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映画「君たちはどう生きるか」のユング心理学的考察と感想【長文・ネタバレ含む】

※本記事は映画の重要なネタバレを含みます。映画鑑賞後に読んでいただけると幸いです。


概要

「君たちはどう生きるか」は、主人公の眞人が自身の心理的課題と向き合い、成長する過程を描いた映画である。

その過程は現実世界における実際の出来事として描かれるのではなく、人の心の無意識領域にある内面世界における心理的な出来事として象徴的に描かれているものとして解釈することで理解が深まる。

この記事では、ユング心理学の概念を用いて登場人物や物語の解釈を試みる。そうすることで一見カオスに見える映画のストーリーが、実際のところは驚くほど秩序立ったものであり、御伽話のような普遍性を持つものであることが示唆される。

ユング心理学の基本概念の説明

映画に関する具体的な考察や分析に入る前に、必要な前提知識としてユング心理学の基本的な考えや概念について簡潔に説明しておく。

ユング心理学では、意識ないしは自我の下層に無意識と呼ばれる広大な領域が存在すると考える。無意識はまず個人的無意識が存在し、個人的無意識のさらに深層に集合的無意識という領域が存在する。集合的無意識は、普遍的無意識とも呼ばれる。
個人的無意識は、個人の体験や記憶に依るところが大きい領域であるが、集合的無意識は、各人の個人的経験や時代や地域に関わりなく、すべての人類が無意識の深層に生まれながらに共通して持っている普遍的な概念やイメージの集合体の領域である。

集合的無意識には様々なイメージの型が存在し、それらは元型と呼ばれている。
元型は個人的無意識を通して夢の中に具体的な人物やオブジェクトに投影されたイメージとして現れたり、御伽話や神話やその他創作物の登場人物やオブジェクトに投影されて描かれることで、しばしば自我に認知されることになる。
元型には影、アニマ/アニムス、太母(グレートマザー)、老賢者、トリックスターなどの様々なものが存在し、それらは個人的無意識の領域にもしばしば現れる。

ユング心理学では、自我が無意識との接触を通して自らの影やアニマ/アニムスと出会いそれらを自我に統合することで、自己が全体性に近づいていくことが精神の成熟に不可欠なものだと考える。このようなプロセスをユング心理学では個性化のプロセスと呼ぶ。

登場人物やオブジェクトの考察

「君たちはどう生きるか」は主人公である眞人が自らの影やアニマに導かれることで、無意識の世界を通して自身の心の課題に向き合い、成長していく物語である。
ここから物語に登場する人物やオブジェクトの意味をユング心理学の観点から考察していく。

眞人

彼自身であり、彼の自我の象徴でもある。

眞人の頭の傷

彼の現実世界における心理的課題の象徴。

アオサギ

影。眞人の個人的影の象徴。ユング心理学における影とは、自我によって意識の世界にまだ受け入れられておらず、無意識の世界に抑圧されているかまだ眠っているような自分自身のもう反面を差す。
つまり、アオサギはもう一人の眞人自身である。無意識の世界の住人であるため、鳥の姿をかたどっている。鳥は御伽話においてしばしば無意識へと誘う案内人として描かれるが、ここでも眞人を無意識の世界へといざなう役割を果たしている。
あらゆる部分で眞人と対比的描かれている点も、彼の個人的影であることを象徴している。(若く端正で育ちが良い眞人に比べて、中年で醜く下品な話し方をする点など)
眞人が最初アオサギと敵対していたものの、共に行動をして助け合い、友達となる過程は、彼が自らの影と向き合い、和解し、自我に統合するという精神の成長の過程を生き生きと表している。
また、アオサギはトリックスター元型でもある。トリックスターは、影と似たような特徴を持つが、道化として既存の秩序に変化をもたらすという働きをする。

