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水玉消防団ヒストリー第8回 1980年1月 新宿ロフト

取材・文◎吉岡洋美
協力◎地引雄一
 

女性パンクバンドとの邂逅

 
 楽器未経験のバンド結成から約2ヶ月足らずで初ライブ、1年も経ずして野外フェスに参加。カムラ曰く「無知蒙昧、傍迷惑をものともせず」、天鼓曰く「今さらながら、その厚かましさに脱帽、脱力」するほど、何の躊躇も迷いもなく突き進む水玉消防団。そのパワーは身内以外の耳にも止まり、79年末のある日、パンク・ミニコミ誌「CHANGE2000」の編集長、チホこと小嶋さちほのJORA訪問を受ける。
 丁度、東京のライブシーンでは同年の夏、東京、名古屋、関西のパンク、ニューウェイヴの24バンドが登場する6日間連続のライブイベント「DRIVE TO 80s」*が新宿ロフトで開催され、連日満員の大成功をおさめていた。前年に東京ロッカーズらが起こしたストリート・ライブシーンが、より大きなうねりになっていたときである。
 こうした流れのなかで水玉消防団は、チホからあるライブ企画に誘われる。それは80年年明けの1月3、4日の2デイズ、「CHANGE2000」主催で行われるパンク、ニューウェイヴのライブ企画「CHANGE!1980 New Year’s2Days Special 」だった。オファーは東京のパンク系女性バンドのみが登場する1日目。題して「80年にスパークするモダンガールズ」。会場は当時の東京のパンク、ニューウェイヴシーンの檜舞台だった新宿ロフト。これがJORAを超え、水玉消防団のライブハウスデビュー、パンクシーンデビューとなる。しかも、初共演は女性バンドのみ。
 そのラインナップは、78年結成の日本の女性パンクバンドのはしりであるボーイズ・ボーイズ、マリア023**を脱退後「DRIVE TO 80s」でもベース弾き語りで存在感を示したノンによるノンバンド、本イベント主催者でもあるチホがボーイズ・ボーイズを抜けて結成したばかりのゼルダ。そして、水玉消防団。紛うことなき、当時の東京のパンク・シーン黎明期のフィーメイル4バンドだ。

〔1枚目〕1980.1/3〜4、「CHANGE!1980」のフライヤー。1日目は女性パンクバンド・ラ イブ、2日目は「鋼鉄都市破壊指令0104!」のタイトルでリザードを中心に、突然段ボー ルらが出演した。〔2〜4枚目〕パンク+ニューウェイブミニコミ誌 「CHANGE2000」VOL.5(1979年12月)では、開催を目前にした「CHANGE!1980」の特集 が組まれ 、冒頭では編集長小嶋さちほの筆によるイベント口上、当日のフィーメイル・パンクバン ド4組も紹介された。[資料提供:地引雄一]

 カムラは、自分たち以外の女性バンドで、しかもセンスが分かち合える彼女たちを目の当たりにして「“こんなかっこいい女性バンドがいるんだ”ってびっくりしたし、とにかく嬉しかった」と昨日のことように振り返る。
カムラ「すごく興奮したのよ。もちろんホーキ星に出会ったときも興奮したんだけど、それにも似た感じだよね。本当に嬉しいの。ホーキ星のときのように『いるじゃん、ここに!』って。すごく刺激的なことだった」
「彼女たちなくしては、日本の女性パンク・バンドは語れない」と言うカムラが、この日初めて出会ったその3バンドについて、当時の実感とともに語る。
カムラ「ボーイズ・ボーイズは、ラモーンズのファンクラブをやってたボーカルのクミちゃんがフロントの、女の子4人のバンド。ストレートなロックンロールなんだけど、彼女たちでなければ出せない何かがある。シンプルだけど、それは、もうかっこいいサウンド。ノンバンドは、私にとってものすごく衝撃的なバンドで、だって、編成はノンちゃんのベースと背の高いケイコさんのドラムだけのときもあった。2人でベースとドラムだけのバンドなんて、それだけでも凄くない? 滅茶苦茶かっこいいわけ。ボーカルのノンちゃんは、声が高くて可愛らしい声で、一瞬聴くとロックのボーカルにはないタイプの声なんだけど、彼女の持つ真実性、本物感が猛烈に素敵で、存在感も凄かった。楽曲も単純な3コードじゃなくて面白い曲ばかり。そして、ゼルダ。楽曲がかけ値なく素晴らしかった。『こんないい曲を作る人たちがいるんだ』と率直に驚いたよね。ちょっとアジア的というかイースタン・メロディで、どこか日本でもないような不思議な哀愁感のあるチューン。なのにロック。その組み合わせがすごく新鮮だった。このときのライブは、まだボーカルもサヨコじゃなかった頃。“こんな素敵な曲がかけるなんて、凄いバンド”と思ったのをよく覚えている」

