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『ノルウェイの森』雑感

ノルウェイの森を久しぶりに読んだ。大学1年か2年の時以来なのでざっと15年振り。

当時の感想なんて覚えてないけど、読み進めてたらトンデモないことを思い出した。20代の中頃、俺は主人公ワタナベのセックスを真似してたのだ!
感想は覚えてなかったのにめっちゃ影響受けてたのだ!!
まあそれ以外にもかなりの時間をおいて(主人公の学生時代からドイツに行くまでと同じくらい)再読してみて引っ掛かった部分もあるのでツラツラと感想を書きます。トンデモ系ですけど。

『ここ』と『こっち』のレトリック

何が引っ掛かったかって言うと、阿美寮で療養中の直子を訪ねるも発作を起こしてしまうので、レイコと一時的に外出したあと戻った時の場面。

「ここに来て」と直子が言った。(上巻257頁4行目)

「ここ」じゃなくて「こっち」じゃない?

レイコさんは直子のところに行って、頭のてっぺんに手を置いた。(上巻256頁14行目)

とあるからワタナベはちょっと、少なくともレイコと比べると、遠くにいると思う。

ちなみに「ここ」の用法として別の作品を引用します。

♪「あたしはこ~こ~にい~るよ」
♪「此処でキスしてぇぇ~」
の2つなんだけどどちらも今この場にいない人に向けた歌ですよね。
あるいはキスできる距離にいるか。

だから「ここ」って単語は空間を共有していないか、位置を点で共有しているかの場合じゃないと使わない言葉なんじゃないかな、と思うわけです。

人を呼ぶ時って「ここ」よりも「こっち」じゃないかな~って時にフと思いました。直子は統合失調症で他者との距離感がわからなくなってんのかな、と。それを村上春樹はたった2字で表してるのかな、と。

え、村上春樹天才じゃん!

やられた~って思ってそのまま一気に読み進めて、そしたら最後でまたやられました。

最後の最後に、自分の想いを伝えようとワタナベは緑に電話しますが、

「あなた、今どこにいるの?」(下巻293頁3行目)

の一言で今自分がどこにいるのかわからなくなって物語が終わるんです。
つまりワタナベはずっと「ここ」にいなかったんです。他者と時間や空間を共有して、普通に生活してたと思ったら、自分は誰とも何も共有していなかった。他者との接触から遠ざかってた、と言うことに気がついてパニックになると言うエンディング(と俺は解釈してるん)です。

さっきの「ここ」か「こっち」かと言う話は統合失調症を2文字で演出したわけじゃなかったんですね(笑)
よく考えてみれば直子が隣を指し示していた可能性あるし。
ラストの「ここ」ではない「どこ」かにいた自分に気付く時の為に「ここ」って単語を多用しておきたかっただけだな、多分。

それを証明する様に、この小説では重要なメッセージを伝える手段として手紙が多用されます。
まさに「ここ」ではない「どこ」かにいる人に向けたメッセージ。

なんてこったこの小説はここではないどこかにいる人としか深いコミュニケーションが出来ないなんて!
そしてよく考えてみるとワタナベと直接「ここ」で深いコミュニケーション取った人物は死んでしまうのだ!!

ワタナベと交流を持つ登場人物は以下の通り。

①直子
②緑
③キズキ
④レイコ
⑤永沢
⑥ハツミ
⑦緑の父
⑧突撃隊
⑨伊東

9人中4人が死亡、1人が行方不明。
コナン君もビックリだ。

突撃隊も寮長から「退寮した」(上巻103頁12行目)としか言われていないことを深読みすると、実家に帰って自殺してたっておかしくないよね。寿命の短い蛍をプレゼントしていなくなるなんて正にとしか言い様がない。


コミュニケーションによって死に至らしめる能力

じゃあなぜ如何にコミュニケーションで人を殺せる能力を身につけたのか。そして他の4人が死ななかったのはなぜか。

人を殺す能力は、キズキによる死後の念と考えるのが妥当だろう。

死の直前2人はビリヤードをやる。

ゲームのあいだ彼は冗談ひとつ言わなかった。これはとても珍しいことだった。(上巻51頁8行目)

おそらくこの言葉のコミュニケーションをとっていなかった時に【コミュニケーションで人を殺す能力】キズキからワタナベに授けられた。あるいはワタナベの中でこの時自発的に目覚めた。
そしてキズキの死によって確固たるものになったのだ!

