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水玉消防団ヒストリー第10回 1980年 神奈川大学、京大西部講堂

取材・文◎吉岡洋美
協力◎モモヨ、地引雄一

 
 78年秋にバンド結成して3か月足らずで初ライヴ、翌年の野外フェス出演を経て、80年の年明けにライヴハウスデビュー。ここまでほぼ1年半にも満たないスピードで展開してきた水玉消防団。さらに初ライヴハウスでパンクシーンに足を踏み入れたこの80年は、カムラが言ったように「1年が10年ぐらいに思える」ほど、バンドのスピードとパワーは加速していく。
天鼓「ライヴハウスにも出ることが多くなると、音がどう出るのかライヴのやり方も段々分かってきて現場に慣れていったし、この1年はバンドとして曲を本当に真剣に作るようになった」
 JORAでセッションのようにそれぞれが思い思いに音を出しながらオリジナル曲を作るようになったのは前述したが、それにしても「曲の作り方なんか分からなかった」(カムラ)どころか、バンドもロックにもほとんど縁のなかった女性たちが1年数ヶ月で「ジークフリードはジッパーさげて」等々を即興的な入り口から作り上げたとは恐れ入る。

●水玉消防団「ジークフリードはジッパーさげて」

 
天鼓「出来ないことは出来ないんだからしょうがないんだけど、出来ることはあるんだから、それを最大限に出せば、絶対面白くなるといつも私は思ってた。出来ないことを競争してもしょうがない。でも、自分たちの出来る方法があるんだったら、それを有効に使えば何とかなる。水玉はもともと全てにおいてそういう考え方。それに、とにかく音を出していくと切羽詰まって、その方が色々思いつくことがたくさんあるんですよ。ダラダラやってたら“ま、いいか”みたいになってしまう」
カムラ「私的にはJORAでワークショップをやってたヴェッダ(ミュージックワークショップ)の竹田賢一さんは貴重な音楽情報源で、バンドを始める前から色んな音楽を聴かせてもらってたんですよ。フレッド・フリス、ヘンリー・カウやカン、前衛音楽とかを知ったのも竹田さんから。その影響もあって、個人的にはそうやって吸収された何かが音に反映されて、ロック、パンク一辺倒じゃない色んな要素を自分は取り込んだとも思う」

●Henry Cow「Living in the heart of the beast」(1976 Live)

 

「あと、今も音楽を続けている天鼓や私は別としても」と前置きしながら、カムラは、可夜、まなこ、みやもとSANの世代のポテンシャルを指摘する。
カムラ「3人とも音楽に思い入れや興味あると言うより、ただ皆で面白いことをやりたくて、たまたまバンドをやっていたような人たち。それなのに、一緒に即興で音を出し合っていたのは、今、改めて振り返ると凄いことだよね。思うに、可夜さん、まなこ、みやもとSANは私のひと世代上の6歳年上で、いわゆる団塊世代。学生運動で大学をロックアウトして自分たちで好き勝手なことをやってた人たちなんですよ。可夜さんなんかは『当時、自分たちにやれないことはないと思ってた』とよく話してくれて、その感覚が継続して自然と身についている。3人とも、もともと女性だけのカフェやアトリエを持ったりして、誰もやってないことを自力でやるのが当たり前の人たち。バンドにしても“やったことないけど、やればできるでしょ”って、次の新しい別なことを怖がらずにあっけらかんと始めたに過ぎない。凄いですよ。ひと世代下の私とは考え方の原点や筋力が違うというか、逆に私のほうがビビってしまう性格(笑)。70年代のそれぞれの活動話に私が感心して驚いても、いつも“何で?”とキョトンとされるだけ(笑)。それぐらい、何か始めることに恐れがない人たちなんですよ」


 流行りのラブソングなんて何ひとつ面白くなかった

 

 歌詞はフロントの天鼓とカムラが担当するようになったわけだが、ここでもますます個性が存分に発揮される。時代的には歌謡曲や、フォークから派生したニューミュージックが大衆の人気を獲得していた頃だが、当時、天鼓はラブソング一辺倒のメインストリームの音楽に辟易していたと言う。