●BOYS BOYS「Monkey Monkey/Control Tower」(1980年)

●NON BAND「Duncan Dancin’」(1982年)

●ZELDA(1982年Live@日本工学院専門学校)

 カムラは「あの頃、必ずしも女性バンドが自分たちしかいなかった、というわけじゃない」と念を押す。
カムラ「当時、他にも女の人たちのバンドがゼロだったわけじゃないの。例えばカルメン・マキさんに憧れるカルメン・マキ&OZの系統の女性バンドが少なからずあって、それはもっと王道的なハードロックをやっている人たち。もちろん、テクニックもあればマキさんのように歌もうまい。まあ、私たちにはそこを目指そうにも、ハナから目指せないわけで(笑)。そういう意味では、本当にこのとき共演したボーイズ・ボーイズ、ノンバンド、ゼルダは日本の黎明期のパンク、ニュー・ウェイヴ女子バンド。皆、それぞれ全く違う個性。特に私にとってノンバンドとゼルダは当時のパンクシーン全てのなかでも3本の指に入るほど、大好きになっていったバンド」
 天鼓も同様にこの日の3バンドについて「シンパシーを感じた」と頷く。
天鼓「私たちも含めて、どのバンドも全然違ってた。皆が同じような“流行りだからこれをやろう”という感じが全くなくて、“このバンドだからこそ”というそれぞれのオリジナリティがあった。曲の作り方も皆、今までの音楽とは違うことをやろうとしていたし、刺激的だよね。それは本当にそう」 

ツインボーカル誕生、オリジナル曲へ

 
 では、この日、刺激的な共演を果たした水玉消防団自体は、バンドとしてどのような状態だったのか。実は田島ヶ原の野外フェスのあと、彼女たちには変化が起きていた。
 まず、それまでドラムだった天鼓がギターとボーカルになり、ドラムはメンバーのなかでも運動神経が発達しているみやもとSANへと変わった。
天鼓「段々と私が歌うことが多くなってきて、そうするとドラムと歌を同時に、というのが無理だった。太鼓を叩いてリズムをとって歌うというのが私には難しかったんですよ」
 バックにいた天鼓がギターを携えてフロントに立ち、みやもとSANはドラムでリズムを担う。この担当替えは彼女たちのバンドサウンドに決定的な影響をもたらす。まず、以前に増して自由に歌えるようになった天鼓はカムラとともにリード・ボーカリストになり、さらに水玉消防団の肝であるツインボーカルがここで発明される。
天鼓「結局、私たちは楽器があまり扱えないわけで、楽器は出来ないけれど、声が出せるんなら声でやればいいじゃん、となった。最終的に面白くなればそれでいいんだから」
カムラ「そうそう、とにかく私たちは楽器が下手で全然弾けないわけですよ。でも、歌なら天鼓と私が歌えるし、“こんな音を出したい”となったとき、楽器じゃ出来ないけど声なら出る。楽器技術の欠如を補うためにボーカルで穴埋めしようという。例えば、私か天鼓のどちらかが歌詞を歌うじゃないですか。で、間奏で何かリードが入ったらいいな、とか思うんだけど、誰も弾けないわけで。まあ、それ自体バンドとしておかしいんだけど(笑)。だから、そこでボーカルをとっていない私か天鼓のもう一人がコーラス……と言うより、ひとつの楽器の代わりとして声を出す。ギターソロなんかは出来ないけど、ボーカルだったら出したい音を出せるよね、私たち。って、そんな感じでツインボーカルが始まった」

