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車のいろは空のいろ

「これは、レモンのにおいですか。」
ほりばたで乗せたお客のしんしが、話しかけました。
「いいえ、夏みかんですよ。」
信号が赤なので、ブレーキをかけてから、運転手の松井さんは、にこにこして答えました。今日は、六月の初め。夏がいきなり始まったような暑い日です。松井さんもお客さんも、白いワイシャツのそでを、うでまでたくし上げていました。


黄色いタクシーが過去に戻るドラマや、タイムマシンなデロリアンの映画が放送されると聞いて、本棚から引っ張り出して一編ずつ就寝前のお供にしていた六月。夏みかんも美味しい季節ですね。

「車のいろは空のいろ」はあまんきみこさんの童話集。そらいろのタクシーを運転する松井さんのお話。
最初に引用した「白いぼうし」は教科書に掲載されているみたいで出会った人も多いんじゃないかな。残念ながら私の教科書にはなかったけれど。

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久しぶりに読み直して、ああ、私の好きなもので溢れているな、と感じた。25にもなって未だ夢見がちで童話が好きなんてどうなの、と思わないでもないけれど。きっと、幼いころからの嗜好が今の私にまで繋がっているってこと。

小さな子どもにも分かりやすい言葉で、みずみずしい表現に彩られた世界。魔法使いもドラゴンも、素敵な呪文も登場しない。
空色のタクシーを運転する松井五郎さんと、そのタクシーに乗るおきゃくさんとの僅かな時間を切り取っただけのお話たち。ただ、そのお客さんが小さな狐だったり、もしかしたらモンシロチョウだったり、行き先が不思議な場所だったりするだけ。
彼らはとても上手にお客さんとして乗り込んでくるので、私たちが気づいた時には空色のタクシーはもう不思議な世界のなか。松井さんは驚きながらも、とても素敵な運転手さんなので、その不思議を柔らかく受け止めるし、空色のタクシーはどんな場所にも行ける。ひとつひとつの言葉が素敵で、本当に私たちの身近にありそうな不思議とお客さん達、松井さんが本当に魅力的。

まちで空色のタクシーを見かけたら、後ろに乗っている坊やがたぬきじゃないかそっと覗いてみると良い。空色のタクシーに乗ろうとしたあなたが動物の毛を座席に見つけたら?そのタクシーの運転手は、きつねの兄弟を乗せたばかりの松井さんかもね。



好きなものは変わっていないなあ、と一番思ってしまったのはそれぞれの物語のおしまいの言葉たち。余韻を残すような、最後のページをめくる前に彼らの物語を小さく包んでお土産に持たせてもらったような。はい、お終いですよ、じゃなくて、その1秒先の松井さんがほんの少しだけ見えるような。うまく言えないけれど。



松井さんのタクシーはくまを乗せたり、白鳥を乗せたり、雲まで走ったりするけれど、同じようにB29という飛行機が空を飛んでいたり、爆弾が落とされた街の中を走ったりもする。静かに、他の不思議と同じように自然と幼い私の中に染み込んでいったな、と思い出して。

「すずかけ通り三丁目」はそういうお話。夏の暑い日に松井さんのタクシーに乗った婦人の行き先はすずかけ通り三丁目。松井さんの知らなかったそこは、とても静かで涼しくて、婦人の入った家からは楽しそうな笑い声。
物語の終盤に近付くにつれて、何と形容したらいいのか分からない気持ちが口から飛び出しそうになった。それを何と名付けるのか私は知らないし、あまんさんは正解なんか提示してくれない。私の好きな、彼女のことばでおしまいを綴るだけ。


車のそとにとびだしました。
なにか、ひとこと、いいたいのです。
それに、おつりもかえさねばなりません。
顔にも、くびにも、せなかにも、あせがすじになってながれています。
千円さつをしっかりにぎったまま、松井さんは、駅の長い長いかいだんを、かけあがっていきました。




梅雨が明けて空の色が濃ゆくなったら、夏が来るね。




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