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短詩観賞 髙鸞石『真経験・天』より

髙鸞石 『真経験・天』

米に象 時代と言葉争えば

まず、米に象とくれば穀象を思い浮かべる。
時代と言葉が争うのではなく時代の言葉と己の言葉が争うということと読んでみる。
勿論己も時代の一部ではあるが、独り先の時代を生きているということかもしれない。

言葉は単なる言葉そのものかもしれないが、言語表現、詩としてもよいと思う。
争う相手は特定の個人ではなく時代という大きなものである。
米に象に戻ると一つの米粒を己、象を時代と取るか、時代を無数の米粒、対する己こそ象と取るか。
一字あけは切れではなく断絶であろう。
それも一句の中に断絶を作るというより、象と時代を断絶せしめるものではないだろうか。
ならばやはり象は己ではあるまいか。
米櫃の中の穀象は争いの果てに遂に象となって己の時代を独歩するのかもしれない。

孔雀無色にわが精神の塩の灯台

試験官の魚に救えぬプールの魚

十二月も八月も貝羽化はせず



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