見出し画像

今寝てもいいよ / よしもとばなな『なんくるない』


私は、読書家と言えるほど本を多く読んではいないけれど、「好きな作家は?」と聞かれたら「よしもとばなな」と答える。

まだこれまでの作品全部は読めていないし、出版年もバラバラに、生活の中のスキマ時間でマイペースに色々読んでいる最中なので、誰かに語れるほど作品と作家の歴史や背景までは知らない。よしもとばななだけでなく、正直どの作家についてもそんな感じであまり詳しくない。

そんな私でも自信を持って説明できることはある。それは、作品を鑑賞しながら出会う言葉の表現に、「この表現いいなぁ〜このニュアンスを言語化できるなんてすごいなぁ〜」とワクワクしたり嬉しくなる瞬間こそが一番楽しいということ。

中でもよしもとばななの書く文章は繊細で詩的で、言葉のチョイスが秀逸で、そんな瞬間にたくさん出会えるから好きだ。


ストーリーが面白いとか、最後にどんでん返しがあって裏切られた!とか、そういう仕掛けももちろん好きだけれど、小説だけじゃなく映画もドラマも音楽も、それがフィクションである以上「作り手が意図的にその言葉を選んだからには、何か伝えたいことがあるはず」という視点が常にあり、意識のアンテナがどうしてもそこに向いてしまう。

せっかくなのでそれ(印象に残っている言葉の表現やその時感じたこと)を、今後はここに忘備録として記録していこうと思う。

読書感想などとは少し違うかもしれない。作品全体に対しての感想ではなくて、めちゃくちゃピンポイントなところに焦点を絞って、そこに私なりの感想や経験談を添えて、私も感情や感覚の言語化の練習をここでやってみようと思う。

もしもいつか誰かが私の文章を読んで共感してくれたら最高だけど、とりあえずは他者の目はあまりに気にせずに、自分との対話?思考の整理?という感じで、マイペースにやってみる。


早速だが、よしもとばななの『なんくるない』が好きで何度も読んでいる。沖縄の旅が舞台の4つの短編小説で、沖縄にいる気分に浸れるので、旅をしたくなるとたまにぱらぱらと読み返す。

印象に残っているフレーズはたくさんある(のでそれはまた別の投稿で書く)が、一番印象的だったのは、本自体のタイトルにもなっている『なんくるない』という短編ストーリーに出てくるこの表現。

わかってもらえるということはただそれだけで、もう「今寝てもいいよ」っていうふうにふわふわに整えられたベッドを用意してもらっているのと同じくらいに、ほっとさせられるものだ。

よしもとばなな『なんくるない』(新潮社、2007文庫版、p.132)

初めて読んだ時、うわ〜と思った。なにこの表現、優しすぎる。誰かにわかってもらえる安心感を、ふわふわの布団で眠る心地よさ、しかも誰かが「寝てもいいよ」って言ってくれる幸せに例えて表現するなんて!

ちなみに、これはどういう文脈で出てきた描写なのかを説明しておくと、主人公は1年前に離婚した夫に、自分の性格や思考のうまく言葉にはできない部分をあまり理解してもらえなかったことに未だに傷ついていた。そんなとき、過去に実の姉から言われた言葉を思い出す。

「でも、あんたがそう見えるよりも自信がなくて、人のことを気にしてあげる性格だっていうことは、いつまでたっても彼にはわからないみたいね。」
姉のその言葉を何度も思い出した。それがなかったら、いつまでもそれを思い出せなかったら、どこかの段階で私は傷ついて倒れこんでしまっていたかもしれない。

同著より引用(p.131-132)

子どもの頃から一緒にいる、血の繋がった、心から信頼しているきょうだいからのふとした言葉が、主人公にとっての「わかってもらえる」「この世界に自分のことをちゃんと理解してくれている人がいる」という安心感、心の支えになっている。そういう状況の中で出てきたのが、さきほどの表現。


人間って、どうして自分のことを正しく分かってもらえないと辛いんだろう?自分だって相手のことを正確に理解できているわけじゃないのに、自分のことは誤解されると悔しいし傷つく。ほんと自分勝手だと思う。笑

でもだからこそ、相手の伝えたいことを理解する努力をしないといけないし、自分の伝えたいこともなるべく齟齬なく理解してもらえるように言葉を尽くす努力をしないといけない、ということなんだろう結局。面倒だけど。


最初の引用に戻るが、「今寝てもいいよ」と言って誰かに布団まで用意してもらえることの贅沢は、年齢を重ねるごとに分かってきたように思う。特に一人暮らしをしたり、結婚して子どもの世話をするようになると痛感する。布団を用意する側を自分がやることは増えたけど、自分が言われることはここ数年ほとんどない気がする。お金払って宿に泊まったときくらいだな。


子どもの頃、幼稚園だったか学校だったかも行かなくていい休みの日、母が時々「ちょっと昼寝したら?」と言って、和室に敷布団を用意してくれた。(昼寝する習慣はあまりない家庭だった)

ピタッとした窮屈なズボンを脱いで布団に寝転ぶと、母がタオルケットをかけてくれた。隣の部屋では母がテレビを見ていて、その気配を感じつつウトウトしていつのまにか眠った。

夜に寝るのとは違って、昼間に「今すぐ寝てもいい」っていう状況、ご褒美感があるのはどうしてだろう?寝てもいいし寝なくてもいい、っていう自由な感じがいいのか。それとも他の人は起きてるのに自分だけ寝てていいっていう特別感が嬉しいのか。

ちょっと熱っぽくて保健室に行ったら、保健室の先生が「次の授業は休みなさい。ちょっと横になったほうがいいよ」とベッドのカーテンを開けてくれた時、「やった。次の授業出なくていいんだ、寝てていいんだ」と内心喜んでいた。ほんとは大してしんどくもないくせに、結構辛いフリなんかして。

実際に周りの人に確認したことはないけど、そういう人の方が多いんじゃないかと思う。(もちろんしょっちゅうそれだったらまた話は別で、年に1〜2回くらいのレアなことという前提で)


話が逸れたので戻す。
誰かに自分のことをわかってもらえることと、「今寝てもいいよ」と言ってくれる人がいることを、同じくらいに「ほっとするものだ」と表現されているのを見て、私は「素敵な言葉の選び方だなぁ」と思った。こういうのを「ボキャブラリーがある」って言うんだろうなと。(プロだから当然なのかもしれないけど)

単に、「わかってもらえるということはただそれだけでほっとさせられるものだ。」と表現しても問題はないのに、「寝てもいいよ」の例えを入れることで一気に「ほっとする」の意味が深くなり、共感もしやすくなる。

言葉っておもしろいなぁ。可視化できない感覚的なものを、言語化してニュアンスまで伝えるって難しいな。

〇〇ということはただそれだけで、〜と同じくらいに、〇〇なものだ。

言語化の練習で、この表現で何か応用できないかと考えてみたけど、何も思いつかない。笑
また思いついたら書こうと思う。

今寝てもいいよ。眠くなかったら寝なくてもいいよ。時間になったら起こしてあげるから寝ててもいいよ。

「寝てもいいよ」って優しい言葉だね!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?