1980.1/3当日の水玉消防団のステージ。〔上〕ギターを手にし、フロントでヴォーカルをとる天鼓。〔下〕天鼓(左)とカムラ(右)のツインボーカルもこの頃、ついに誕生。[撮影:地引雄一]


 そして、「誰も聞いたことがないドラムを叩く人」(天鼓)というみやもとSANのドラムも果てしなく自己流。このドラムが水玉消防団のステージングにもたらしたものは大きいとカムラは言う。
カムラ「みやもとSANのドラムってすごくユニークなんですよ。今思っても水玉の音のすごく重要なファクター。“どうしてこんなところでスネアの音が入るんだろう?”というような、意識的じゃないのに複雑な、誰にも真似できない不可思議なドラム。そして音はすごく強い。そんなもんだから、普通ドラムとベースってビートが合って気持ちいいってのがあるのに、みやもとSANとの場合、ほとんどない(笑)。私のベースがドラムにちょっとでもズレたらコケてしまって、気を許したらとんでもないことになってしまうわけ。だから、お互い必死で、逆にすごい緊張感。それがライブするほどに、いい意味でスリリングな気迫になってお客さんに伝わったような気がする(笑)」
 そのカムラも、この頃ベースプレイに変化が起きていた。当初、複数コードを1~2コードに減らして弾いていたわけだが、「それに飽きちゃった」。
カムラ「元来、私はどうしよもなく飽き性の性格で、例えばEならEのワンコードだけ弾くのが、もう耐えられなくなった。私たちで勝手に1コードにしたくせにね(笑)。なので、自分なりにちょっと違う音を入れてフレーズを作って遊び始めるようになったのがこの頃」

〔上〕「フレーズで遊びはじめた」、ベースのカムラ(左)、ギターのまなこ(右)。中 央奥でみやもとSANがドラムを担当している。〔中〕キーボードの可夜(左)、みやもと SAN(中央)とカムラ(右)。〔下〕ドラムの天鼓。この頃はまだ曲によって天鼓とみや もとSANがドラムとギターを交代していた。[撮影:地引雄一]


 曰く「要は、骨を拾ってバンバン叩き始めているうち、上に放り投げることを試した“2001年(宇宙の旅)”の猿みたいな。と言っても骨が宇宙船になる道のりは、“ま、いいや”(笑)」(カムラ)というバンドの変化。そうなると、どこまでも水玉流だったとは言え、カバー曲をレパートリーにしていた彼女たちはオリジナル曲を作り始める。
天鼓「何故かと言うと、カバーのほうが難しいから(笑)。そもそも、誰が聴いてもカバーだと思わないようなカバーをやっていて、そこからもっと自分たちのやりたいようにやり、最終的にはカバー曲ですらなくなっていく。気づけばそんな風にオリジナル曲が作れるようになったんだと思う」
カムラ「結局、田島ヶ原で11曲もカバーをやって、もうやりきったんだよね。大体、カバーでもオリジナルでもないようなことをやってたわけだけど、オリジナルならもっと自分たちで勝手なことをやっていいわけでしょ? それと、やっぱり天鼓がギターと歌で前に出てきたのは大きいよね。天鼓も『こんなコードをやろう』と提案するようになって、コード変化が段々加わるようになった。天鼓も私も歌詞を書いて二人で自由に歌えるようにもなったし、そこから段々楽曲も作れるようになったんだよね」

 縦横無尽なツイン・ボーカル、強くてツイステッドなドラムビート、フレーズを弾きまくるベース­­­­、そして強いワードの歌詞によるオリジナル曲。まだまだ、このロフトのライブ時点では途上的だったものの、つまり、水玉消防団の鬼気迫る音楽スタイルの要因がこの頃整ったと言える。
 

