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ナイルの庭 【短編小説】


視線を感じたのは、東京駅の新幹線ホーム、その隣のホームからだったと思う。何となく感じた視線を、晃はなかったことにした。朝6時前にはとうに出勤して、そろそろ12時間、夕方の18時。空は暗い。業務は終電が終わるまで続く。昇進試験の勉強もあり、正直疲れていた。だから、何か妄想のような、そんなことだろうと思っていた。視線を感じるなど、今まで経験したことがなかった。その時、何か良い香りがしたような気がした。何かとても爽やかで、心が休まるような・・・。

「ヒ・カ・ル!」
駅員室に戻ると、同期のカケルが肩に腕をのせ声をかけてくる。
「何だ、お前・・・相変わらず、お調子者だな。」
「晃、今日は飲みに行こうぜ!お前も明日非番だろ?」
「お前、飲み過ぎだ。身体を壊すぞ。そもそも俺たちはまだ成人したてのほやほやなんだ。翔、お前の方が誕生日は早いけど、俺達まだ成人式、迎えてないんだぞ?」
晃はあまり酒に強い方ではない。おまけに翔も飲めばすぐ酔っぱらうのだから、まず介抱するのは晃の役目となる。翔と飲んでも酔った気になれない。だが晃は彼が好きだった。同期としても、友人としても、心許せる数少ない親友と言えた。

業務を終えて、解放されるのは深夜。それからふらふらと新橋の飲み屋へ歩く。朝5時まで営業する小さな飲み屋で、生中と枝豆、串焼き。まるで高校生から一気に年寄りになってしまったように晃は錯覚しそうになる。2人は煙草を取り出し、ライターで火をつけた。
「で、どうなの、晃は。彼女とうまくやってんの?」
「カヤ?まあ、休みの日は、会ってるけど?」
「純真そうだもんなあ・・・萱ちゃん。で、まだやってないんか、晃は?」
ニヤニヤしながら、翔が言う。
「・・・どうやって、誘えば。」
「みっともないところは見せらんねえ、ってか?」
「萱にその気があるのかも、いまいち良くわかんねえんだよな・・・。」
「好きな男性とは、したいだろ、女性は。」
「そういうもんかね?俺はまだ女を完全に理解できん。あれは理解しがたい生き物だよ、ホント。」
「ま、俺達男にとっては女は未知の生き物だ。あんまり気にしないで、適当に飲ませてホテルにでも誘え。ちょっと休憩したい、とか言ってさ。」
「未成年だぞ!それにそういうの・・・苦手なんだよな・・・。休憩したくてホテルに入らないだろ、普通。」
「じゃあお前が新宿の高級ホテルのスイートルームでも予約しろ。もうすぐだろ、萱ちゃんの誕生日。豪華ディナーと豪華スイートルーム、それで彼女がその気にならなかったら俺はますます女が理解できないね。」
そう言って翔はジョッキをぐっと飲み干した。晃は煙草を灰皿に押し付け、煙と一緒に溜息をついた。
「おっちゃん、生中お代わり!こいつの分も。」
「俺はいいよ・・・!おっちゃん、1杯で。」
「なんだあ、お前。この翔様が恋愛相談にのってやってるのに、付き合えないってか?」
「お前の介抱する人間が必要だろ。」
「くっそ真面目で面白くないやつ。恋愛なんて、もうちょっとフランクに考えろよ。難しく考えたってわかんねえよ、まだまだ大人1年生の俺たちにはな。」

結局、翔は生中を5杯ほど飲み、店を出るころには完全に千鳥足だ。
(しょうがないやつ・・・。)
晃は、翔を連れて始発電車に乗る。社員寮までの道のりを、翔に合わせてゆっくりと歩く。
(萱の誕生日・・・どうしようかなあ・・・。)

その時。また誰かの視線を感じた気がした。そしてまたこの香り・・・今度こそ、気のせいではない。そう思った晃は、翔のことも忘れ、キョロキョロと辺りを見回した。
(・・・誰もいない・・・か。)
寮の近くまで歩いては来ていた。そろそろ今日当番の同僚が出勤する時間ではあったが、辺りに人影はなかった。晃はまたそれを、心にしまい、なかったことにした。そもそも男子寮で誰かの視線なんか感じてたら気持ち悪いよ・・・と晃は苦笑いした。俺に?ストーカー?男の?ないない。あり得ない。その結論に、妙に納得した晃は、翔を部屋に送り届ける。
「明日、置いて行かないでくれよ。」
「わかってるよ、お前は朝弱すぎなんだよ。どうしてこんな職種を選んだんだ。ちゃんと起こしに来るから。遅刻しないように皆で出勤、どこの学生だよ。とにかく、シャワーは後回しでもいいから、寝ろな。おやすみ。」
そう言って、晃は自室に帰った。