天鼓「あの頃、一般的に流行っていた歌は恋愛についてや個人的な心情のものばかり。ロックの歌詞にしたって同じような感じで、曲の展開もパターン通り。リフレインが何回かあってここでギターソロが入って、と、私からすればあまりにも面白くなかった。ラブソングの全部が悪いとは思わないし、なかにはいいものもあるけれど、それにしても退屈な歌ばかり。音楽はもっと面白いことができるはずなのにと思っていた。その時代の何を見るのか。当時、世の中がバブルに向かっている時代であろうが、浮かれた世界だけがあるわけじゃない。その時代のなかで何を言うかとなると、決して軽くて明るいものだけじゃない」
 それを裏付けるように天鼓の初期水玉消防団での歌詞は、「洗濯機まわしながら/飛び込むチャンス狙ってる/誰も正確にあなたの、名前なんて知らない」(『Who are you?』)、「これはジャパンが世界に誇る、夢の超特急/過ぎゆく景色はどれもワンパターン」(『真空パック・トラベル』)、「あんたはピーターパンにはなれない/食べ続ける/飲み続ける/たまる油/死に急ぐ肉」(『ピーターパンにはなれない』)と、日常のなかに浮かぶヒトコマを冷徹に切り取り、シュールな風景に置き換える。
天鼓「歌を歌うのは楽しいし、ならば、歌詞は自分で作る。じゃあ、その自分の歌詞がどこから出てきているかは私にも分からない。私たちは“純粋な何者か”ではなくて、常にあらゆる文化や情報に晒されているハイブリッドなわけだから。ただ、歌詞について無意識にやっていたことがあるとすれば、出来るだけ“普遍”に近づきたいということかな。私でもあなたでもあり、過去でも未来でもある、そんな存在の生きている世界を歌いたい、というような」
 カムラも天鼓同様、当時主流の恋愛のテーマの歌が「あまりにも自分にはアンリアルだった」と話す。
カムラ「20代の頃ってまだ未熟な分だけ、人生なんてめちゃくちゃじゃん。青春時代なんて恋愛も悲惨でペインフルだしドタバタするし。ポップソングで歌われているハッピーな恋のやりとりなんて自分には全然ピンとこない。恋愛なんか私に言わせれば半分地獄、半分カエルの死体、食い残しのマクドナルドの枯れたレタス、みたいな(笑)。そこへ“沈む夕陽を一緒に見た”とか言われてもさ、“はあ?”って」
 カムラは「ピンでとめられた自画像が薄笑いを浮かべはじめ/捨てられたコンドームがクズカゴの中で焼けはじめ/コンセントにつなぎ直すバイブレータのうなる音」(『垂直都市』)と赤裸々に自己を描写し、「ひからびたコインを/ポケットにつめこみ/都会のゲリラよ/地下水道にもぐれ」(『ワンダラー』)と反逆心も露わにする。
カムラ「やっぱり歌詞にして歌うということは、そういう風に生きている私みたいなものが何かを伝えたいと思ったんだろうね。と言っても、それで自己解放したいと思ったわけじゃなく、ただ、食べ残しのレタスのような有様であっても、そのとき感じている閉塞感を『言わなきゃ』って思ったんだよね、あの若いときは。あと、パンクと言えばストレートな政治的な歌というスタイルがあるけど、自分が社会に感じるポリティカルなことをそのままストレートに歌うことは絶対やりたくなかった。アジ演説のようなことを言うんだったら、敢えて音楽で歌詞にする必要はないし、もしその方法を信じていたら私は学生運動を本気でやってたわけで。アジビラをいくら刷って皆の顔に貼り付けても、そんなもので世界は変わらないのは、もう知っている。私は自分の感じたことを、自分の体を通して歌詞に落とし込む。それは意識していた」