女性が等身大で表現しはじめたパンク・シーン


  さて、「CHANGE! 1980」での出会いきっかけに、彼女たちフィーメイル・パンクバンドは、お互いが企画し合い、共演を重ねるようになる。3ヶ月後の4月には、今度は水玉消防団の主催で女性バンドのライブ企画を六本木の小劇場「アトリエ・フォンテーヌ」で行い、早稲田のJORAでも同様にライブ企画が頻繁に行われた。特にゼルダ、ノンバンドとは「数えきれないほど」(カムラ)、新宿ロフトや渋谷・屋根裏、学園祭でも共演するようになる。
天鼓「一緒にやると、やっぱり楽。お互い、いい関係でしたよ。あの頃、(ゼルダの)サヨコちゃんはまだ高校生で学校の制服を着てたりして、話しても歳も随分違ってたんだけど(笑)、皆、楽しくやってましたよね」
カムラ「やっぱり、私なんかは土台がフェミニストでもあるから、ゼルダ、ノンバンドはじめ彼女たちとは、英語で“Solidarity”って言うんだけど連帯感があった。別に誰かにどう言われたから、というのではなくて、女でバンド、しかもパンクバンドをやってて、自分たちの存在感、方法で表現しようとしている。それだけで既に連帯感。やっぱり、そこにはシスターフッド的なものがあった。しかも、その彼女たちが皆、音も存在もすごくかっこいい。それがすごく嬉しかった」
 
 ところで、カムラはこの80年1月のライブよりも1年前の79年3月、「その凄さを今も覚えている」という強烈に記憶に残る、やはり黎明期の女性がフロントに立ったパンク・バンドのことも思い起こす。JORAでワークショップを行っていた竹田賢一がらみで訪れるようになった吉祥寺マイナーで、ある関西のバンドに遭遇していた。
カムラ「吉祥寺マイナーで見たアーント・サリー。あれはすごかった。Phewは天才だと思った。投げやりという言葉が合ってるのかどうか分からないけど、『どうでもいいわ』という歌詞を乾ききって歌う。全然熱くないのに、でも、熱い。痛くて熱い。そして、それがすごく“くる”。その表現は私の中にはない方法でとんでもなく鮮烈だった。と言うのも、水玉消防団はすごくストレートフォワードなんですよ。怒りのエネルギーをそのまま出す。でも、Phewの表現はそんな単純性のなかには押し込められないものがあって、現実のペラペラな虚像さえ体現しているような乾き方。彼女の感性で切り取られたあの時代の方向性は、確かに私たちの一つのリアリティでもあったんだよね。言われてみれば私だって世の中に対して『そうよね、どうでもいいわ』って感じなわけよ。それをPhewは叫ぶわけでもなく、ボソボソと繰り返し、そこにビッケのカキンカキンの物凄い情念が割れたガラスのようなギターが入る。これって何? って感じだった。無視できない。ああいうバンドは確かに東京にはなかった」

●Aunt Sally「Aunt Sally」(1979年)

●Aunt Sally 1979年Live

 
 80年代パンク、ニュー・ウェイヴシーンは黎明期から女性たちが楽器を持ち、等身大のまま自分たちから始まる音を表現し始めた場でもあった。それは女性オンリーのバンドのみならず、バンドのなかで一人メンバーとして存在感を放つ女性も少なくなかった。しかも、それまで女性メンバーと言えばボーカル、または楽器ならピアノ、キーボードが定番だったのが、例えば、カムラがアーント・サリーとともに吉祥寺マイナーで観たというINUの西川成子(b)、1月3日のロフトで特別出演したバナナリアンズの堀川成子(b)、ヒゴヒロシがミラーズのあと結成したチャンス・オペレーションのコミヤマヨシコ(g)、アレルギーのU子(b)のように、ギター、ベースを担うケースも多かった。そして、彼女たちの立ち位置は決して“花を添える”というものではなく、極めて他メンバーと横並び。放つ音とともにクールで瑞々しく、そこに新たな音楽形態の煌めきを感じるような、確かな存在感を放っていた。
カムラ「例えば、私も大好きだったチャンス(・オペレーション)のヨシコちゃんのギターはすごくかっこよかったよね。本人は『なんちゃってギターですよ』と言ってたけれど、いやいや、とてもキレがよくてエッジのあるニューウェイヴな音。あとで聞いたら当初は本当にギターを弾いたことがなかったらしいけど。アレルギーのU子ちゃんも、指弾きのものすごいベーシストだった。私は彼女の持つ独特の翳りもすごく好きだったよね」