家の近くの森

無意識の世界の入口の象徴である

館の底の世界

無意識の世界の象徴。眞人の個人的無意識の世界でもあるが、さらに深層の普遍的無意識の世界と繋がっている。

無意識の象徴。眞人を個人的無意識から集合的無意識の領域へといざなう。そのため、より深層の集合的無意識としての特徴を強く持つ。

キリコ

アニマ。アニマとは、男性の無意識の中で女性性として表れる自身の魂のイメージである。
眞人の自我を導き、無意識の世界の深層へいざなう役割を持つ。眞人と同じ頭の傷は彼女が眞人の個人的アニマであることを明確に示しているが、海に住み多くの魂を養う役割があることから、普遍的無意識の領域に存在する普遍的アニマの象徴でもある。女性でありながら男性的な性格を持つ点、彼に知恵を授けガイドする姿から、アニマの発達の最終段階(第四段階)であり、ギリシャ神話のアテネや観音菩薩なとに象徴される「叡智のアニマ」としての特徴も見られる。

ナツコ

眞人の頭の傷とともに、眞人の現実世界の心理的課題の象徴である。また、眞人個人のアニマとしての特徴も持つ。母の死を乗り越えてナツコと和解することは眞人が無意識との接触を通して自身の心理的問題と向き合い、影を自我に統合する上でも非常に重要な意味合いを持つ。
アニマとしては第一段階である「生物学的アニマ(肉体的なアニマ)」と第二段階の「ロマンチックなアニマ」の両方の特徴が見られる。
作中で色気のある女性として描かれ、身ごもっており出産を控えている点から「生物学的なアニマ(肉体的なアニマ)」であり、眞人にとって「父の好きな人」と恋愛的な視点からの説明が度々されていることから、「ロマンチックなアニマ」でもあると解釈できる。
無意識世界の部屋で眞人に激怒し、大嫌いと言い放つ姿は、眞人に家族として受け入れられたいと望みながらも、眞人に拒絶され続けている彼女の心理的な苦悩を表現したものであると解釈できる。つまり愛情の裏返しから来る憎悪であるため、本音では眞人のことが嫌いだったのではと安直に捉えるべきではない。
彼女の状態や苦悩は、自我に統合されることを拒絶されたアニマに起こりうる状態を暗示しているとも言える。

眞人の母

母。太母(グレートマザー)。眞人の個人的母として眞人を守り導く役割を持ちつつも、あらゆる魂を養い育てる役割を持つことから、あらゆるものの母であるグレートマザーの象徴でもある。
また、眞人の母親は無意識の世界で眞人の導き手としての役割も担っているため、母であると同時に眞人のアニマとしての特徴も持つ。母でありながら少女であるという点で、アニマの発達の第三段階であり聖母マリアに象徴される「精神的なアニマ」としての特徴が見られる。
グレートマザーの元型は、母なる大地として命を生み出し育てるものの象徴であると同時に、すべての命が朽ちて還る場所としての、死の象徴という側面も持つ。眞人の母が故人であるという点はグレートマザーの生と死の両方を司るという性質を暗示している。
グレートマザーは守り、養い育てるというポジティブな側面がある一方で、その包み込む力が強すぎると個人の成長を阻害し、閉じ込めてしまう危険性があるというネガティブな側面も持っている。
眞人の母がナツコのいる部屋で眞人を助けようとしたことが禁忌に触れるとされるのも、このグレートマザーの負の側面にたいする潜在的危険性の暗示だと解釈することができる。
幼少期において、心理的に母親すなわちグレートマザーに守られ養われることは非常に重要であるが、精神的に成長するにはいつまでも内なる母親像やグレートマザーに囚われていることは望ましくない。自己のさらなる成長のためにはいずれはグレートマザーの守りの手を離れて心理的に自らの足で旅立つことが必要不可欠である。
眞人の無意識世界で眞人の母親は眞人を守り助け、最後には送り出すという心理的な母としての役割を全うしたが、これは眞人が心理的に母親像からの独立を果たしたことの現れである。この過程を踏むことは、眞人が母親の死という現実世界の心理的課題を乗り越えるためにも必要不可欠なことであった。

ペリカン、オウム

影。鳥であることは無意識の世界の住人であることを示し、彼らの野蛮さは影のネガティブな特徴の現れである。これらは眞人の個人的影というよりは、一般的な匿名の多数の人々の影の断片として見ることができる。
ペリカンは個人的無意識の領域の住人としての影、オウムは普遍的無意識の領域の住人としての影としての性格を持つと言えるかもしれない。
影は現実世界に発散され、居場所を見出すことで浄化され無害な鳥になっていくという点も興味深い。
また、無意識の世界で行場を失っていたペリカンは、個人の自我に受け入れられずに無視されて行場を失った影の苦悩を象徴的に表しているようにも考えられる。
また、怪我をして亡くなったペリカンを眞人がアオサギと協力して弔う場面は、眞人がこれから影と向き合い和解していくことを暗示している。