 期待された女性像の真反対。「怖い」が代名詞


 天鼓のエッジの効いた迷いのない天性の勘、カムラの真正ロック少女が吸収する音楽センス、可夜、まなこ、みやもとSANのゼロから始めることを厭わない基礎体力。そこに、一筋縄ではいかない強い歌詞にビート、ロックのセオリー外の音楽性と即興性高いツインヴォーカル。ダークな凄みも見せながらバンドパフォーマンスする女性5人は、ライヴするほどにオリジナルな存在感を見せていく。当時で天鼓は27歳、カムラは25歳、可夜、まなこ、みやもとSANの3人は31歳。
カムラ「ステージは『怖い、怖い』って、本当によく言われてて、それが私たちの形容詞にもなっていった。意図したわけじゃないけど、メンバー誰もがステージで笑顔をふりまく発想がないし、無愛想でサービス精神もない。ステージに上がる女性に期待される真反対の者が出てきたのは、やはり観る側からは衝撃だったと思う」
天鼓「ホント、私たちは怖いってよく言われたよね。お客さんでいつも一番前に座りながら絶対顔を上げない人がいたりね(笑)。もともと可愛さで売るなんて話もないわけで、大体、女性バンドという意識が自分たちにないし。だから、女のバンドではあるけれど、女だとあまり思われてなかった部分もあるのよ。扱われ方や接し方が男のバンドと変わらないというかね」
カムラ「他の女性パンクバンド、例えばゼルダだってもちろん愛想をふりまくようなことはしてないんだけど、水玉が一層怖く見えたのは、ある程度の年齢による存在感が大きかったとは思う。他のバンドのメンバーやお客さんは10代だったりもするわけで。その上、私たちは皆、世間が抱く女性のステレオタイプをはっきり拒否します、という無言のステイトメントを持っていた。ロックをやる以前にただでさえ、そんな貫禄あるおばさんたちが、さらにスージー・アンド・ザ・バンシーズやニナ・ハーゲンのメイクを面白がるようになって、パンクのアイメイクでステージに立っているわけよ(笑)」

●Siouxie and the Banshees「Hong Kong Garden」(1978.Live)

●Nina Hagen「Naturträne」(1979.Live)

 
  その彼女たちの存在がどのような経路で伝わったのか、この年の8月には「誰かが探し当てて連絡が来て」(天鼓)、「そのために集中合宿練習し」(カムラ)、富山と金沢の初の地方ツアーを敢行、引き続き都内のライブハウス、JORAでの定期ライブに続き、関西ツアーをこなしたかと思ったら、永六輔のコンサートをJORAとして企画し豊島公会堂で開催、水玉消防団として出演と、ひと夏で多岐に渡り活動は加速する。
天鼓「初の地方ツアーも自分たちから売り込んだなんてことはなくて、そんな余裕もないし、売り込む方法を知らないし。頼まれるなら行こうか、みたいな。ただ、それに向けて真剣に練習はしたよね。多分、この頃から自分たちのライブに手応えを感じはじめた」
カムラ「フェミニズムを超えてパンクのシーンに合流したような実感がこの頃からあった。パンクシーン自体がビビッドに動いていたし、どこかに行けば面白いほうに物事が動いてワクワクする感じ。地方に行けば地元のパンクスの子と繋がっていくのもエキサイティングだった。富山では16歳のパンク少年が『おばさんたち、かっこいい』って東京までそのまま付いてきたりした(笑)」

 拡大する活動と広がる反応、先鋭化するバンドサウンド。しかし、これに反して「“富山や金沢なんて魚がおいしそう”って、皆、そんなノリ」(天鼓)で、「地方の楽屋でメンバー皆でお灸してたら地元のバンドが仰天して、私たちは『何が悪いの?』って」(カムラ)と、ステージ以外のマイペースぶりもとことん相変わらずなのである。


 11/15@神奈川大学オールナイトGIG


  さて当時、オルタナティブな音楽ライヴの重要な現場として存在していたのが学園祭をはじめとした大学構内でのライヴイベントだ。特にこの頃、パンク、ニューウェイヴのライヴはオールナイト企画もしばしば組まれ、ライヴハウス以上に刺激的な空間となっていた。水玉消防団も例外なくこの80年から、10月の法政大、横浜国大、11月の神奈川大、法政大、12月の京大西部講堂等、出演オファーが相次ぐ。イベントでは多いときで当時の先端のバンド10数組が一堂に会し、例えば11/15に神奈川大学で行われたオールナイトライブイベント「ELECTRIC CIRCUIT forストリート・シンジケート」の共演は、吉野大作&プロスティテュート、リザード、スタークラブ、スティグマ、EP-4、S-KEN、オート・モッド、ボーイズ・ボーイズ、ゼルダ、ノン・バンド、フールズ等々……錚々たる顔ぶれである。