狭い社員寮の部屋には、必要最低限生活していく物くらいしか置いていない。最低限の衣服、最低限の食料、そんな中にひっそりと飾ってある・・・今年の夏、海へ出かけた時撮った写真が眩しい。肌を露出することを嫌い、ワンピースのような水着を纏った恋人、萱。
「晃以外の男性には、見せたくないの・・・。」
・・・そう言って、萱は晃を驚かせた。そう、まだ萱の身体など、一度も見たことなどないのに。ただ萱は折れそうなくらい細くて、色が白い。晃が知っているのはそのくらいで、萱とはまだ一線を保った付き合いを続けていた。萱は学生で実家暮らしだし、晃は社員寮生活。お互いの家を訪れることなど、あり得ない。それがどうしても一線をこえられない理由のひとつかもしれなかった。
今日は夜、萱と食事の約束をしている。大学生の萱の学校帰りに、表参道駅で待ち合わせをしていた。それまでに少し寝て、シャワーを浴びなきゃ、と晃はとりあえず歯を磨いて、14時に目覚ましのアラームをつける。晃はすぐに眠りについた。

目覚めたのは、昼過ぎだ。腹が減って目が覚める自分の健康さ加減に、呆れかえる。待ち合わせまでは、まだ時間がある。何か食べようか。
とりあえず、煙草を吸いたい、と思った。カーテンを開け、窓を開け、眩しい太陽にさらされて、晃は小さな灰皿を手に、煙草を燻らせた。
煙草を吸い始めたきっかけは、萱だった。
初めて会ったのは、ある春の日の夜、表参道の萱のバイト先のカフェに訪れた時。その時、翔も一緒だった。最初に接客をしてくれたのが、萱だった。
「当店、全席禁煙となっておりますが、よろしいでしょうか?」
もちろん、はいと答えた。まだ19歳だった晃と翔。煙草は吸わない。
「・・・ヒ・カ・ル!晃?」
「・・・何?」
「お前さっきからあの子の方ばっかり見てるけど?何々、恋か?恋の始まりか?」
「冗談言うな、別に見てねえよ。」
気になった、というのが正解だった。だが、晃はそこまで意識していないつもりだった。だが、カフェでかなりの時間を過ごし、彼女はいつの間に居なくなっていた。シフトの時間が終わったのだろう。程なく晃と翔はカフェを出て、駅へと向かった。そこで見てしまったのだ、さっきとは別人の萱の姿を。萱は、表参道駅近くの喫煙所で、煙草を吸っていた。思わず見つめてしまった晃の視線に、萱は気づいた。
「あ・・・。さっきの・・・。」
「えっ君?まさか年上なの?」
「私18歳です。ごめんなさい、煙草はダメですよね。貴方は?煙草は吸わないって言ってたけど、まだ未成年?」
「俺は19歳。君より年上だよ。あと半年くらいで20歳。」
「じゃあ・・・20歳になったら私の代わりに煙草、吸ってくれますか?」

そうして、晃と萱は付き合い始めた。晃が20歳になった日、萱はピタリと煙草をやめた。まるで何もなかったように。そしてその日から、晃は煙草を吸うようになった。たまにその副流煙を萱が求めてきた。晃が萱に煙を吹きかけると、萱は目を瞑った。それを合図に、口づけをする。だが、関係はそれ以上には進まなかった。

「腹が減った・・・。」
冷蔵庫を開けると、賞味期限の切れた菓子パンが入っていた。別に腹を壊しはしまい、晃は、インスタントコーヒーをカップに作り、その菓子パンを齧った。
スマホが震えた。萱からのLINEだった。
「次で授業終わるけど・・・いつものところに17時でいいの?」
「いいけど、大学まで迎えに行こうか?」
そう返事を返す。すると、すぐにまたスマホが震えた。
「大丈夫、実は友達にご飯誘われたけど、大事な用事があるって断ったの。適当に迂回して表参道駅に行くから。」
「わかった。じゃあいつものところで。」
まだ誰にも言ってないんだな、萱は、と晃は思った。萱は、自分に恋人ができたことを、友達にも親にも話していないと言う。多分、何となく罪悪感なのだろうな、とは想像がつく。あんなきっかけで。理解できなくもない。