大叔父

老賢者であり、眞人の自己の象徴。自我が通常では知り得ないような深い知恵や洞察を与え、導く役割を持つ。
集合的影の象徴である大王とも敵対せずに協力関係を築いていることも、包括的な自己の特徴を示している。

大王

普遍的影、ないしは集合的影の象徴。つまり影の王である。多くの物語では、集合的影は鬼や悪魔などの絶対悪として描かれるのに対し、この物語の大王は悪役としての特徴を持ちながらも、自己の象徴である老賢者をサポートし、協調することを望む姿勢を持っている点や、無意識の世界の秩序を保つ役割の一部を担ってる点や、自我の象徴である眞人に対しては一見友好的ではなくとも無用な攻撃はせず見守るような行動を取っている点は、影が人の心の成長の過程において必要不可欠な役割を果たすというポジティブな側面を暗示しており、特筆すべきことである。

無意識の世界の象徴。眞人が無意識の世界を通して自己の課題に向き合い、成長することで、一旦はその役割を終えた。最後に塔が崩れることは眞人が心理的な課題を乗り越え、現実世界に向き合って生きていくという意思を象徴的に表している。

大きな石

人間の「意思」の集合体であり世界や宇宙そのもの、もしくは普遍的な真理、つまり集合的無意識(普遍的無意識)そのものの象徴でもあると解釈できる。
成熟した自己の象徴であり深い知恵や洞察を与えるとされる老賢者である大叔父が管理している点や、元々宇宙からやって来たという点からもそのことが伺えるのではないか。
無意識の世界の最奥に大きな石があるという点は、すべての人の個人的無意識の深層が集合的無意識に繋がっていることを示している。
眞人は大きな石に関心をよせることよりも、まずは自身の課題に向き合うことを選択している点は注目すべきポイントである。

積み木、小さな石

「意思」つまり自我の象徴。適切に美しく積み上げられた積み木は、高度に統合された自我の象徴であり、それは全体性を目指し成熟に向かっている自己の象徴でもある。
大王によって積み木が崩れてしまい、その直後に眞人たちがいた世界が崩壊する場面は、自我が影の統合に失敗して影に主導権を取られることで起こりうる内面的ないし現実的な悲劇を暗示している。
眞人が塔から帰還した際に、意識つまり自我の象徴である石と、無意識つまりアニマの象徴であるキリコさんの人形の両方を持ち帰った点は非常に興味深い。このことは眞人の心ないし自我の統合が進み、全体性に一歩近づいたことを暗に示していると解釈できる。

作品のテーマについて、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」との比較

無意識の世界に導かれ、影と対決するというテーマは、村上春樹の長編小説「ねじまき鳥クロニクル」にも共通して見られるテーマである。
ねじまき鳥クロニクルでは、影のネガティブな側面が強調され、最終的には普遍的影と対決して勝利することがテーマになっているが、こちらの映画では、影のネガティブな側面だけでなく、自我を導き成長を促すというポジティブな役割がはっきりと描写されており、影と和解することで成長するということが作品の主題になってるのが非常に印象深く、個人的に深く感銘を受けた点である。

感想まとめ

人の心の成長の過程をこれほどまでに的確に生き生きと説得力を持って描かれた映画は見たことがない。
控えめに言って神映画であり、宮崎駿監督という一人の人間の人生の集大成と呼ぶにふさわしい映画に違いない。個人的に今まで見た映画で最高の映画である。
自分の人生の過程によって強く印象を受けるポイントが変化すると思われるので、一回と言わず人生の節目が訪れるたびに見返す価値がある映画ではないだろうか。

追記

ユング心理学の基本的な概念について学ぶには、河合隼雄先生著の「ユング心理学入門」を読むのがおすすめである。
また、御伽橋などの物語のユング心理学的解釈についての理解を深めたい場合は、同じく河合隼雄先生著の「昔話の深層」という本が示唆に富んでいておすすめである。

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