●吉野大作&プロスティテュート「闇のなかのドッペル・ゲンゲル」

●Stigma「金属バット」

●THE FOOLS「Mr.Freedom」

 
カムラ「私は共演バンドを見るのもすごく楽しみで、自分だって演奏する側だけど、この神大のオールナイトにしてもどのバンドも独自で面白いわけよ。同じバンドでも毎回、何かが違うし『次はどうなるんだろう』と出演する私が共演者に興奮してるんだから、お客さんたちもきっと同じ気持ちだったと思う。出演バンドは皆、自分の時間以外でもステージの他のバンドを食い入るように見ていて、その会場の興奮を共有する感じ。当時はそれが当たり前だと思っていたけど、今になると全ての共演者がいつも面白くて目が離せないなんて、そんなコンサートは滅多にない」
 夏から合宿練習、初の地方ツアー、都内での度重なるライヴを経て、オリジナル曲もスタイルも強靭になった時点での秋の神奈川大学のライヴ。
 筆者は、この直前となる80年11/2に記録された、埼玉での水玉消防団のライヴ音源(ウラワ・ロックンロール・センター主催「フラッシュバック70-80」)を聴かせてもらったのだが、率直にその完成度の高さに舌を巻いた。実は同年7月のライヴ音源も聴く機会を得たのだが、7月時点では自己流カバー曲がまだレパートリーに入っていたのが、その約3か月後は30分全8曲がオリジナル。可夜のミニマルなキーボードと天鼓、まなこのノイズギター等々が生み出す不協和音インストの不穏な幕開けからして抜群の登場感。続く天鼓の圧倒的声量のヴォーカルは磨きがかかり、カムラのベースラインは既に唸りまくり。みやもとSANのドラムは目が醒めるほど力強い。メンバーの元々のメンタルの強さにパフォーマンスが遂に追いついたとでも言うか、躊躇なく強く前に出る音はどこかふてぶてしささえ感じるほどだ。天鼓がインプロギターとともに歌詞ともつかない歌を叫ぶローテンポのナンバー、カムラの何語か分からない即興ヴォーカル等の実験性も加え、そのサウンドは「1年が10年」と言われてもなるほど、納得の変化である。何より、自分たちのやりたいことへの揺るぎない自信とグルーヴが演奏から全面的に伝わり、そのパフォーマンスに呑み込まれて歓声を上げずにはいられない観客の空気も音源から手に取るように伝わる。
 このライヴ音源の2週間後の神大オールナイト。水玉消防団が並入るパンク、ニューウェイヴバンドのなかで、どのような仕上がりでライヴしたか容易に想像つくが、事実、彼女たちが当時、飛躍的に成長したことを物語る記述がある。この年の1/3の新宿ロフトのライヴハウスデビューと、この11/15の神大ライブ双方を正に目撃した写真家の地引雄一が、当時の水玉消防団について名著『ストリート・キングダム』で次のように述懐している。
「(水玉消防団の)1月のライブはまだ始めて間もなく、PTAの余興みたいな感じもしたが、10か月後の神奈川大学のライブでは圧倒的でパワフルな演奏を聞かせ観客のドギモを抜いた。人間の内なるパワーが全開された彼女たちのステージは、素晴らしい存在感で見る者に迫ってきて、思わず憧れてしまう」(『ストリート・キングダム』K&Bパブリッシャーズ)
 因みに、このときのライヴ音源は、当時ミニコミ誌「NEW DISC REPORT」の発行やライヴ企画を行なっていた、カムラ曰く「80年代アンダーグラウンドシーンの重要人物の一人」という、守屋正の自主レーベル“アスピリン・レコード”から、実にソノシート盤としてリリースされている。彼女たちがいかにこの80年、急速に頭角を表したかがこうしたことでもよく分かる。

81年に「アスピリン・レコード」からリリースされたソノシート盤。当時、シーンでは格安プレスできるソノシート制作はめずらしくなかった。80年11/2埼玉県民会館大ホールでの「フラッシュバック70-80」(ウラワ・ロックンロール・センター主催)のライヴと11/15神奈川大学大講堂での「ELECTRIC CIRCUIT forストリート・シンジケート」よりA・B面2曲づつ計4曲が収録された。内側には収録曲の「ジークフリードはジッパーさげて」「ワンダラー」の歌詞がカムラ直筆で挿入されている。

●水玉消防団「LIVE!」

 

「重要なキーパーソンだった」 カムラのリザードの思い出

 
 天鼓も「扱われ方や接し方が男のバンドと変わらない」と言ったように、水玉消防団はこの年の学園祭イベントあたりから、男性パンク、ニューウェイヴ・バンドとどんどん横並びの存在となっていく。つまり、早くもシーンの代表格に交じるようになるのだが、カムラの記憶では、そのなかでも早い段階で最初に接点を持ってくれた男性パンクロッカーがいたという。
カムラ「それは、リザードのモモヨなの。一番最初に私たちに声をかけたゼルダのチホちゃん経由で、モモヨはかなり早くから私たちのことを知ってくれていた。例えば、当時、関西は京大西部講堂、東京は法政大の学館(学生会館)という学生が自主管理する文化的コアな場があったわけだけど、西部講堂の企画運営をやってる“西部講堂連絡会議”にモモヨと仲のいいダスターって男がいたのね。彼は関西からわざわざ80年秋の法政大の私たちのライヴを見たあと、『西部講堂でやってください』って楽屋にオファーしに来たんだよね。それも、もともとはモモヨが私たちをダスターに推薦してつないでくれたからなんですよ」

