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食材を醸す技③ 伝統食品の誕生 その3(ソウルフード)

続いては醸造以外の分野である。江戸時代までの間に、今もなじみの深い食品が愛知から多数誕生している。以下その代表的なものだが、大市場向けの醸造品とは対照的にソウルフードという性格のものが多い。 

■知多半島、西三河海岸部、渥美半島などでは、古墳時代より土器製塩(土器で海水を煮沸して塩を精製)が行われており、奈良時代、この地域の塩は醤と同じく租税(調)として朝廷に上納された。室町時代になると、大量生産が可能な入浜式塩田法(塩田に海水を引き入れ、太陽熱で水分蒸発させて塩を精製)へと移行して、昭和時代までの間、みそをはじめとする多彩な食品の原料にされた。

吉良の入浜式塩田を復元(西尾市塩田体験館webサイトより引用)

■文永8年(鎌倉中期)、西尾の実相寺開祖・聖一国師は、宋(中国)から茶種を持ち帰って栽培したとされ、これが西尾茶のルーツと伝わる。ただし、史実として確認できる最古の事例(記録)は慶長6年(江戸初期)のこと。貝吹や永良(ともに西尾市)といった村々で、領主・板倉勝重に献上する茶の栽培が推奨されたとある。その後、現在の西尾市一帯へと茶栽培は拡大し、茶代(年貢)が西尾藩に納められるまでになった。
なお、茶栽培は、西尾だけでなく三河の各地において早い時期から行われており、現在の岡崎市や新城市などでも、江戸初期には茶代が領主に納められていた。また、現在の豊田市南部で育てられた茶は、商品として江戸後期頃より市場に流通している。

■江戸時代になって江戸佃島の漁師がつくり始めた佃煮は、参勤交代で国許に帰る大名たちの江戸土産として全国各地に広まる。海産物の集積地・吉田(豊橋市)にも早い段階で製法が伝わり、その生産が始まった(三河佃煮のルーツ)。

たまりしょうゆ・酒・みりんで煮た三河佃煮(写真は「はぜ佃煮」。出典:農林水産省「うちの郷土料理」)

■東海道筋の立場(宿場間の休息所)だった今川(刈谷市)では、江戸初期より芋川うどんと呼ばれる平打ちうどんが旅人に提供されてきた(きしめんのルーツ)。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』(享和2年《江戸後期》~)などで東海道中の名物として紹介されている。

現在のきしめん(出典:農林水産省「うちの郷土料理」)

■天明の大飢饉(江戸後期)によって食糧難に窮した和泉(安城市)の農民たちは、近江(滋賀県)よりそうめんづくりの技を持ち帰った鷲塚(碧南市)の者から製法を学び、生産を始めた(和泉そうめんのルーツ)。これを俸手振り(行商人)が三河全域で売り歩き、和泉村庄屋から重原陣屋(刈谷市)への暑中見舞いとしても使われた。

■吉田の魚問屋・初代佐藤善作(現ヤマサちくわの創業者)は、天保8年(江戸後期)、讃岐(香川県)の金刀比羅宮に代参した際に名物のちくわに着目し、帰国後ちくわづくりを開始した。当初、販売先は地元の料理屋や宿屋に限られたが、2代目善作は「塩漬けちくわ」を考案し、中馬街道(塩の道)を経由して魚類が不足しがちな信濃(長野県)に送っている。

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