他者に合わせる人こそ自己中で不自由 / アドラー心理学
私は、かなりライトな層のアドラー心理学支持者だ。
なぜライトかと言うと、かの有名な『嫌われる勇気』と『幸せになる勇気』くらいしか、しっかり読んでいないからだ。
アドラーは、全然本腰入れて勉強してない。
都合のいいところだけ、都合のいいときだけ、軽〜く取り入れている。私にとってアドラーは、学問というより取説みたいなものだ。
でも、アドラー心理学は間口が広いし、そもそも「他者の課題には介入しない」スタンスなはずなので、私のようなにわか信者に対しても、きっと排他的な目線は向けてこないと信じている。
だから大丈夫。
その「課題の分離」について以前少し書いた。
その中で「宿題として持ち帰る」と書いたまま放置していたことがある。ずっと、あの話書きたいな〜とは思っていたが、真剣に考えるのがなんだか面倒で後回しにしていた。
「人にどう思われるか」についての話。
私はこう書いた。
『嫌われる勇気』には、
承認欲求と絡めてこう書いてあった。
人からどう見られているか?
自分は人からどう見られているか?
自分はどう思われているのか
自分は評価されているのか
自分には価値があるのか
自分は、自分は、自分は…
うん、自己中!!!(笑)
周りより自分のことばっかり考えてる。
周りに合わせるのは、自分の見え方を気にしているから。本当に周りの人のことを想って、なんかじゃない。
もちろん、周りに合わせないと組織として機能しない場面もたくさんあるが、そういう集団行動的な話じゃなくて、もっとパーソナルな場面の話として。
私は昔、仕事で年上の方に「気が利くね!」と言われるのが一番嬉しいと思っていた。
「気が利く」ということは、「君、良いね!」という良い評価をもらえたということだからだ。
相手のニーズを先回りして、それが合っていて、相手の役に立てた、ということだからだ。
だけど最近、「気が利くね」はあくまで相手が感じることなのだから、本当は自分には全く関係がないことだったのだ、と分かってきた。
その言葉をもらうことを「目的・喜び」にしてはならないなと思う。言われたらラッキー♪くらいな軽いものにしておいた方がいい。
頭の中に思い浮かべるべきは
という質問ではなく
という質問だと思う。
意識のベクトルは、相手へ向ける。
相手の頭の中、心の中だけを考える。
そこに自分は、いない。
いなくていい。いないほうがいい。
うまく言えないけど、そういう感じを
忘れそうになるとよく意識している。
そうすると、
相手にどう思われるかとか
「気が利くね」と言われたいなとか
成長したいとか良い評価をもらいたいとか
そんなのはもはや、どうでもよくなる。
相手に意識が集中しすぎて、
自分の存在を忘れていくような。
相手は、何をしたら喜ぶかな?
今、何を求めている?
私にできることは何?
そういう質問をたくさん頭の中に浮かべて、考える。
考えて、考えて、考えてもそれでも分からないなら、ためらわずに相手に聞いたほうが早い時もある。
なんてウジウジ思っているうちは、たぶん自己中が発動している証拠だ。
一見、他者への気遣いや思いやりにも見えるが、少し違うような気がする。
結局、相手の中に映る
「自分」のことしか考えていないのだ。
昔は、愛想の良い人の方が
絶対に優しいのだと思っていた。
でも、無愛想な人の方が
意外と相手のことを考えてたり
客観的でみんなに公平だったり
人当たりが良く優しそうな人が
案外計算高かったり
感情的で主観的だったりして
「本当の優しさってなんだろう?」と
だんだん思うようになった。
恥やプライドなんてどうでもいいと、
関心のベクトルは、常に目の前の他者だけに
まっすぐ向けられるようになりたい。
とてもシンプルなことなのに、
それがすごく難しい。
早く、その域に行きたい。
修行は続く。
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