第23段 衰へたる末の世とはいへど。

徒然なるままに、日暮らし、齧られたリンゴに向かいて云々。

信じられないくらい美しい朝陽を見た。何度も書いている話だが、私は夕陽がたまらなく好きだ。それでも最近、朝陽も同じようにたまらなく好きになった。夕陽が1日の抗いだとすれば、朝陽は1日の呻きだ。そんなことを思う。今から今日という瞬間が始まる。1日1日を区切っていくことはあまり好きではないが、それでも始まりがあって終わりがある、と自覚することは人生において非常に意義のあることではないかと思う。おっと、少し堅苦しくなった。そんなようなことをつとつとと思いながら今朝は珍しく散歩をした。今の季節は気温的にもちょうどいいので朝の散歩はオススメだ。人間は何かしら頭を整理する時には散歩が大事だという。瞑想にも似ているのかもしれない。機会があって何度か瞑想をさせてもらったことがあるが、人間は意外にも頭の中を空っぽにすることが難しい。普段、『私はあなたに総てを開け放しています。』といったところで、それと同様に頭の中まで開け放すことができているかは別問題だ。意外にも、脳内は無駄なことや雑音であふれていて、決壊寸前だったりもする。正直に言おう。私は今、文章を書くことにおいてはスランプに陥っている。文章に限らず、ほとんどのことがスランプだ。というよりも、気にかかることがあるために集中力が散漫しているといってもいいかもしれない。気に掛かること、といえば大きな仕事だ。かつて仕事に大きいも小さいもないと言われたが、それでも私の人生においてかなり大きな仕事といってもいいだろう。写真は一人では撮ることができない。当たりまえだが、写真家だけが存在していても成り立つものではない。写ってくれる人、撮らせてくれる人がいてくれて初めて成り立つものである。それでも、『いいと思ったら迷わずシャッターを切る。それが写真家だ。お前が撮りたいと思えば撮ればいいんですよ。』と師匠はかつて俺に教えてくれた。そう、写真家という生き物は時として非常に傲慢な、それでいて真実をそのままに写し、遺すブックマンのような存在でもある。だからこそ、思想家であったり、哲学者であったり、はたまた当然だが芸術家でもある。歴史の当事者であり、目撃者でもある。なにも写真家だけがそうというわけではないが、少なからずそのきらいがあると自負している。私はこの世界に来てまだ実質日は浅いが、それでも魂はずっと前からそこにあるような気がしている。魂だけはずっと、写真家という生き物だったような気がする。踊りは生涯の伴侶だが、写真は根っからの病気のようなものに近いのかもしれない。スランプ、と自分で言ったが、正直調子のいい日なんてそうそうあるものではない。天から降ってくるのを待つことも手の一つだとは思うのだが、ないならないでひねり出し、それでも書き続ける、撮り続ける、踊り続けることが大切だと思う。なんでも継続は力なりだ。こういうとなんだか軍国主義のようでニュアンスがずれてしまうが、それでも一理あると思われる。実際に自分の身の回りでも信じられないほどの続ける力というのを発揮している人たちがいる。私は常に、そういう人たちを尊敬しているし、自分もそうありたいと思っている。さて話を戻すと。今回のテーマは世の中が変われど天皇の住まうところは変わらず美しく衰えることがない、というものであった。まあ、物の見事にずれたわけだが気にしない。少しだけ(厳密に言えば異なるが)似たような言葉で、松尾芭蕉の『不易流行』というものがある。つまりは、いつの世も変わらずに美しいものがあり、しかしながらその中に新しいものを取り入れていくことこそが世の常であるというものである。流転こそ万物の基本、とでも言えようか人類が生きていく上で共通の概念となっているものだ。いきる上で手っ取り早く新しい風を吹かそうとするならばそれはやはり、出逢いだ。誰かと出会い、そして生きていくことはある意味で自分自身の死を意味すると思うことがある。人に出逢うと細胞が踊る。血が沸騰して吹き出し、そしてからだの中心部の何かが皮膚を突き破っていくように、ヒリヒリと痛むような感覚を覚えることもある。それは人だけでなく、音楽も同じだ。自分の魂が騒ぐような音楽に出逢えば、これと全くといっていいほど同じような状況に見舞われる。自分がその人や、こと、ものの信じられないくらい美しい瞬間をみたときや、聞いたとき、出逢うたびにいままでの自分が死に、そして新しい自分が生まれる。いわゆる蛇の脱皮にも近しいような気もする。そんな瞬間を繰り返して自分自身が何度も変貌していっている。同じ毎日の繰り返しと言う言葉を巷ではよく聞くが、全くもってそれは嘘だ。同じ一日なんて来ない。ましてや同じ一分一秒だって、今この瞬間だって二度とは訪れないものなのだ。だからこそ、わたしは常に感性を研ぎ澄まし、触れただけで手の指が裂けてしまうような妖刀のようでいたいと思う。どんどん近づきがたい人間になり、どんどんやばい人間になっていきたいと思う。なぜならそれでこそ、上野みなみという人間の命を生き切ることに値すると信じているからだ。

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