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回避

愛着スタイルについての本を読んでいる。
愛着スタイルとは、他者に対しどのような態度で接する傾向があるかで、
幼少期に親や周囲との関係を通して形成される。
大きく安定型、不安型、回避型、不安型と回避型の両方がある混乱型、
の4分類がある。
わたしは安定ー回避型で、基本は安定型だ。

現代社会は愛着スタイルの問題が、
地球温暖化や環境汚染といった問題と同じくらい重要であるそうだ。
人間は社会的な生き物であるが、人との関係性を回避しようとする、つながりが希薄な別の生物に種として変わっていくともとれるような、心の問題に収まる話ではないようなのだ。
まぁ、本を読んだだけのわたしは、そのスケール感はわからないが、
愛着スタイルは子育て、恋愛、結婚、仕事、介護、ありとあらゆる社会的活動と繋がっているし、
現代社会は回避型をもっているのが一般的、基本となってきているようだ。
愛着スタイルはつながりの力であり、根底につながるのを恐れるスタイルがあれば、ありとあらゆる活動、人間関係でつまずきを抱えることになる。
安定型でなければいけないというわけではなく、
回避型の方が仕事では有能だったり、不安型ならば家族に尽くすのに長けていたり、理解しながら生活を営んでいく、という意味で、この学びは有効だったりする。

回避型は、人と親密になるのを避ける、一人の方が気楽、結婚や子どもをもつことに消極的、責任や束縛を嫌う、傷つくことに敏感、失敗を恐れる、などがあり、
そういった特徴を持つ人が急増していると言われているらしい。
一見、社交的だったり社会で活躍している人にも幅広く認められるようになっており、回避型愛着スタイルが根底に広がっているようだ。
健常レベルの状態を「回避型」、障害レベルを「回避性」とわけており、
この2つは真っ二つに分かれているのではなく、つながっている連続した現象である。

この辺が、本から学んだことで、
わたしは回避型をもっているな~と認識した。
愛着スタイルの診断は、検索すればだれでもできる。

その診断の質問から予想するに、
いやなことがあったら引きずるとか、経験していないことに不安を覚えるとか、
責任の回避や傷つきの回避はけっこうあるだろう。
世間話など親しくなるための会話を好まないとか、恋愛や結婚、子どもをもつことに積極的になれないなども、そういえば回避型が影響しているのかもしれない。
回避の良くない影響は、失敗を恐れて挑戦しないことによって、人生が萎んでいくことだそうだ。

不安や恐れは、だいたいが妄想で、
今までずっと挑戦してもダメだったから、どうせやっても無駄だろう、
よくないことが起こるだろう、
というのは、そうとは限らないのである。
不安や恐れを大きくすることによって、傷つかないよう事前にそのような状態を回避しようとするのであるが、
その場合、不安や恐れをそのままに、立ち向かうしかないのである。
そして、恐れていたことは起こらなかったと克服していくことで、恐れや不安は小さくなっていくのである。
逃れようとすればするほど、不安や恐れはどこまでもつきまとう。

わたしの中には、
どこまでもつきまとう、しつこい不安や恐れが、それなりに存在する。
学校や仕事といった、責任や困難の予想されることである。
まぁ、それらを常識的に、周りと同じように引き受けねばならない、とも思わないが、
仕事やはたらくことは、それなりに楽しいだろうなと、やってみて思ったことがいっぱいあるし、
事前に責任や困難を予想し回避する、不安や恐れを大きくする傾向があるので、これはつつきまわして殻を破ったり壊したりするのは、それなりに楽しいことだろうなと思う。
不安や恐れが、かつてより小さくなった証でもあると思う、困難に立ち向かうのが楽しい側面もあると思えるのは。
いつまでも動かないこと、岩のごとし。なのだ。不安や恐れは。
意識すればするほど、なくならないし、圧迫してくるし、意識しない方がよいのでは、却ってスムーズにものごとが進むのでは、と思われるのだ。
でも、意識すればするほど、不安や恐れを感じるという、めんどくさいことをやっている自分にも気が付く。
そうすると、ひたすらの葛藤と心身の抵抗と重苦しさの中にある、快感に気が付く。