身なりを整え、晃は寮を出た。寒い。思わずマフラーに顔を埋めた。
表参道駅に着いたのは、16時半を少しまわった頃だった。
「早すぎた・・・。」
晃は煙草を1本取り出した。そう、この喫煙所で萱と二度目の出会いをした。煙草でも吸っていれば気も紛れる。
最初は、煙草を美味いとは思わなかった。何故萱が18歳で既にこんな物に手を出していたのか、その理由は晃にはわからなかった。だが、煙草はとても都合のいいものだった。喫煙所で上司や先輩とコミュニケーションが取れる。煙草を介すると、人は少し心を開くのだ。そうやって、晃はあの日から、社内での人間関係を乗り切ってきた。そんな晃の話を聞いて、翔も煙草を吸い始めた。翔も煙草は都合のいいものと気づき、2人はすっかり一人前の喫煙者になってしまった。

「ヒカルー!」
その瞬間、身体がぐらつく。萱だ。萱が晃に抱きついたのだ。
「萱、早いね。まだ17時前。」
「友達、大学内で撒けたから、真っ直ぐ来たの。・・・寒いね。」
晃はマフラーを取って萱の首にかけた。この寒いのに、萱はマフラーも手袋もしていない。
「ありがとう!煙草臭くて好き!ねえちょっと頂戴!」
いつものように副流煙によるコミュニケーションを取る。『喫煙所』の看板に隠れて口付けた。
「いつもの店、予約してあるけどいい?」
「うん、何時?」
「18時。」
「少し時間あるね・・・ラフォーレ行ってもいい?見たい服があるの。この間見て、気になってて。」
「いいよ。」
ラフォーレ原宿までは、歩いて10分くらいだ。晃は灰皿に煙草を押し付けると、萱の手を取り歩き出した。透き通るように白い手が、冷たい。
「寒くないの?手が冷えてる。」
「マフラー、あったかいよ。いい匂いだし。」
ふふ、と萱は笑った。
「表参道ヒルズって、何が入ってるの?何か有名な店とか?」
晃はいつも前を通るだけで、表参道ヒルズに入ったことがなかった。
「あたしもあまり知らない。あ、でも有名なチョコレートの店が入ってる!確か、ジャン・・・。」
「ジャン=ポール・エヴァン?」
「そう、それ。良く知ってるね。」
「確か新宿の伊勢丹にも入ってるよ。」
何となく、伊勢丹の地下に、入りにくそうな佇まいで出店していた気がした。
「そうなの?じゃあ初バレンタインはそこにしようかな。」
「いや、そこそこ高いよ?」
「私もバイトくらいしてるんですけどお?初めてなんだからさ、記念日じゃん。たまには奮発しないと。いつも食事とかおごってもらってばかりだし。」
「いや、それは萱は大学生だからいいんだよ。俺は社会人だし。」
「何?かっこいー。いーな、私も大学行かないで就職すれば良かった。」
「萱は文学、学びたかったんだろ?俺はもう、特に学びたいこともなくて、手っ取り早くお金稼げそうなところにたまたま入社できただけだし。」
「私駅員さんなんて駅に居る人だと思ってた。」
「いや、そうだけど。駅に居るけど。」
「じゃなくて、まさか駅員さんとお近づきになるとは思わなかったって話よ。」
「まあそうだよね。駅で切符売ったり改札に立ってたりなイメージかも。あまり現実味はないよなあ・・・。」
「でも、晃と付き合うようになって、結構大変な仕事なんだなって思った。遅刻で退職届書かされるって何?私高校時代なんてむしろ遅刻しないことがなかったかも。だいたい2,3分くらい遅れる。別に2、3分なら教師もまだ来てないし、単位取れるから、問題なし。」
「俺、高校時代、遅刻したことも学校休んだこともなかったなあ・・・。まあ、だから鉄道会社に入れたのかもしれないけど。」
「うっそぉ。皆勤賞なの?あり得ない。あ、信号変わったよ、晃。」
明治通りを渡れば、ラフォーレ原宿だ。