永沢が死ななかったのは、永沢がワタナベと同種だったからに他ならないでしょう。外務省合格祝いの席でもその話が語られます。(下巻125頁8行目)
ひょっとしたら同種と言うだけでなく、人を殺す能力まで永沢は持っていたのかも。あの態度はハツミを殺したくなかったからだったりしたら見方変わりますね(笑)
超ツンデレの超切ない話じゃないか(笑)


緑はなぜ死ななかったのか

緑はなぜコミュニケーションによって死に至らなかったのか。
これは難しいので会話シーンを抜き出す必要があります。

①大学近くのレストラン
 ノートを借りる場面(上巻105頁5行目~)
②四谷
 緑が過去を語る場面(上巻120頁5行目~)
③小林書店
 火事を見ながらキスする場面(上巻138頁3行目~)
④新宿
 昼から飲む場面(下巻47頁3行目~)
⑤寮~大学病院
 緑の父のお見舞いの場合(下巻56頁15行目~)
⑥新宿~小林書店
 飲んでSM映画観てディスコ(下巻150頁15行目~)
⑦文学部の裏手の小さなレストラン
 四つ折りのレポート用紙(下巻204頁14行目~)
⑧水曜の講義
 ほぼ無視(下巻216頁5行目~)
⑨高島屋~緑のアパート
 2ヶ月振りの再会(下巻225頁7行目~)

①②⑧では濃い色のサングラスをかけている。また③~④の間では緑は父のことをウルグァイに行っていると嘘をついている。
言葉のコミュニケーションで人を殺す能力は嘘に弱いのではないか。また色の濃いサングラスの様に対面する相手との間に遮蔽するものがあると能力が通じないのではないか。
⑦では再会を楽しむも、ワタナベの仕打ちに傷付き嘘の理由で別れを切り出し、手紙によって決別する。⑧では再びサングラスをしていることからコミュニケーションを遮断している様子が伺える。ここでも死に至る能力が及ばない仮説がそのまま立証できる。
さて問題は⑤⑥⑨である。一つひとつみていこう。

⑤寮~大学病院

「あのねワタナベ君。私のことを淫乱だとか欲求不満だとか挑発的だとかいう風には思わないでね。私はただそういうことにすごく興味があって、すごく知りたいだけなの。(中略)ケース・スタディーとして」(下巻60頁8行目)

寮を出発し電車に乗るまで歩きながらの会話。時代背景を問わず性に関するセンシティブな話題はかなり高いハードルを持つ。このことから緑はワタナベを信頼し、心を開いていると読み取れる。そしてそのことは嘘で隠していた家族のことをさらけ出すことからも明らかでると言えるだろう。

では何故死に至らないのか?
私が注目しているのはこちらの箇所。

「ありがとう。とても楽になったような気がするわ。まだ少しだるいけれど、前に比べるとずいぶん体が軽くなったもの。私、自分自身で思っているより疲れてたみたいね」(下巻95頁7行目)

緑が疲れていると見たワタナベが頭を空っぽにしてこいと促し、2~3時間し戻ってきた時の台詞。緑は明らかに心身共に疲れていた。それがある程度リフレッシュしたということだ。

ここにヒントがあるのではないか。引き続き次のシーン。

⑥新宿~小林書店
登場シーンに注目しながらも、ここで大切な要素である⑤と⑥の間の出来事を振り返る必要がある。

緑の父の死である。

正に今まで緑がしてきた苦労の、根源からの解放がこの間の場面にはある。ただ勿論苦労から解放されたとて、複雑にからまったものが雲散霧消したわけではない。単にこれ以上継続しないことがはっきりしただけで。

