイズミュージック、マス・ロック等のアーティスト達の中には、既存のジャンルとエモの要素を掛け合わせた表現を探求する者も多い(し、多くいた)。
 バンドマンたちの言う「エモい」音とは、いわばこのエモというジャンルに寄った音色のことを言うのだ。感情的な演奏を特徴とするこのようなジャンルに由来する「エモい」が、バンドマンたちの会話では使われていたのだ。
 エモを志向するアーティストがどのような音色を作ったかというと、一言で言えば音の輪郭が判然としない音だ。エモを演奏するアーティストたちは、楽器の音や声にファズやエコー、リバーブといったエフェクトを過剰なまでにかけるのだ。その結果、音の輪郭がぼやけ、例えばギターであれば、弦とピックがぶつかる時の硬質なタッチの音がぼやけるのだ。逆に輪郭がはっきりとした音をイメージしたければ、三味線の演奏を思い浮かべると良いと思う。
 なので、例えばあるバンドがスタジオで作曲やリハをする時に、「ここのギターの音もっとエモくできない?」とか言われると、それに寄った音色を作るといった具合に、バンドマン界隈では「エモい」という言葉は意味のある言葉として機能していたのだ。
 ここまで説明すれば、私の言う正しい「エモい」の使い方がどういうものなのかお分かりいただけると思う。もっと具体的に知りたければ、YouTube等でslowdiveやMy bloody valentine等の曲を聴けばイメージが膨らむと思うし、私の言っていることが理解しやすいと思う。いわば私にとって「エモい」とはバンドマンや音楽関係者の間で使われる専門用語、もっと言えばスラングに近いものだ。
 仮に、エフェクトが過剰にかかり輪郭がぼやけた音を表す「エモい」という言葉を、視覚的メタファーとして使うなら私も、その「エモい」の使われ方は納得できるのだ。別に、「エモい」という言葉を音楽関係者やバンドマンの専売特許にしたいわけではないのだ。
 では、ここまでを正しい「エモい」の使い方について話してきたが、今度は正しくない「エモい」の使い方を例示してみよう。
 サカナクションの「ユリイカ」のMVを一瞬でいいから見てみてほしい。モノトーンの色彩で対象物を映し出す映像だ。モノトーンによって陰影が強調され、対象物の輪郭がシャープに映し出されている。
 これに似たような加工を施された画像を探すことは今や難しくはないだろう。そこらへんのSNSに一つアクセスすれば、そういった画像も溢れていると思う。私はそういった画像を「エモい」と言われるのには明らかに違和感がある。
 サカナクションに戻ろう。むしろこの映像は対象物の輪郭はシャープに、はっきりと強調されていて、「エモい」とは対極にある表現なのだ(曲や映像作品の良し悪しの話ではない)。このようなものを「エモい」という人を見ると、私はまるで苦いチョコレートを食べて「辛い」と言っている人を見ているような気分になる。
 私は、この記事に「脱「エモい」論」と言っているのは、なにも「エモい」という言葉の使用を禁じようと言うことを意図したわけではないし、そうすべきだとも思わない。ただ、「エモい」ものに正しく「エモい」と言うべきではないか、という事を主張したいのだ。
 そして、読者の方にはもうお分かりかと思うが、私もまた冒頭に述べた件の「お約束」をなぞっているに過ぎないし、本記事はその「様式美」の変奏でしかないのだ。一笑に付していただいて、一向に構わない。

P.S. ちなみに、私もnoteで小説を書く者の一人だ。もし、本記事で取り上げたあの記事の言うように、noteに投稿される小説や詩の数々が「エモい」作品を志向するものであれば、私はそれに真っ向から反抗しようと思う。確かに人間は、言語を超えた出来事を言語の枠組みの中で語ろうとする時に、詩を、あるいは詩的表現を生み出す。しかし、それは語彙の知的な拡大の先にあるものであり、矮小化する語彙の中にうずくまる中で生まれるものなど、私は詩とも詩的表現とも呼びたくないからだ。

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