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つ ぶ

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つぶやきの つぶ。 この世の本当のことってなんだろう? についてのつぶやき。 小難しい言い回しのつぶやきからライトなつぶやきまで
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自立とは…。
今思い浮かぶものとしては、

「自立とは、
意味、目的、価値が見出せなくても立っていられること」

と言いたい気分だな。

今までの全ての選択が、
他人に強いられたものではないと知る時に、自分は自由でしかなかったと知るのだと思う。
が、ヒトは逃げ道が欲しいので、そんな事知りたくないのだ。
「私は本当はいつも、これからも自由なのだった」と気がついてしまったら、何かのせいに一切できなくなるのだから。

八方美人はある時点で八方塞がりの八方不美人になる。
その事実をつきつけられてもなお八方美人であれる人を、真の美人、真の八方美人と私は呼ぼうと思う。

価値からの解放
信念からの解放
意味からの解放

自我はこれらからの解放を嫌がる

自我は
意味によって生まれ
信念によって強くなり
価値によって肥大しているから。

考え方ひとつで世界は変わります。

そりゃーそうです。
世界は考えだからです

緊張してようが、緩んでようが、どうでもいいんだ。
とわかるから、
結果、緩む。

「有」はそれ自体が「無」である。
もしくは
「有」は「無」とは全く関係がない。
といえる。

という哲学の考察結果が非常に好きだ。

「人生は壮大な暇つぶしである」というのを否定的な意味として取る方がいるようだが、「壮大な」というところを見落としているのだろうと思う。
この「壮大な」というところに「人生は壮大な暇つぶしである」と言った人の「人生」と「暇つぶし」に対しての多大な敬意と肯定を感じるのであるが…。

人生のあらゆる取引から手を引くと、愛だけが残るとか、全ては愛だったことがわかる。
というが、取引人間社会で手アカのついた愛しか知らないと、愛だとは思えないかもしれない。

あらゆる人生の取引から手を引くと愛がやっと見えてくるのであって、
今まで愛だと思ってたものは取引だったと気づくかもしれない。

ところで、
私はこれらのつぶやきを言葉によって書いているが、
あなたは言葉を信じてはいけない。
言葉を発する私は言葉を信じるしかないのだが。

どのような世界観であってもどうでもよくて、「そうである」(←こう言った時点で一つの世界観だが)という事と関係がないのだ。

私=世界だが、
他人に言えることではない。
じゃあ、それぞれに世界があるのか?
と言う話に発展するから。
そういうことではないから。
だから、語っちゃうとダメなんだなぁ…。

感じる、ただある、ということが根こそぎ解釈だ。
さらに、何もないというのも解釈だ。
言葉なできないというのも解釈だ。
まだ、俯瞰視点が残っている。
その俯瞰視点が「私」です。
「わかってる」ところには「私」があります。