 カムラが「一番早くに共演した男性パンクバンドもリザード」と言うように、確かに80年は秋の法政大学、神奈川大学にはじまり、リザードと度重なる共演を重ね、年末にはそのダスターのオファーによる京大西部講堂の年越しオールナイトライヴで、ともに怒涛の1年を締め括っている。
カムラ「モモヨと知り合ってリザードとライヴが並びになったことから、私は色々な人と知り合いになって、よりシーンのなかでライヴするようになった印象もある。そう考えるとモモヨはチホちゃんに次ぐキーパーソンだったように私は思うの。彼は詩人としても感性が素晴らしくて、『SA・KA・NA』という歌は水俣病という政治的なテーマを文学的レベルにまで引き上げたモモヨのリリシストとしての傑作。そんなところも私はシンパシーを感じてた」

●LIZARD「SA・KA・NA」

 
 さらに、カムラにはベーシストとしてもリザードには特別な思いがあると言う。
カムラ「リザードのベースのワカさんの低音。あの音はすごかった。当時、どれほど影響を受けたか。初めて聴いたとき直感的に『これがパンクの音だ』と思ったんだよね。ピックで弾くすごく切れ味のあるベース音。かつ、重さも兼ね備えている。『ああ、こういう音を鳴らしたい』と思ったときに、それまで使ってた小ぶりの通称イカベースから、ワカさんが使っているロングスケールのフェンダーのプレシジョンベースに変えたほど。変えたといっても本物は高いから似せたカスタムベースを半値で作ってもらったんだけど(笑)。ピックアップもすごく重い音が出るものにしてもらったから、やたら重量のあるベースになったけれど、あのワカさんの音色を絶対出したかった。一音で分かるパンクの怒りの音。試金石の音だった」

●LIZARD Live(1980 TV Live)

 

               ◇

 モモヨは81年にリリースされる水玉消防団の1stアルバムに「水玉消防団は、ボクらのロックンロール保母さんだ」とコメントを寄せるような間柄にもなる。それから42年を経て、今回カムラを通じ、モモヨが本連載について特別にコメントを寄せてくれた。以下に全文掲載し、今回の稿を締めることにしよう。

 「水玉消防団の歴史を読んでいてつくづく思うのは、あの時代が楽器を手にする者達にとっていわば表現主義の時代とも言うべき稀有の時代だったということ。プロのコピーや教則本を忘れて好きなように音を出していい、そう皆が確信し覚醒した時代だったということだ。

 そうしたシーンの中で長じてから大人として変革の現場に向き合った水玉消防団は、まさに一つの大きな「実験」だった。

 音楽に対する「無垢」に始まり、DIYとも言うべき実験を繰り返した果てにオリジナルなスタイル=様式の獲得に至ったバンドは実はそう多くはいない。が、水玉消防団はその道を完走した。それは多分、メンバーが成熟した後に時代と向き合った、そんな水玉の運命的な有り様のせいかも知れない。

 水玉消防団の皆さん。
 素敵な時代を共有させてもらった一人として感謝の念を捧げさせていただきます。

 ありがとう。」

 

 

80年11月、法政大学学館での水玉消防団のステージ。〔上〕天鼓(左)とカムラ(右)。カムラはウィッグを被って登場。まだ“通称イカベース”が健在で、このあとロングスケールのベースに変わる。〔中〕カムラ(左)とまなこ(右)。〔下〕天鼓。左奥に可夜の姿も[撮影:地引雄一]

 