「警告しておくけど、今私の中にはね、一ヵ月ぶんくらいの何やかやが絡みあって貯ってもやもやしてるのよ。すごおく。だからそれ以上ひどいことを言わないで。(後略)」(下巻155頁12行目)
「でも私、淋しいのよ。ものすごく淋しいの。(中略)でもね、私がそういうことのできる相手ってあなたしかいないのよ。(中略)だからこういうのってあなたにしか言えないのよ。そして私、今本当に疲れて参ってて、誰かに可愛いとか、きれいだとか言われながら眠りたいの。」(下巻163頁16行目)
「すごく楽しい」と緑はテーブル席でひと息ついて言った。「こんなに踊ったの久しぶりだもの。体を動かすとなんだか精神が解放されるみたい」(中略)「それはそうと元気になったらおなかが減っちゃったわ。ピツァでも食べに行かない?」(中略)「わがままが聞き届けられたからよ」と緑は言った。「それでつっかえがとれちゃったの。でもこのピツァおいしいわね」(下巻165頁11行目)

ここまでの流れで緑は完全に回復してる様子が読み取れる。
死に至らしめる能力を無効化するもの。前回に引き続きここでの仮説は疲労感からの解放(回復)となる。

さて最後の⑨。

⑨高島屋~緑のアパート
ここは非常に重要なシーンとなる。ここでの緑とのやりとりによってワタナベはようやく自分の気持ちに気が付く。

そう、僕は緑を愛していた。そして、たぶんそのことはもっと前にわかっていたはずなのだ。僕はただその結論を長いあいだ回避しつづけていただけなのだ。(下巻242頁1行目)

それを気づかせたのは何か。そして能力はなぜ発動しなかったのか。

ここの場面では緑による嘘や解放も見られない。逆にワタナベは嘘をつく。

僕が最初に思ったのは直子の手の動かし方とはずいぶん違うなということだった。(中略)
「ねえ、ワタナベ君、他の女の人のこと考えてるでしょ?」
「考えてないよ」と僕は嘘をついた。(下巻238頁13行目)

この時、ワタナベは緑を愛していた。血のかよった生身の女の子である緑を愛していたのだ。
ワタナベによる嘘で能力が発動しなかった言うより、愛を知ることで能力自体を失ってしまったのではないか。もしくはその両方と考えるのが自然だろう。

この後で書かれるレイコさんへの手紙にこう書かれている。

「僕は直子を愛してきたし。今でもやはり同じように愛しています。しかし僕と緑のあいだに存在するものは何かしら決定的なものなのです。(中略)僕が直子に対して感じるのはおそろしく静かで優しくて澄んだ愛情ですが、緑に対して僕はまったく違った種類の感情を感じるのです。(中略)僕は僕なりに誠実に生きてきたつもりだし、誰に対しても嘘はつきませんでした。誰かを傷つけたりしないようにずっと注意してきました。それなのにどうしてこんな迷宮のようなところに放りこまれてしまったのか、僕にはさっぱりわけがわからないのです。(後略)」(下巻242頁15行目)

愛を知った、というよりは、より大きなカタチの異なる愛に目覚めたという方が正確かもしれない。

ここまでで整理すると、人をコミュニケーションにより死に至らしめる能力は以下の制約の上で成り立つ。

・相手が心を開いていること
・相手が心身ともに疲労した状態にあること

また、ワタナベは以下のような誓約も課している。

・誠実であること
・嘘をつかないこと
・人を傷つけないこと

制約と誓約。これこそがワタナベの持つコミュニケーションによって死に至らしめる能力の発生条件である。
いや、もうひとつ付け加える必要がある。

人を愛していない、ということだ。

では直子のことは愛していなかったのか。


直子を愛していたのか

東京での再会後、愛について語るシーンがある。

直子は僕に一度だけ好きな女の子はいないのかと訊ねた。僕は別れた女の子の話をした。(中略)どうしてか心を動かされるということがなかったのだと僕は言った。たぶん僕の心には固い殻のようなものがあって、そこをつき抜けて中に入ってくるものはとても限られているんだと思う、と僕は言った。だからうまく人を愛することができないんじゃないかな、と。
「これまで誰かを愛したことはないの?」と直子は訊ねた。
「ないよ」と僕は答えた。
彼女はそれ以上何も訊かなかった。(上巻60頁13行目)

