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『ロング・ロング・トレイル』全文公開(17) 第四章 東吉流・世界の歩き方 (4/6)

2018年10月に出版した、木村東吉さんの著書『ロング・ロング・トレイル』を無料で全文公開します。

※前回の記事『ロング・ロング・トレイル』全文公開(16) 第四章 東吉流・世界の歩き方 (3/6)はこちら


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太陽の下で漕ぎ、星の下で眠る 〜アルゴンキン〜

 「アビは4種類の鳴き声をあげます」と言いながら、カヌー・ツアー・ガイドのカツさんは、カーボン・シャフトのシングルブレイドを静かに湖面に入れる。
 「笑っているような声がトレモロといって、実は警戒している状態。ヨーデルという鳴き声も警戒の一種です。フートというのが家族への呼び掛けで、コヨーテの遠吠えに似ているのがウエイルという求愛の鳴き声です」
 ボクはその説明を聞きながら、ある歌を思い出し、ココロの中でなるほど、と頷いた。
 その歌とは元S&Gのアーサー・ガーファンクルの『男が女を愛する時』だ。
 この曲は多くのアーティストがカバーしているが、ガーファンクルのそれの前奏部分に、アビのウエイルの鳴き声が挿入されているのである。
 ボクは何故、ラブソングの冒頭にコヨーテの鳴き声が入っているのか、それまでは理解できなかったが、あの遠吠えはコヨーテではなく、アビの求愛の鳴き声だったのだ。
 「アビはカナダの国鳥と指定されており、英語でルーンというのですが、カナダでルーニーと言えば、1ドルコインのことを指します」
 我々はマガジンハウスの雑誌『ターザン』の取材で、カナダのアルゴンキン州立公園に来ていた。
 アルゴンキン州立公園はトロントの北に位置し、その公園の面積は東京都の約3.5倍で、九州の熊本県と同じ広さだ。公園内には無数の湖と川が点在し、カヌーで漕いで繫がるトレイルの総延長距離は、なんと2100キロ。もちろんその時々の状況で水量も減るので、時にはカヌーを担いで3キロ以上、山道を歩かなければならない「ポーテージ・ポイント」も存在するが、カヌーイストにとってパラダイスであることには変わりない。
 「ポーテージ」といえば、30代のころに出場したトライアスロン「ミネソタ・ボーダー・トゥ・ボーダー」のカヌーのステージで、やはり数カ所の「ポーテージ・ポイント」があった。今、改めて地図を広げると、そのレースのゴール地点であるクレイン・レイクと、アルゴンキン州立公園は約1500キロくらいの距離で、東西に並んでいる。この地域はカヌーのメッカでもあるのだ。

