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それはつらいよ 映画『男はつらいよ お帰り 寅さん』と東畑開人『居るのはつらいよ』

寅さんがスクリーンに帰ってきた。
渥美清が亡くなってから23年。シリーズが始まってからちょうど50周年にシリーズ50作目となる新作映画。
サブタイトルには『お帰り 寅さん』とありますが、当然寅さんは帰ってきません。映画のなかでもいつも通り、消息知れずただ、居ない。生きているのか、死んでいるのか。それについては触れられません。
居るのか、居ないのか。居ないのか、居るのか。教えてください寅さん。沈黙はつらいよ。

『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』
本書はエッセイの形をとりつつ、青春小説の形も持つケアとセラピーについて書かれた学術書。タイトルをもじっているだけで映画シリーズ男はつらいよとは根本的に関係ない。
ただ、書かれている内容を読むとなぜ寅さんが出て行ってしまうのか、出て行った寅さんがなぜ簡単に帰ってくるのかについての理解を助けてくれます。

別々に書けばいい感想をそれぞれ分けたりごっちゃにしながら紡ぎます。

居るのはつらいのか

まずは男はつらいよと比べると圧倒的に知名度に劣る『居るのはつらいよ』を簡単に紹介します。
著者自身である東畑開人が京大大学院博士課程で臨床心理学を学び、実際の臨床現場で働きたいと職を得た沖縄のデイケアで、ケアとセラピーについて現場で学んだことを論文や専門書等を引用しながら紹介する内容です。

僕が働いていたデイケアには、いちばん多いのは慢性期の統合失調症だったけど、躁うつ病とか、発達障害とか、パーソナリティ障害とか、さまざまな精神障害の人がいた。そういう人たちがリハビリのために集まって、一日を過ごすのがデイケアだ。
(中略)
そう、デイケアで過ごす10時間のうちのかなり多くの時間が自由時間なのだ。
それは何かを「する」のではなく、「いる」時間だ。座って「いる」。とにかくそこに「いる」。ただ、いる、だけ。何も起こらなくて、動きがない静かな時間だ。
デイケアとは、とにもかくにも、「いる」の場所なのだ。(40頁1行目)

人は休みを欲しがるものの、することがないと困ってしまう。学生時代漫画喫茶の深夜勤務をしていたことがあるが、終電後のしばらくから始発までの間は本当に客の出入りがなく、することが何もない。仕事と言えば、監視カメラで見張られたカウンターに立って「いる」こと。
いや、ホントつらいんですよ、いるだけってのは。
小学校時代の夏休み、学校行きたくなったことないですか?

「いる」ことを強いる職場に慣れない東畑氏は事件を起こしてしまう。

なぜ彼女が僕に話を聴いてほしいと言ったのか。
それは彼女がデイケアに「いる」のがつらかったからだ。だから、彼女はセラピーもどきではあっても、何か「する」ことが欲しくて僕に相談を持ちかけたのだ。そうすることで、デイケアに踏みとどまろうとしていたのだ。
それなのに、僕は素朴に彼女がカウンセリングを欲しているのだと思ってしまい、「深い」話を聴き出そうとして、彼女を傷つけた。(50頁2行目)

男はつらいよの系譜

ご存じの通り、男はつらいよという映画は渥美清演じる車寅次郎が行く先々でマドンナに恋をして振られる物語だ。
しかしこれはあくまで型の1つに過ぎない。寅さんが青年と出会い恋愛指南をするパターンもあるし、作品が後半に至ると主人公の座を甥の諏訪満男に譲っているかのごとき物語も多い。

前編通して共通していることは意外と少ないのではないか。そしてその少ない共通点の1つがずばり、寅さんはくるまやに長く「いる」ことができないという点だ。

14歳で父親と大喧嘩して家を出て以来、20年ぶりに帰ってくることからこの大サーガが始まる。しかしながら寅さんは少年時代を除いて、自分の家に「いる」ということをしたことがないのだ。

「居場所」を古い日本語では「ゐどころ」と言ったらしい。「虫の居所が悪い」の「ゐどころ」だ。おもしろいのは、この「ゐどころ」の「ゐど」には「座っている」という意味があり、さらには「尻」という意味があったことだ。
居場所とは「尻の置き場所」なのだ。(中略)
こう言い換えてもいいかもしれない。居場所とは尻をあずけられる場所だ。(55頁10行目)