この時点、直子との再会が5月の半ば(上巻38頁13行目)で、秋が終わり(上巻61頁6行目)とあるので、再会から半年前後殆んど毎週会って(上巻57頁1行目)いるのにもかかわらずこの台詞である。

重病だな。

直子の誕生日、自分はセックスしておきながら、キズキとのレスに触れ泣かせたあとの手紙もひどい。

僕にはいろんなことがまだよくわからないし、わかろうと真剣につとめているけれど、それには時間がかかるだろう。(中略)だから僕は君に何も約束できないし、何かを要求したり、綺麗な言葉を並べるわけにはいかない。だいいち我々はお互いのことをあまりにも知らなさすぎる。でももし君が僕に時間
与えてくれるなら、僕はベストを尽くすし、我々はもっとお互いを知り合うことができるだろう。(中略)たぶん僕はあんな風にするべきじゃなかったのだとも思う。でもそうするしかなかったのだ。(後略)(上巻87頁14行目)

よくもこんな自分勝手な手紙を書いて返事がくると思ったものだ。どこの投稿コーナーに相談しても不誠実であるとメッタ切りにされるであろう。
しかしこの意志薄弱さをも正直に見せることがワタナベにとっての人に対して誠実であるということなのだ。

そして、だいたい前のと同じ手紙(上巻90頁4行目)をもう一通書く。
返事を待ってられず、町に出て女の子と寝て(上巻90頁7行目)、やれやれ(上巻91頁7行目)と言うのだ。
こっちがやれやれだよ、まったく。

こんなことをやっているべきではないんだと僕は思った。でもそうしないわけにはいかなかった。僕の体はひどく飢えて渇いていて、女と寝ることを求めていた。僕は彼女たちと寝ながらずっと直子のことを考えていた。闇の中に白く浮かびあがっていた直子の裸体や、その吐息や雨の音のことを考えていた。(上巻91頁7行目)

しかし返事はきます。
マジかよ。

僕は何百回もこの手紙を読みかえした。そして読みかえすたびにたまらなく哀しい気持ちになった。それはちょうど直子にじっと目をのぞきこまれてきるときに感じるのと同じ種類の哀しみだった。僕はそんなやるせない気持ちを(後略)(上巻93頁16行目)

ワタナベが直子を愛していたのか否か。
再会後半年の間は全くない。
セックスの直後もそうではない。
しかし直子に去られてから大きな喪失感を覚えはじめる。もしこれを愛と呼ぶなら直子本人に対する愛というより、直子の残存記憶(下巻291頁15行目)に対するものだろう。
そして前述の引用の通り、手紙(実体のない直子)によって哀しみはじめる。

少し時間をおいて今度は趣向を変えた手紙を書きます。会えない間自分がしていたこと、その間どれほど直子に会いたかったかということ。(上巻119頁6行目)

すると、今度は速達で返事がきます。
当たり前だろうな。今回の手紙には残存記憶に対するものとは言え、愛があるから。

喜び勇んで阿美寮に向かう。そこで冒頭の井戸を語るシーンにつながる。

ちなみにこの時直子からおねがいをふたつ(上巻20頁7行目)される。ひとつは感謝でもうひとつは記憶なのだ。

この物語の場合記憶とは、ここではないどこかにいるわたしを、ここではないどこかにいるあなたが探してくれと訴えるものであると言って良いだろう。

やはりディスコミュニケーションというのがこの小説の根底にはあるはずだ。

尚、余談ではあるがこのシーンと同じ形式を持つシーンが緑ともある。

「どれくらい好き?」
「春の熊くらい好きだよ」
(中略)
「そんなに好きなら私の言うことなんでもきいてくれるわよね? 怒らないわよね?」
「もちろん」
「それで、私のことずっと大事にしてくれるわよね」(下巻172頁10行目)