 カツさんはカナダ在住の日本人で、アラスカのユーコン川や、このアルゴンキンでカヌーのガイドをしている。
 今回の取材では、カツさんのガイドによって、アルゴンキン州立公園の中央部分の約90キロの湖川を、5日間掛けてカヌーで移動することになっていた。
 カツさんは日本で知り合ったカナダ人女性と結婚してカナダに移住し、その当時(2006年)で、すでにカナダに移住して10年が経ったと言っていたが、カナダの自然、特に鳥の生態について詳しい。
 「アビは水中600メートルまで潜る、ダイビングのプロみたいな鳥ですが、その足の形状から離陸が苦手で、水上からじゃないと、巧く飛び立てないんです」
 カツさんはそう言って、髭だらけの顔の下で笑った。
 このツアーでは予め自分たちの行動予定を、公園の管理局に申請する。今日はドコソコまで行って、ドコソコのキャンプエリアでキャンプする……といった申請で、一つのキャンプエリアは最大9人までがキャンプ可能だ。広大な州立公園内には、この9人設営可能なキャンプエリアが無数に点在しており、他のキャンパーと、エリアを共有することはない。つまりツアーの間、湖面や川で他のカヌーイストとすれ違う以外、他人とまるで接点がないのである。
 その日のキャンプ地に到着すると、カツさんはメンバー全員(この時はカツさんを含めて8人)に、所有しているスナックや飲み物の提出を求める。
 それらをすべて「ベアープルーフ・バッグ」という大型の袋に入れ、それを大きな木の枝に吊るすのだ。
 「こうしておけば、万が一、熊が現れても、テントごと熊に食べられる心配はありません」と言って、カツさんは微笑む。
 恐ろしいことを言いながら、よくもまあ、人懐っこい笑顔を浮かべるものだ。
 が、幸いにも、熊に出会うという危険はまったくなく、我々が出会った動物は、岸辺で水を飲む若いムース(ヘラジカ)、身体は茶色で顔だけが緑色した愉快な姿のカエル、働き者のビーバー、そして美しい鳴き声を上げるアビといった、優しい動物たちばかりであった。
 そんな動物たちとの出会い以上に、ボクを驚かせたのが、このアルゴンキンをカヌーで旅する人の多さと、その多様さである。
 親子、夫婦、恋人たち、友達同士、キャンプスクールの子どもたち、ビキニの女性だけのグループ、タトゥーをしてギターを抱えた若者たち……ありとあらゆる世代の、ありとあらゆる種類の人たちが、このカヌー・トリップを愉しんでいる。
 もちろん彼、彼女たちも、自分のカヌーと40キロ以上の荷物を背負って山を越える「ポーテージ」に耐え、恋人たちだけでは、一度に装備を運びきれない場合もあるので、そんな時は、険しい山道を往復する。
 そして「サンダーボックス」と呼ばれる粗末なトイレで用を足し(そのトイレの蓋を閉める時、ドーンという雷のような音がするから、このように呼ばれている)、粗食に耐えながら旅を続けるのだ。
 ボクは世界のあちこちで、「遊ぶ」人々を見た。特に欧米では「遊び」に多くの時間と経費を掛ける人々を見た。が、ここまで真剣に「遊ぶ」人々を見るのは初めてのことである。
 なにが彼らをそのようにさせるのか?
 スマホはもちろん繫がらない。PCももちろん持ち込めないので、世の中の動きがまったく分からない。自分と世界を繫ぐツールが、ホントに皆無である。現代の社会に於いて、そんな状況を、一年を通じて我々はどれほど体験できるだろう?
 デジタルな音ではなく、友や動物の肉声に耳を傾け、自然の躍動や驚異に目を凝らし、過度に味付けされたモノではなく、シンプルな食料を口にする。そんな状況の中に居る自分自身が逞しく、愛おしく思えてくるのも、このような旅の不思議な魅力でもある。
 熊の存在に怯え、少量の酒を舐め、美食には程遠い食事を摂取し、美しい水と、静寂なる森の中で、大きな夜に抱かれた小さなテントの中で眠る。
 そして夜明けに、湖面に響き渡るアビの求愛の鳴き声を聞いていると、大地と水と、そこに棲む精霊との一体感を覚え、己の肉体と精神が浄化されていくような気がする。
 このアルゴンキンの旅の後、ハワイ、カウアイ島のカララウ・トレイルを歩いた時も、グランドキャニオンの「リム・トゥ・リム」を歩いた時も、同様の精神状態を感じることになるのだが、このアルゴンキンの旅で、自分自身がいったいどこに属しているのか? それを初めて理解した気がするのである。
 もちろんもっと若いころに、レイドゴロワーズというアドベンチャーレースに出場し、オマーンの荒野を何日も彷徨った経験はあったが、それは誰かが主催するレースの一環であり、これほどの自然との一体感は感じなかった。次のチェックポイントを目指し、さらにはゴールを目指すことで目一杯であった。
 だがアルゴンキンのカヌー・ツアーは違った。
 その日の野営地に向かってゆっくりとパドルを漕ぎ出す。途中で斧だけで建造された猟師たちのシンプルなログハウスを見物したり、ビーバーが作り出す小さなダムを観察する。クラッカーにチーズとジャム、それにピーナツバターを載せた、カロリーだけが摂取目的のランチを食べ、湖畔に引き上げたカヌーの中で昼寝を貪る。
 そしてその日の野営地に到着すると、まずは湖に飛び込んで汗を流し、その後、夕食の準備をして食べる。食後は日没までずっと夕日を眺め、眠くなったらテントに潜り込んで眠りに落ちる。
 そんなシンプルで素敵な時間を過ごしていたら、あっという間に予定の5日間が終わってしまった。
 カヌーでスタート地点に戻って来た時に、久しぶりにクルマを見た。クルマって便利なんだなあ……と、珍しそうにクルマを見つめている自分が可笑しい。
 宿舎に戻って6日ぶりのシャワーを浴びる。最初はシャンプーの泡がまったく立たない。3回くらい、シャンプーしてようやくいつものように泡が立ち始める。
 シャワーから出て、洗濯した清潔なシャツに着替える。シャツも新鮮だが、自分自身の肉体も生まれ変わったように感じるから不思議だ。
 夕食のためにレストランに向かうと、カツさんが手作りで完走証を用意してくれ、それを食事前に授与(笑)してくれる。そして記念にと、90キロを漕ぎきったウッド・パドルをプレゼントしてくれた。
 夕食に先立ってシャンパンが開けられた。
 シャンパンの鮮烈な泡が、全身を駆け巡る。明日から再び、ボクは便利で快適な日常に戻っていく。そしてそれは根源的な人の強さから遠ざかることを意味する。シャンパンの酔いが回る中、なぜか少しだけ訳の分からぬ虚無感に包まれた。


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木村東吉(きむら・とうきち)
1958年11月16日生まれ。大阪府出身。ファッションモデル、エッセイスト。10代の頃からモデル活動をはじめ、上京後は『ポパイ』『メンズクラブ』の表紙を飾るなど活躍。30代よりアウトドアに活動の場を広げ、世界各地でアドベンチャーレースに参加。その経験を活かし、各関連企業のアドバイザーを務め、関連書籍も多数刊行。オートキャンプブームの火付け役となる。
「走る・歩く・旅する」ことをライフワークとしている。現在は河口湖を拠点に執筆・取材、キャンプ・トレッキング・カヤックの指導、講演を行っているほか、「5LAKES&MT」ブランドを展開しアウトドア関連の商品開発を手掛けるなど、幅広く活動している。


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