●INU 1981年Live@原宿クロコダイル

●CHANCE OPERATION「Image Dance」(1981年)

●アレルギー@1984年新宿ロフト

 
 80年年明け早々の初のライブハウスをきっかけに、同時代の女性パンクバンドとシスターフッド的なつながりを得て、活動場所を広げていく水玉消防団。
天鼓「この80年からバンドとして面白くなってきた。それまでは言ってみれば型破りの何かエネルギーだけでやってた前哨戦で、ここからバンドとして皆が真剣になったんだと思う。色んなバンドを見て、色んなライブに出て。皆、やるからにはちゃんと面白くやろう、という気持ちは一致していた」
 さらに、「ここから場を広げてくれたバンドとの出会いがあった」と、カムラは言う。次回はさらに活動の場を広げてシーンに強固な位置を確立していく彼女たちの軌跡を追う。
 
 
*「DRIVE TO 80s」=当時パンクシーンでカメラマン、ライター、マネージャー等を行い、後にテレグラフ・レコードを主宰する地引雄一と、当時S-KENのマネジャーで後にニューウェイヴバンド、コンクリーツを結成する清水寛の2人を中心に企画、開催。当時の主要パンク、ニューウェイヴバンドが一同に集結し、会場の新宿ロフトの動員数を塗り替えた。出演バンドはフリクション、アーントサリー、不正療法、HI-ANXIETY、プラスチックス、自殺、ノイズ、フレッシュ、S-KEN、ヒカシュー、Mr. カイト、ザ・スタークラブ、ミラーズ、81/2、サイズ、P-MODEL、リザード、マリア023 、突然段ボール、ノン、モルグ、BOYS BOYS 、螺旋、バナナリアンズ。
 
**マリア023=1979年、ジュネ(vo,g)ノン(b)、テイユウ(d)で結成、サイケデリックでグラムなサウンドで独自の個性を示した後にノンが脱退、OTO(g)、元ワーストノイズのヒオキ(b)等、メンバーチェンジを重ね、ジュネの渡英により解散。ジュネは帰国後の80年、オート・モッドを結成。
 
●天鼓 1978年より女性のみのパンクロックバンド、水玉消防団で音楽活動を開始、80年代のニューウェイヴシーンで10年間活動を行う。同時に80年代初頭にNYの即興演奏に誘発され、声によるデュオの即興ユニット、ハネムーンズをカムラと結成、活動開始。その後、ソリストとして活動を続けるうち、86年頃よりヴォーカリストではなく「ヴォイス・パフォーマー」と称するようになる。「声を楽器に近づけるのではなく、より肉体に近づけるスタンス。あるいは声と肉体の関係を音楽のクリシェを介さずに見つめる視点。“彼女以前”と“以降”とでは、欧米における即興ヴォイスそのものの質が大きく変質した」(大友良英)。85年のメールス・ジャズ・フェス(ドイツ)以降、世界20カ国以上でのフェスティバルに招聘されている。これまでの主な共演者は、フレッド・フリス、ジョン・ゾーン、森郁恵、大友良英、内橋和久、一楽儀光、巻上公一、高橋悠治など。舞踏の白桃房ほかダンス、演劇グループとの共演も多い。水玉消防団以降のバンドとしては、ドラゴンブルー(with 大友良英、今堀恒雄 他)アヴァンギャリオン(with 内橋和久、吉田達也 他)などがある。15枚のアルバム(LP /CD)が日本・アメリカ・カナダ・スイス・フランス・香港などでリリースされている。演奏活動の他、各地で即興・ヴォイスや彫塑、空間ダイナミックスなどのワークショップを数多く行っている。
 