直子が記憶を求めたのに対して緑は自分への明確な愛を求めたのだ。

この場面のあと、急に現代に時代を戻し当時をワタナベが内省する様子が描かれる。ここでショッキングなことが書かれている。

何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。(上巻23頁3行目)

愛の対義語が無関心だとするなら、愛してさえいない状態とは、関心すらないと言える。
そんなわけがあるだろうか。

他者の気持ちや考えがなんであるかを推察するには、言葉を信じるか、示された態度を読み取る他ない。
これまでで直子がワタナベに対してその様な発言や態度とった場面はないはず。ではなぜ17年後その様に思ったのか。

ずばり、ワタナベ自身が直子を愛していなかったからに他ならない。

自分の記憶の中に作り上げた直子を愛していると錯覚していただけだったということを、自己中心的なワタナベは自然と自分が愛されていないとサラっと言ってのけたのだ。
ワタナベ恐るべし。

直子の死後、ショックで放浪するが大したきっかけもなく立ち直り戻ってくるのはそうした錯覚した愛が故であるだろう。

何はともあれワタナベは直子のことを愛していなかったのだ。
だから直子はワタナベの能力の犠牲者になってしまったのだ!


アルバイト先の伊東

1場面のみの登場だが、17年後もワタナベが生きているということにつながる大切な箇所だと思う。

この時ワタナベは直子に対する楽観的観測が一瞬にしてひっくり返されて(下巻203頁4行目)おり、また緑からは「話したくないのよ。悪いけど」(下巻216頁14行目)と拒絶されている。
それも生きつづけるための代償(下巻204頁11行目)なのだろう。いささか重たいものではあるが。

また、この時既に寮を出ており孤独だったのだ。そして決定的な、1行。

そして僕と同じようにそういう話のできる友だちを求めていた。(下巻219頁2行目)

キズキの死後の念が弱まった瞬間である。

もしかしたら永沢と同様、能力者同士が引かれあったとも解釈できるがおそらくそうではないだろう。


死ななかったレイコ

さてではなぜレイコは死ななかったのか。
レイコの登場は3回。
その間の会話を振り替えってみても能力の発動条件はそろっているかのように読める。
能力に対する仮説が正しいとするならこういうことだ。

レイコは虚言症で、発言は嘘ばかりということ。

嘘つきは、嘘に事実を挟むのですべてが嘘ではないだろう。
阿美寮では音楽の先生であったから、音楽である程度身を立てていたのは事実だろう。

レイコが嘘つきだとすると、病気の原因となった嘘つきのレズの女の子の話はかなり怪しい。その子自身とレイコ自身はかなりの部分重なっているのではないか。
件の女の子の話の前に、10歳前後の娘の写真を見せる。レイコの嘘は検証が難しいので完全に想像になるが、ピアノを習いに来る女の子と娘(と思われる写真の主)は同一人物の可能性がある。
要は自分の娘を襲ったという。。。

レズというのは本当なのだろう。だからこそワタナベとのセックスの際に十七の女の子(下巻287頁15行目)のようになってしまったのだ。男とするのは初めてだから。
まあ、初めては言い過ぎかな。

一番嘘と思わしきものは、直子の服を着ているというところ。(下巻267頁7行目)

『洋服は全部レイコさんにあげて下さい』(下巻275頁11行目)

俺でなきゃ見逃しちゃうね。
7年振りの外の空気で嘘がにぶったな。

親に宛てたのか、寮の管理者に宛てたのか。

少なくともレイコに宛てた文ではない。
こんな不自然極まりないことはないでしょ!