寅さんの本業は啖呵売の露天商だ。

俺たちは口から出まかせ
インチキくさい物売ってよ、
客も承知でそれに金ぇ払う、
そんなところでおマンマいただいてんだよ
(㊴寅次郎物語)

そう、むしろ一つ所に長居してはいけないのだ。寅さんの人柄があっても、いやあるからこそやはりトラブルもあるだろう。

私はこの本を読んで思った。
寅さんはくるまやに「いる」のはつらいよと感じていたのではないか。いや、感じることすらできない心のどこかのもやもやとしたものが、「いる」のはつらいよだったのではないか。

いないよ 寅さん

冒頭にも書いたが、寅さんはいない。
「いる」ことすら拒否されているのだ。
何てこった!

脱サラして小説家としての成功をつかみかけた寅さんの甥、満男。
そしてその初恋相手で、今は国連難民高等弁務官事務所の職員として働くイズミ。
物語は基本的にこの2人を中心に描かれる。
前述のパターンとしては寅さんの恋というより満男の恋を描く第3のパターン。

それ以外は基本的に回想シーンとして歴代の映画が差し込まれる。劇場で笑いや涙を誘ったのは基本的にこの回想シーン。
何の映画に笑い泣かされたのかとも思うが、それぞれ絶妙な編集加減なのでそれもまた良しとしよう。

従って寅さんの登場は思い出のみ。2度ほど幻として満男の近くに現れはするがあくまで幻としての登場。
くるまやの面々やリリーの口からも「寅さん」と言葉にこそ出てくるものの、生きているのか死んでいるのかさえ不明のふわっとしたまま映画は進む。
寅さんの目撃情報としては、時系列では48作目が最終話なので、阪神大震災の炊き出しボランティアがテレビに映ったのが最後ではないか。
寅さん、どこに「いる」んですか?

日常は繰り返す

再開したイズミはくるまやであたかも年中行事の一環かのごとく、談笑しながら鍋をつつく。
残念ながらおいちゃんおばちゃんは他界しているので、博、さくら、満男とイズミの4人だ。都合よく娘は呼んでいない。どんな話をしていたかは描かれていないが、本当に楽しそうに過ごしている姿が印象的だった。

20年ぶりの再会というと第一作で寅さんがくるまやに帰ってくるのと同じくらいだ。なぜにイズミはスッと時を戻ることができたのか。
加えて言えば、満男と一緒にリリーの経営する神保町の喫茶店ではあからさまな棒読みで気持ち悪かったのが、場面変わったこのシーンからは自然な演技になったのか。
これもケアとセラピーの解説が答えを教えてくれる。

デイケアとは先にも引用した通り、精神障害の人たちが日常を取り戻すリハビリとして一日一日を過ごす施設で、その毎日は円環的な日常だ。

いずれにせよ、セラピーの時間は線的に流れている。だから、それは物語として描きやすい。だけどデイケアは違います。(中略)デイケアの時間は円のようにぐるぐると流れています。たしかにそこにも線はあります。各メンバーさんはそれぞれの人生の一時期をデイケアで過ごすわけで、その意味で線も走っている。だけど、デイケアという場所自体の時間は、同じ地点をぐるぐると回っている。
(中略)
サザエさんみたいですね。日曜日の六時半になると、毎回同じような日常が放送されます。そこでは小さな事件はいろいろと起こるのだけど、決して磯野家は非常事態には突入しません。カツオが思春期になることもないし、波平が不治の病に侵されることもない。(126頁上段3行目)

映画男はつらいよのシリーズにおいて、くるまやは常に変わることなくデイケア的な機能を果たしているのだ。
だからこそ今まで存在していなかった満男の妻の七回忌は描かれるが、常にくるまやにいたおいちゃんとおばちゃんは遺影がチラッと映されるのみでその死は事件としては描かれない。

あーあ、やっぱり家が一番いいや。
(⑫私の寅さん)

