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にんじんごはん

 にんじんが余っていたのでにんじんごはんを作った。にんじんごはんの手順は意外にも単純だ。洗った米に擦ったにんじんとコンソメを入れて通常通り炊く。炊き上がったらこれにバターの欠片を落して出来上がり。誠に簡単なごはんである。
 このにんじんごはん、作り方はいたって単純なのに単純ならぬ旨みがある。端的に、極めて美味しい。正直、にんじんごはんを作った日は、にんじんごはんのことしか考えられなくなる。それほど旨い。にんじんの素朴な甘みが絶妙なのだ。また、コンソメの濃縮された野菜の旨みと、バターの風味も食欲を増進させる。
 色もいい。ほんのり灯っただいだい色。ジャーを開ける度、恥じらう乙女のような顔を見せてくれる。
 いいなあ。にんじんごはんは。罪な所がひとつとして無いなあ。にんじんごはんは。
 つまり私はにんじんごはんが大好きってことなんだ。うん。

 そのような訳でにんじんごはんを咀嚼していた私。明日もこの耽美なる食物を堪能しようと、今宵はほんの一膳だけに留めた。そうして安眠した。心なしか、夢心地が良かった。
 明くる朝、炊飯ジャーを開けるとにんじんごはんが半分以上消えていた。
 衝撃、困惑、狼狽。私は事切れかける。これは間違いなく、家人の仕業であろう。あやつが夜更けに我がにんじんごはんを大量に嚥下したのだ。私は腹を立てながら家人に詰め寄った。
「にんじんごはんさあ。旨かった?」まずは遠回しに尋ねる。
「ちょっといただいちゃった。めっちゃ旨かった」
 アルカイックスマイル。
 うそ。この人、大半を喰らっておいて「ちょっと」とかぬかし、なおそんな微笑みが出来るのか。

 瓦解だ。愛情の剥離だ。にんじんごはんを大量に貪る者など直ちに村八分だ。
「もう半分もないっすね」言ってやった。あえて殊更興味無さ気に言ってやった。
「ははは。君、昨日すごい食べてたもんね」
 え。
 え。である。
「え、誰が?」
「君が」
 理解不能だ。
「え、いつ?」
「夜中の三時頃」
 え。
 え。である。

「夜中にリビングから物音がするなあって思って覗いてみたら、君がニコニコしながらにんじんごはん食べてた」
「私が?」
「うん」
「にんじんごはんを?」
「うん」
「ニコニコしながら?」
 アルカイックスマイル。
 おぞましいことに、嘆かわしいことに、私は一切を覚えていなかった。
そんなことあり得るだろうか。にんじんごはんをジャーからよそってもぐもぐする記憶がごっそり抜け落ちるなんてこと、あり得るのだろうか。

 ははん。果たしてこれは家人の洒落かもしれんぞ。自分で食べてしまったにんじんごはんを、私が食べたということにして罪をなすりつける算段だ。その手には乗らん。
「でまかせだろう」
「ほんとだよ。にんじんごはんを食べ終ったと思ったら、今度はお湯を沸かしてコーンスープまで作り出したよ」
「お湯を沸かして?」
「『これがうんめぇんだ』って、満足そうだった」
 私は恐る恐る、キッチンのゴミ箱をのぞき込んだ。当たり前のように、コーンスープの袋、亡骸があった。

「使用した茶わんやスープカップなんてものがないじゃないか」
 もはや追いつめられた鼠でしかなかったが、それでも認めたくなかった。
「食べ終った後、自分で洗って片付けてたよ」
 日ごろの几帳面さが謎に出ている。どういうことだ。私であって私でないなにかが夜中ににんじんごはんを食べてスープまで飲んでいやがる。しかも録画していた『舞子さんちのまかないさん』まで楽しく見ていたようだ。
 こわい。病気を疑う。微塵も覚えていないのだ。
 自分の記憶の無い所で、別の自分が人生を謳歌している。というよりもにんじんごはんを食べている。なんなんだ。一体どういうことなんだ。

 そこで私はふと、似たような症状を患った青年がいたことを思い出す。そう、ビリー・ミリガンである。
 彼は解離性同一障害、つまるところ多重人格の持ち主で、驚くべきことに二十七もの人格を有する男性だった。
 その人格のひとつびとつは個性的で、中には女性の人格も子どもの人格も存在する。ふとしたタイミングで別の人物に変貌するその異質さが注目された。
 要するに、私もこれなのではないだろうか。
 私の人格の中に「にんじんごはんを食べるミリガン」が存在しているのだ。
 それでもって「コーンスープを飲むミリガン」もいる。「『舞子さんちのまかないさん』を楽しむミリガン」だっているのだ。
 彼らが主たる人格の私の知らぬ所で飯を食い、夜更かしをしているからこそ、私の体重は増加するし、目の下のクマも漆黒になるのだ。
くそう。憎い。にんじんごはんを勝手に食ったミリガンめ。でも、それは私の肉体なのだ。私の血肉となっているのだ。そこがどうしようもなく歯がゆい。歯がゆいぞミリガン。

 さてみなさん、近ごろやけに体重が増えたり、いくら寝ても疲れが取れないなんてこと、ありませんか?
 それはあなたの心に潜む別の人格の仕業かも知れません。

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