まあ結局直子はレイコとも『ここ』を共有してなかったのかもしれない。それなら物語的には通じないこともないしね。
でも違和感あるよ。

ちなみにこの場面に至るまで、レイコさんのことはすごく太った人だとイメージしてました。
エンドレス・ポエトリー(アレハンドロ・ホドロフスキー監督作)に出てくるステラの様な。

しかし、レイコが嘘つきだとすると、旭川で音楽教室を手伝うというのも嘘だろう。
音大の時のことはトラウマの1つですらあるのだから。

北に向かうと言うのは死をイメージするものであるとも読めなくないし。
てことはやっぱりワタナベの能力が届いてしまったのか。。。
嘘つき説怪しいな(笑)

ワタナベの変化

ともかく、こうして緑による愛と緑に対する愛でワタナベは社会性を取り戻す。

一人っ子だったワタナベは至極自己中心的な男だった。

本質的には自分のことにしか興味が持てない人間なんだよ。傲慢か傲慢じゃないかの差こそあれね。自分が何を考え、自分が何を感じ、自分がどう行動するか、そういうことにしか興味が持てないんだよ。だから自分と他人とをきりはなしてものを考えることができる。(下巻125頁9行目)

その傾向はキズキの自殺によってぐっと深まり、ワタナベは深い闇の中を歩いていたのだった。

それは失望するのが嫌なだけ(下巻111頁3行目)だったし、その理由は人に対するあきらめ(下巻129頁3行目)によるもの。

緑との出会いによりそれも変わる。
それを愛と言う以外に何と呼ぶか。

心を閉じていることを闇と呼ぶなら、敢えて呼ぼう。

それは光であると。


エンディングについて

さて、ラスト。上野駅でレイコを見送ってから緑に電話をかけるのだが、その間に場面転換を示すアスタリスク(*)がある。

これは重要なことを表しているに違いない。

ここでこの小説の構造をもう一度思い出す必要がある。

この物語は1987年に、飛行機の中でふいにノルウェイの森を聞いて混乱することから始まる。
その混乱をきっかけに、18年前の不完全な記憶をたよりに機内で書き始めた文章というのがこの小説であるという説明を兼ねたプロローグになっている。プロローグがあるならエピローグがあってしかるべきだ。

つまり、私はこう思う。

アスタリスクの先の文章は1987年のことではないかと。

記憶をなぞっているうちにハイになってしまったワタナベはレイコの残存記憶によって更に突き動かされ、飛行機を降りた後すぐさま電話ボックスに入り緑に電話したのではないか。

本人は否定しているものの、この小説は自伝的要素を多分に含んでいる。
そして村上春樹は学生結婚していることを考えると、この時緑とは夫婦になっていまいかとも思う。
ワタナベのことを「あなた」って呼んでるしね。

ちなみにこれまで緑はワタナベのことを、「ワタナベ君」と呼ぶことが圧倒的に多かった。他に「あなた」と呼んでるシーンないんじゃないかと思って探したらすぐ出てきたので、呼び名をもってして夫婦と決めつけるのはいささか厳しい。

でも可能性はあると思うけどね!


おまけ

最後に好きな一行を紹介して終わりにします。

「だから僕としてもハツミさんに幸せになってもらいたいんです」と僕はちょっと赤くなって言った。(下巻141頁1行目)

この小説では『と僕は言った。』というフレーズが多用されます。
その時々で『と僕は皮肉を言った。(下巻111頁11行目)』であったり『と僕はあきらめて言った(下巻61頁13行目)』などと否定的な気持ちを加えられることはあった。

しかし、この時だけはポジティブな感情が表現されているのだ!

おいおい!
ワタナベどうしたんだよ!
らしくないじゃんよ!

でもそういうとこいいと思うよ。
そういう表情、緑にたくさん見せてあげられたらいいね!!

そこにはハツミの女性としての、いや人としての素晴らしさがあったからこそなんだろうね。

いいなぁ。
俺もミッドナイト・ブルーのワンピースが似合う女性と仲良くなれないものか。。。

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