未来のツイッター

誰もいなくなってしまった。

つぶやくのは自分のみ。たまにbotやカルチャーメディアのつぶやきが更新される。昔は有名だった人たちもつぶやくことがなくなってかなりの時間が経った。

それでもなぜ自分がツイッターでつぶやくのかわからない。新しいSNSが新興してきたわけではない。みんな何をやっているんだろう。

昔は良かった。毎日親しい友達がつぶやきを更新する。それに対してリプライを送る。そのふざけ合っているリプライに、また別の友人から横槍が入る。

そんなやり取りが楽しかった。友達が毎日何をしているのかわかって安心した。「風呂なうw」こんなつぶやきばかりだった。

今はどうだ。タイムラインには何度も同じつぶやきを見たbotが流れてくる。何度も繰り返し見たつぶやきだが、それが流れてくるまでは見なかったのと同じくらい日常生活で思い出すことがない。

親しい友人たちは結婚をして家庭を持った。自分にはいまだに生涯の伴侶となるような人はいない。友人全員が結婚したわけではないが、パートナーがいない友人もいつの間にかつぶやきが更新されなくなっていった。

どこでボタンをかけ違えたのか。

仕事で疲れた時は、もう何年も更新が止まった友人のアカウントを覗くのが日課になってしまった。1年分くらいは繰り返し見ただろうか。またこの人たちと繋がりたい。そんな思いがいつも頭をもたげた。

映画や小説の冒頭がこの書き出しだったら、きっとこの暗い状況を打破するような、奇妙で難解な事件が起きて物語が展開していくのかもしれない。でも、これは現実だ。劇的な事件も起こらないし、ときめくような出会いも生まれない。

ただ毎日働き、きちんと税金を納めて、たまの休みに好きでもないお酒を現実から逃避するように飲む。仕事は好きではない。毎日決まりきって、誰でもできるような作業をこなすだけだ。職場では誰も口を開かない。誰かと会話することが暗黙の了解として禁じられているからだ。

単調な仕事、変わらない日常。いや、変わらないというよりも、変える気もなく、変えることも許されない日常なのかもしれない。

そういえば、炎上という言葉も聞かなくなった。世界では、社会では何が起こっているのかを把握するのも難しい。

昔、ポール・オースターの『最後の物たちの国で』という小説を読んだことをふと思い出した。あの小説は今手元にない。『最後の物たちの国で』を思い出したのは、今のこのやりきれない状況が、あの小説の世界に似ているからだと気がついた。さて、どうしたものか。

『最後の物たちの国で』であれば、兄を捜索しに行った主人公の身の回りに事件が起こり、様々な人たちと出会う。今の自分はどうなんだろう。職場の人以外に人に会った記憶は久しくない。わずかなお金を握りしめて、たまに飲みに行く居酒屋の主人と、会話ともいえない会話を一言二言交わすだけだ。職場ではもちろん誰とも話すことができない。

「そんなに最悪な職場なら転職すれば?」と昔友人に言われたことを思い出す。でも、今となってはもう何もかも遅いのだ。転職するにしても、ほかの会社が営業できているのかもわからない。たまに道端で拾う新聞の情報では、昔は栄生を誇っていたほとんどの大企業は倒産してしまったようだ。わずかに生き残っている大企業も、実態として存在しているのかは疑わしい。

苛烈な社会だった。というと今が安心安全な社会のような言い方になってしまうが。「SNSがないと生きていけない!」なんていう言葉が昔はよく聞かれたが、それはまだ状況は良かった。「SNSがないと生きていけない」どころか、人々はSNS上でしか生きられなくなってしまった。そして、SNS上でしか生きられなくなってしまった人たちはいつの間にかSNSからは姿を消していた。彼ら彼女らは今も生きているのだろうか。それを考えるためには、生きることの定義を明確になせなければならない。

昔は「生きるとは」について、本を読んで考えるだけの体力があった。今はそのような体力は残っていない。毎日の単純作業で疲れた頭では何も考えることができないのだ。ただ、亡霊のように会社らしきものに通い、頭を働かせず、考えずに作業を行い、終業のチャイムが鳴るまで耐え忍ぶ。

そんな状況に反発したこともあったが、当然のように職場の隅に追いやられた。自分と同じように、反発した同僚もいたことにはいたが、みせしめのような扱いを受け、辞めるか黙るかしてしまった。そして、そのように反発する人は誰1人としていなくなった。今は会社が決めたことを言われた通りにやるだけだ。

なぜ辞めないのか?と思う人もいるかもしれないが、これも生きていくためだ。仕事があるのはまだ良いほうで、社会がスライドするように滑り落ちていったのを目の前で見た。隣で黙々と作業をする女性は、昔は誰もが羨む華やかな仕事をしていたらしい。その女性が入社した時にこっそり教えてくれた。僕は目を合わさず、うなずきもせず、ただ黙って聞いていた。その女性の目は輝いていた。

しかし、その輝きは入社して1ヶ月とたたないうちに失われていった。特に何があったわけでもない。特に何もなかったのだ。

いっそのこと死のうと思ったこともあったが、死ぬことさえ許されない。医療が飛躍的に発達したことで、どんな病気でも怪我でも死ぬことはない。最初は喜ばしいことのように社会は受け止めたが、じきに死ぬことすら許されない社会に絶望をしていった。何年も前から死亡者0が続いている。

わずかな賃金から多くの税金が天引きされる。収入が少ない時は赤字になることさえある。どんなに生活費を節約しても、だ。お金を払って働くこの状況が馬鹿馬鹿しい。ツイッターではそんな国家の搾取に対して反対を表明する人たちがいたが、すぐに消えていった。

あれだけ好きだった本も今はすべて手放してしまい、手元には1冊も残っていない。音楽も同様にもう何年も聞いていない。好きだった歌や曲がたくさんあったような気もするが、そんなことも忘れてしまった。

自分は今何歳なんだろう。そして、死ぬことも許されないこの社会であと何年生きればいいのだろうか。暗い夜道を明かりを持たずにずっと歩いているような気持ちだ。物語は始まりもしなければ終わりもしない。

と、ここまでツイッターに書き込み、投稿ボタンを押して、僕はパソコンを閉じた。あとは何ができるだろうか。

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社会の分断が徹底され、「生権力」と搾取が行き届いた曖昧で抽象的なディストピア「風」短編小説を気づいたら書いていました。こういう世界にならないためにも選挙、行きたいですね。

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