◆天鼓ライブ情報


3月15日(水)20:00~ 
DOMMUNE「NOISE大学プレオープン」
《Victoria Shen来日記念特番!》

渋谷パルコ9F@DOMMUNE #dommune
【出演】Victoria Shen/中村達也/河端一/天鼓/ラヂオEnsemblesアイーダ/doravideo

 
●カムラアツコ 80年代、日本初の女性パンクバンド「水玉消防団」で、ボーカリスト、ベーシストとして音楽活動開始。日本パンクシーンの一翼を担う。同時に天鼓との即興ボーカル・デュオ「ハネムーンズ」にて、ニューヨーク、モントリオール、ヨーロッパで公演、ジョン・ゾーンはじめニューヨーク・インプロバイザー等と共演。その後、英国に渡りポップグループ「フランクチキンズ」でホーキ・カズコとペアを組む。オーストラリアを始め、ニュージーランド、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、ソビエトなどツアー。90年代は、ロンドンで始まったレイブシーンでダンスミュージックの洗礼を受ける。2000年以降、「I am a Kamura」、「Setsubun bean unit」でフォーク、エスニック、ジャズ音楽の領域に挑戦。現在の自身のプロジェクト「Kamura Obscura」では、Melt, Socrates' Garden、Speleologyのアルバムをリリース。エレクトロニクス、サウンドスケープ、即興の渾然一体となったさらに実験的な新作「4AM Diary」を2021年末にリリース。同年秋、イギリスのポストパンクバンドNightingalesの満席完売全国ツアーをサポートする。2019年にはバーミンガムの映画祭Flat Pack Film Festival、2022年10月にはポルトガル・セトバルの映画祭Cinema Charlot, in Setubal, Portugal にて、日本の前衛映画の名作「狂った一頁」の弁士を務めた。
●水玉消防団 70年代末結成された女性5人によるロックバンド。1981年にクラウド・ファンディングでリリースした自主制作盤『乙女の祈りはダッダッダ!』は、発売数ヶ月で2千枚を売り上げ、東京ロッカーズをはじめとするDIYパンクシーンの一翼となリ、都内のライブハウスを中心に反原発や女の祭りなどの各地のフェスティバル、大学祭、九州から北海道までのツアー、京大西部講堂や内田裕也年末オールナイトなど多数ライブ出演する。80年代には、リザード、じゃがたら、スターリンなどや、女性バンドのゼルダ、ノンバンドなどとの共演も多く、85年にはセカンドアルバム『満天に赤い花びら』をフレッド・フリスとの共同プロデュースで制作。両アルバムは共に自身のレーベル筋肉美女より発売され、91年に2枚組のCDに。水玉消防団の1stアルバム発売後、天鼓はNYの即興シーンに触発され、カムラとヴォイスデュオ「ハネムーンズ」結成。水玉の活動と並行して、主に即興が中心のライブ活動を展開。82年には竹田賢一と共同プロデュースによるアルバム『笑う神話』を発表。NYインプロバイザーとの共演も多く、ヨーロッパツアーなども行う。水玉消防団は89年までオリジナルメンバーで活動を続け、その後、カムラはロンドンで、天鼓はヨーロッパのフェスやNY、東京でバンドやユニット、ソロ活動などを続ける。
 

◆天鼓 Official Site

天鼓の公式サイト。ヴォイスパフォーマーとしての活動記録、水玉消防団を含むディスコグラフィーなど。

◆Kamura Obscura

カムラの現プロジェクト「Kamura Obscura」の公式サイト。現在の活動情報、水玉消防団を含むディスコグラフィー、動画など。

◆水玉消防団ヒストリー バックナンバー

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