●天鼓 1978年より女性のみのパンクロックバンド、水玉消防団で音楽活動を開始、80年代のニューウェイヴシーンで10年間活動を行う。同時に80年代初頭にNYの即興演奏に誘発され、声によるデュオの即興ユニット、ハネムーンズをカムラと結成、活動開始。その後、ソリストとして活動を続けるうち、86年頃よりヴォーカリストではなく「ヴォイス・パフォーマー」と称するようになる。「声を楽器に近づけるのではなく、より肉体に近づけるスタンス。あるいは声と肉体の関係を音楽のクリシェを介さずに見つめる視点。“彼女以前”と“以降”とでは、欧米における即興ヴォイスそのものの質が大きく変質した」(大友良英)。85年のメールス・ジャズ・フェス(ドイツ)以降、世界20カ国以上でのフェスティバルに招聘されている。これまでの主な共演者は、フレッド・フリス、ジョン・ゾーン、森郁恵、大友良英、内橋和久、一楽儀光、巻上公一、高橋悠治など。舞踏の白桃房ほかダンス、演劇グループとの共演も多い。水玉消防団以降のバンドとしては、ドラゴンブルー(with 大友良英、今堀恒雄 他)アヴァンギャリオン(with 内橋和久、吉田達也 他)などがある。15枚のアルバム(LP /CD)が日本・アメリカ・カナダ・スイス・フランス・香港などでリリースされている。演奏活動の他、各地で即興・ヴォイスや彫塑、空間ダイナミックスなどのワークショップを数多く行っている。

 

●カムラアツコ 80年代、日本初の女性パンクバンド「水玉消防団」で、ボーカリスト、ベーシストとして音楽活動開始。日本パンクシーンの一翼を担う。同時に天鼓との即興ボーカル・デュオ「ハネムーンズ」にて、ニューヨーク、モントリオール、ヨーロッパで公演、ジョン・ゾーンはじめニューヨーク・インプロバイザー等と共演。その後、英国に渡りポップグループ「フランクチキンズ」でホーキ・カズコとペアを組む。オーストラリアを始め、ニュージーランド、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、ソビエトなどツアー。90年代は、ロンドンで始まったレイブシーンでダンスミュージックの洗礼を受ける。2000年以降、「I am a Kamura」、「Setsubun bean unit」でフォーク、エスニック、ジャズ音楽の領域に挑戦。現在の自身のプロジェクト「Kamura Obscura」では、Melt, Socrates' Garden、Speleologyのアルバムをリリース。エレクトロニクス、サウンドスケープ、即興の渾然一体となったさらに実験的な新作「4AM Diary」を2021年末にリリース。同年秋、イギリスのポストパンクバンドNightingalesの満席完売全国ツアーをサポートする。2019年にはバーミンガムの映画祭Flat Pack Film Festival、2022年10月にはポルトガル・セトバルの映画祭Cinema Charlot, in Setubal, Portugal にて、日本の前衛映画の名作「狂った一頁」の弁士を務めた。

 

●水玉消防団 70年代末結成された女性5人によるロックバンド。1981年にクラウド・ファンディングでリリースした自主制作盤『乙女の祈りはダッダッダ!』は、発売数ヶ月で2千枚を売り上げ、東京ロッカーズをはじめとするDIYパンクシーンの一翼となリ、都内のライブハウスを中心に反原発や女の祭りなどの各地のフェスティバル、大学祭、九州から北海道までのツアー、京大西部講堂や内田裕也年末オールナイトなど多数ライブ出演する。80年代には、リザード、じゃがたら、スターリンなどや、女性バンドのゼルダ、ノンバンドなどとの共演も多く、85年にはセカンドアルバム『満天に赤い花びら』をフレッド・フリスとの共同プロデュースで制作。両アルバムは共に自身のレーベル筋肉美女より発売され、91年に2枚組のCDに。水玉消防団の1stアルバム発売後、天鼓はNYの即興シーンに触発され、カムラとヴォイスデュオ「ハネムーンズ」結成。水玉の活動と並行して、主に即興が中心のライブ活動を展開。82年には竹田賢一と共同プロデュースによるアルバム『笑う神話』を発表。NYインプロバイザーとの共演も多く、ヨーロッパツアーなども行う。水玉消防団は89年までオリジナルメンバーで活動を続け、その後、カムラはロンドンで、天鼓はヨーロッパのフェスやNY、東京でバンドやユニット、ソロ活動などを続ける。

◆天鼓 Official Site

天鼓の公式サイト。ヴォイスパフォーマーとしての活動記録、水玉消防団を含むディスコグラフィーなど。

◆Kamura Obscura

カムラの現プロジェクト「Kamura Obscura」の公式サイト。現在の活動情報、水玉消防団を含むディスコグラフィー、動画など。

◆水玉消防団ヒストリー バックナンバー


 

 

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