より具体でいうならば、出勤するために準備しなければいけない時間に、「今日もこの調子だと行くことができなそうだぞ」と、
たらたらとしてさっぱり動きたくない自分に気が付く。そうすると、さっぱり動きたくないのだが、ただ起きて着替えてごはんを食べてもいいはずなのだ、いくためでなくとも。
そうしてすっかり準備をすれば、心持ちひとつで気まぐれに、行ってみようかで出勤すればいいだけになる。
それがわかっているから、ギリギリまでたらたらし、どうしても行かれない時間になってから、さっきまでやたらと葛藤していたのがうそのように、
ふつうに動き出す。
だから、この場合、たらたらして一日を過ごしてもいいから、準備のじかんに起きてハミガキの一つもするのだ、と実際に動きだしたときに、
大きな岩に抗ったことになり、快感になるのだ。
このような快感は、人と比べるのをやめたときに、だれにでも起こりうる、挑戦と抵抗による快感であろうと思う。
これがあると、けっこう気持ちいい。最近タフになってきたな~と思うのは、何かしらの負荷に、何かしらの挑戦と抵抗の快感を見出せるようになってきたところだ。
この場合、結果は大事とされない。あくまでも、あとになってついてくるもので、ついてこないかもしれないが、それも引き受けての挑戦のための挑戦になるのだ。

こういった、
しょうもないごく個人的な経験は、非常に恥ずかしくて
表に出すことに抵抗があったのだけど。
それこそ、人と比べたり、人の顔色をうかがう意識のゆえだなと思い。
人のことを気にし始めたところで、それは純粋に自分にとっての挑戦をする、という行為につながらないのでないか、という気がしていた。
それに、潔癖だなと思うのだが、人を気にするというのは、ずっと誰のためにもならないといわかんがあり、疑問があり、そんな自分もまた、
とってもかっこ悪かった。
かといって、こんなしょうもないごく個人的な経験や感じを、外に出すのも
また、どこか恥ずかしくあるのだけど。
でもまぁ、抵抗はちいさくなっている。
別にそんな、恥ずかしいと気にするひとは、自分ばかりなのである。
文章を愛し、文章を読み、文章を書く者としては、
ごく個人的な経験や、思考、感情の深まり、探求こそが、より豊かな気づきやこころの動きを人に与えると信じているのだ。
より、自分の思考、感情は明確に、素直に、どこまでもそのまま、ありのままを表にだし、真摯にじぶんと向き合う、ただその行為、時間をつみ重ねることで洗練させていく、そこに喜びと意義とを見出しているのだ。
だから、恥ずかしいなどと表面的なふわふわした感じに収めておき思考を放棄するなど、それこそかっこ悪くて、気持ち悪かったりするのだ。

そんなこんなで、最近はやたらと、
克服されるかも向き合っているかもわからない「はたらく」や仕事、お金、生活面に対して、やたらと言葉にしたり、夢をみたり、いろいろしている。
今のところ、回避がつよいな~~
という認識で、そんなに現実的にいろいろ考えたりしているわけではないけれど。

でも、回避とは、本当に面白いテーマなのだ。
人によって、それぞれに回避してしまう物事、あると思うのだけど、
そのどんなに頑張ってもビクともしないように思える、大きなどっしりとした岩を、でもすごく邪魔だしどかしたい、というどうしようもないもどかしさ、それぞれの向き合い、どう克服するかは、
本当にドラマチックでおもしろいのだ。
向き合うことすらできないかもしれないし、挑戦しても報われないかもしれないし、いつもつまずいて悔しいかもしれないし、克服できないことを覚悟で立ち向かうかもしれない。
本当に、本当に、ヒューマンドラマで、ドラマチックで、愛おしくて、楽しくて、面白くて、しょうがないのだ。とってもすてきで、ピュアで純粋でメロメロになっちゃうのだ。その、向き合おうとする姿が。
そういうドラマに、いっぱい、いっぱい、出会いたいな~~~とかも、けっこう思っちゃうのだ。うむ。
まずは、自分の回避に、新たな展開が生まれることを望むのだけど。けっこう。うむ。

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