「2階のお店に行きたいの。えっと、エレベーター降りて・・・。何て店だったかな?凄く可愛いワンピースがあったの。」
「とりあえず、エレベーター乗る?」
数台あるエレベーターは、すぐにランプが点灯した。2階で降りて、左・・・。
「この店?何か一見さんお断りって感じだけど。」
先程のジャン=ポール・エヴァンと同じで、何か店に入りにくい雰囲気だ。だが萱は構わず店に入っていく。
「あ、萱、待って。」
晃は慌てて後を追った。
「いらっしゃいませ。」
丁寧な様子の女性が近づいてくる。アパレル業が長そうな、大人の女性と言った感じだ。
「お荷物お預かりいたしましょうか?」
話しかけられて、一瞬晃はたじろいだ。何だ、これ・・・。この感じ、何処かで感じたことのあるような・・・。
「どうされましたか?お荷物お預かりいたしますよ。ごゆっくりご覧になって下さいね。」
「あ、はい。すみません。」
持っていた萱のトートバックを、晃はその女性に渡した。
「あ、あの・・・この間見たワンピース、ありますか?本が柄になっている・・・。」
「ロイヤルライブラリーシリーズですね。こちらにございますよ。」
萱が店員の後をついていく。
「こちらですね、型がいくつかございまして・・・。」
「あっ、これ・・・。晃!これ!」
「あったの?」
「うん、これ、ひとめぼれしたの。可愛い。」
「何か、萱が着たら少し大人びそうだけど。」
「何よぉ、もうすぐ1歳差に追いつくのに、子供扱いして!」
その様子を店員が穏やかに見守っている。その何とも言えない憂いた表情が晃は気になった。
「ご試着なさいますか?」
「いいんですか?」
「ええ、もちろんです。ご案内しますね。」
店の奥にある試着室は、女の子が入ったら喜びそうな、とても雰囲気のある場所だった。
「晃、着てみるね!」
「うん。待ってるから大丈夫。」
「お声かけ下さいね。」
店員がカーテンを閉める。
「こちらにお座りいただいても大丈夫ですよ。」
「あ、ありがとうございます。」
晃は慌ててその豪華な椅子に座った。落ち着かない、早く着替え終わらないかな、そんなことばかりが頭をよぎる。何を焦っているんだろう、俺は。
「晃ー!チャックがあがらないの!助けて!」
「あ、うん。開けるよ?」
そう言ってカーテンを開けようとすると、その店員の女性がさりげなく晃の右手に触れた。
「大丈夫ですよ。」
微笑むと、店員はカーテンを開け、萱が試着していた服のチャックをあげる。晃は、左手で右手をこすりながら、呆然とした。
「ねえ、どう?晃?」
「似合ってるよ、似合ってるけど・・・いつ着るの、それ?それじゃ大学行けなくない?」
「えーっ?ダメ?じゃあ土曜日か日曜日のデートの時着る!」
「てか高そうだけど・・・。買うの?」
萱が慌てて値段を確認する。そして表情が曇る。
「うーん、買えないかも。」
萱は苦笑いをした。
「さっき、もうすぐ1個差に追いつくって仰ってました。お誕生日なのでは?」
先程の2人の会話を聞いていたらしい女性店員が、柔らかい声でそう話しかけた。
「あっ・・・。」
萱が笑顔になる。
「晃!誕生日プレゼント、これがいい!」
「誕生日って、まだ来年じゃないか・・・。もっと色々考えさせてくれよ・・・。」
「来年たって、来月よ。何か、考えてくれてたの?」
「いや、プレゼントとかは・・・考えていなかったけど。」