上等上等、あたたかい味噌汁さえありゃ充分よ。後はおしんこ、海苔、鱈子一腹、ね、辛子のきいた納豆、これにはね、生ネギをこまかく刻んでたっぷり入れてくれよ、あとは塩こんぶに生玉子でもそえてくれりゃ、もうおばちゃん、何もいらねえな、うん。
(⑤望郷篇)

どの口が言うかというセリフだが、寅さんはくるまやに居つかないし食卓に鱈子は並ばない。くるまやに流れる時間は円環的でその本質は退屈を過ごすということだ。寅さんはその退屈に耐えられなかったから出て行ってしまうのだろう。

しかし、だからこそくるまやで鍋をつつくイズミは何の屈託もなく自然にいられるし、セリフの棒読みも消えるのだ。ちなみに喫茶店で棒読みだったのは後藤久美子の演技が下手なのではなく、海外暮らしが長かったせいで生じるヨーロッパ言語的発話という演出だったのだ。棒読みにしか聞こえなくて不快に感じていたが、日本語の会話自体を取り戻せていないというイズミがくるまやに帰ってくることで癒され自然な日本語での会話を取り戻すという「デイケアくるまや」を体現する演出だったのだ。

そして非常に大事なことだが、この団らんのなかで、満男が妻と死別していることは語られていない。それはおそらくイズミが自分の家族(夫と子ども)に対してどのような立ち位置にいるのかも語られていないとの証左でもあるだろう。
結婚して子どもがいるということがイズミの口から語られることは映画を通して一度もない。
描かれていないことに対して下種な勘繰りをするのも野暮な話だが、そうでなければ空港に送るシーンのラストに説明がつかない。

そして、寅さんはいたのか

円環的時間が流れるデイケアくるまやの中で唯一の例外が満男だった。カツオが思春期を向かえないのに対し、満男は寅さん的思春期を迎える。

ホーム・ルームの時間にね、先生が将来何になりたいんだって聞いたから、音楽家になりたいって言ったんだ。
そしたら先生、バカにしたみたいに笑って、そんな夢みたいなこと考えてないで、もっと足元を見ろーーそう言うんだ。
(㉟寅次郎恋愛塾)

満男「人間は、何のために生きてんのかな」
寅次郎「うん? (省略 是非映画でお楽しみください)」
(㊴寅次郎物語)

満男「大学へ行くのは何のためかな」
寅次郎「決まっているでしょう、これは勉強するためです」
満男「じゃあ、何のために勉強すんかな」
寅次郎「・・・・・・ん? (同上)」
(㊵寅次郎のサラダ記念日)

そんな満男は伯父の血を引いていたのか、働いていた会社を辞めてなんと小説家になっていた。そして再開したイズミに対し、ことあるごとにこう言うのだ。

売れない小説家の特権でね。暇なんだよ。
(㊿お帰り 寅さん)

そして本編でも回想される寅さんのセリフがこちら。

安心しな、他の人になくってね、伯父さんにありあまるもの、それは暇だよ。
(㉛旅と女と寅次郎)

完全に乗り移ってますね。
満男は辞めるべく勤め人を辞めたのでしょう。露天商にこそならなかったもののやくざな稼業を選ぶべくして選んだのでしょう。

母との関係に混乱するイズミにもこう言います。

伯父さんがここにいたら、きっとこう言うよ。
(㊿お帰り 寅さん)

満男は気づいているのか、気づかずにいるのか、もう完全に寅さんになりきっています。

そうです。この映画は寅さんから満男へバトンを渡す映画に他ならないのです。映画のラストでサブタイトルの意味が明かされるのですが、その意味こそが映画のオープニングに桑田佳祐をコスプレさせて主題歌を歌わせた理由なのだろう。
つまり満男は寅さんの人生を小説にすることで寅さんになりきるし、その小説は大ヒットして桑田佳祐主演で映画化までする、こういうことです。
妄想でしょうか。妄想ですね。でもあながち妄想とも言い切れなかったり。

是非劇場でご覧ください!

男はつらいよの解説に使ってしまいましたが、単独で読んでもすごくおもしろい本です。こちらも是非ご一読を!

㊿お帰り 寅さん以外の映画からのセリフはこちらから引用させて頂きました。所謂名ゼリフ集です。
新作のセリフは少々違っているかもしれませんがご容赦下さい。

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