晃は嘘をついた。実は本気で、新宿のヒルトン東京のスイートを予約しようとしていたのだ。晃でも払えそうな価格だったし、昼間はマーブルラウンジのストロベリー・スイーツビュッフェに行って、そのままチェックインして・・・そんな萱の誕生日を思い描いていた。翔の言ったように、下心がないわけではなかった。キスしかできない関係など、もう嫌だったのだ。友達の家に泊まる、適当にそう言い訳でも親にしてもらって、萱の誕生日はホテルのスイートで過ごそうか、そう思っていたのだ。
(まあいいか・・・二重のプレゼントなら、サプライズにもなるし。)
「晃!ごめん。プレゼントの催促なんて、最低。」
「いいよ!」
俯く萱に、晃は慌てて言った。
「いいよ、プレゼントする。萱の欲しいものがいいもんな。すみません、あれ、プレゼント用に包んでいただけますか?」
「もちろんです。良かったですね、カヤさん。ヒカルさんも、優しい方。」
「いいの?ありがとう!晃!」
「うん、萱、着替えて。そろそろ夕食の予約の時間だ。」
「あ、うん。ごめん、すぐ着替えるね。」
「じゃあカーテン閉めますね。」
女性店員がカーテンを閉める。
「あちらに同じ商品ございますので、お包み致しますね。」
「ありがとうございます。」
「お誕生日、いつなんですか?」
「1月13日です。まだ先なんすけど。」
「・・・煙草の日、ですね。」
「えっ・・・そうなんですか?」
「確かそのはずですよ。昔ヘビースモーカーでした。結婚してすぐ、やめましたけど。子供が産まれるので。」
「そうなんですね・・・。」
萱の生まれた日が煙草の日、何かを感じずにはいられない。「煙草」で出会った関係なのだ。そして萱は、晃の誕生日にあっさりと煙草を捨て、晃に引き継いだ。
「お支払い、カードでお願いします。」
「かしこまりました。お支払いは・・・?」
「1回で。」
「では、こちらにサインをお願い致します。」
(ん?暗証番号ではなく?サインでいいの?そう言うものなのかな?)
晃は言われた通りにサインをし、支払いを済ませた。
「お包み、こちらでよろしいでしょうか?」
「ありがとうございます!萱が喜びます!」
丁寧に赤いリボンで包まれたそれに、萱の喜ぶ顔が浮かんだ。
「こちらお返しいたしますね。」
レシートと、カード支払いの受領書を、綺麗で小さな封筒に入れて女性店員は晃に渡した。着替えを済ませた萱が、駆けてくる。
「え、お洋服は?」
「同じ物があったから、もう包んでくれたよ。」
「そうなの?ありがとう。嬉しい。」
「でも誕生日までこれは俺の預かりな。」
「わかった。」
女性店員が、にこやかに微笑みながら晃と萱のやり取りを聴いている。
「お送り致します。」
そして、女性店員は、ショッピングバックと萱のトートバックを持ち、そう言った。そう言うものなのか・・・。客を店先まで送るんだ・・・。
「素敵なお誕生日になるよう、祈っております。また是非お越しください。お待ちしております。」
持っていたものを晃に手渡すと、女性店員は丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございました。」
そう言うと、女性店員は晃に不思議な視線を送り、晃と萱を見送った。
晃が振り返った時、もうそこに彼女の姿はなかった。

「ごめんね、夕食遅れちゃう?」
「大丈夫、まだ10分あるから。少し遅れても大丈夫だよ。いつもの店だし。」
「良かった。」
晃は上の空だった。

いつものレストランで、晃は白ワイン、萱はグレープフルーツジュース、いつもの萱の好きなペスカトーレを食べる。正直味があまりしなかった。
「やっぱりここのペスカトーレが一番美味しい。」
萱は嬉しそうだ。萱はあまり量を食べない。とにかくよく食べる晃には全く足りない量だ。だがそのことをあまり萱は知らない。
食後のコーヒーを飲みながら萱とした会話は、ほとんど記憶に残らなかった。
「そろそろ帰らなきゃ。お母さんに怒られちゃう。」
萱には門限があった。22時を過ぎてはいけない。
「角の公園まで送るね。」
「うん。ありがとう。これ、返しておくね。」
萱が晃のマフラーを、首に巻いてくれる。
いつものように、萱を、家の近くの公園の前まで送った。しばらく待つと、萱からLINEが来る。
「ちゃんと帰ったよ。今日はありがとう。明日お仕事でしょ?頑張ってね!」
「萱も大学頑張れよ。おやすみ。」
そう返して、晃は帰路についた。

駅に着くと22時半を周っていた。明日は4時半に起きなければ。まず翔を叩き起こさなければならない。だがどうにも腹の虫がおさまらず、晃は駅前の吉野家で牛丼の大盛をかきこんだ。そうして、コンビニで朝食用のパンを2つ買い、社員寮に戻った。鍵を開け、部屋に入ると、カーテンが開けっ放しだ。窓に歩み寄り、カーテンを閉めようとすると、月がこちらを見ていた。フルムーンだ。晃は慌ててカーテンを閉めた。
電気をつけ、ポケットに入っていた財布をベッドの上に投げると、コートをハンガーにかけて、どさりとベッドへ倒れ込んだ。
「何か疲れた・・・。」
そう言えば、あのワンピースはいくらだったっけ?支払いの時値段を言われた気がするが、記憶にない。晃はあのレシートの入った封筒を探した。財布を見たが、見当たらない。コートのポケットを確認すると、少しよれたそれがポケットの底に入っていた。
「あ、あった。」
晃はベッドに再び倒れ込むと、何気なく封筒を開けた。すると、レシートではない何か・・・白い便箋が折り畳まれたものが、ひらりと落ちた。
(何だろう・・・。)
これは、何だろう。便箋を開くと、隅の方に小さく何かが書かれていた。

「立花 爽香 090-xxxx-xxxx」

心拍数が急上昇した。右手に感覚がよみがえる。そして晃は酷い吐き気に襲われ、トイレに駆け込んだ。
先程食べたばかりの消化できてない形の残ったままの肉片、消化されかかった赤いトマトソース。吐けるものを全て吐きつくすまで晃は嘔吐した。そしてそのままトイレで意識を手放した。


ドンドンドンドン!
尋常ならざる物音で、目が覚めた。
「晃!居ないのか!ヒカル!」
上司の声だ。どうやらついにやらかした、と気づいたのは急激に意識が戻った、その時だった。腕時計を見る。6時を過ぎている。とうに出勤していなくてはいけない時間だ。
慌ててドアに駆け寄り、鍵を何とか開けドアを開ける。そこには青い顔をした上司が立っていた。
「晃!大丈夫か?心配したぞ?」
「申し訳ありません。出勤遅延です。言い訳はできません。」
「お前は遅刻しないだろう。具合でも悪いのか?どうした?」
「いえ、ただの寝坊です。申し訳ありません。」
「・・・そうか、わかった。早く仕度しろ。駅長には俺も同行してやるから。」
「すみません・・・。急いで仕度してきます。」

結局、晃が出勤したのは、7時半を過ぎていた。まだ「列車を動かす」業務についていないことは幸いした。晃の失態が、列車の遅延などには直接繋がらなかったのだ。だが、もちろん駅長には呼び出され、厳しい怒号が飛んだ。同期にも、好奇の目で見られてしまった。ここまで派手に遅刻した同期も、先輩も、後輩も、晃の知る限りいなかったのだから仕方がない。遅刻ゼロで通っていた晃の信用は大きく失われてしまった。
「夜中に酷い嘔吐をして失神していた。」
そう言えば、自己管理がなっていないことは叱咤されるだろうが、少しは良かったかもしれない。が、どうしても晃はそれを認められなかった。あの、便箋を見ただけで、激しく嘔吐し、失神した自分が、まるで理解できなかったのだ。だから寝坊して遅刻したことにした。自分の首を絞めている。だがどうにも晃にはその事実は認めがたかった。

少し遅めの昼休憩、晃は正直食べるのが怖かった。だが、腹は普通に空く。とりあえず消化に良さそうな物を少し食べて、食事は終わりにした。
「晃!」
昼休憩終わりの翔だ。探していたのだろうか?
「晃!どうしたんだ?大丈夫か?何があった。俺心配で・・・。」
「いや、ただの寝坊だ。起こせずすまない。」
「そうじゃなくて、お前が遅刻なんて、あり得ないんだって。何かあったんだろう?昨日、萱ちゃんと会ってただろ?何か、あったのか。」
「いや、いつも通り10時前に送って、そのまま寮に帰ったよ。特に何もない。」
「本当か?ならいいんだけど。あんまり心配かけんな。」
「悪い。翔、しばらく酒は自粛する。次はないから。」
「・・・わかった。俺も、お前と同じ出勤日は、起こしてもらわないと困るからな。俺も酒、自粛する。」
「いや、お前は飲んでもいいんだって。関係ないだろ。同じ日に出勤とは限らないんだから。飲みに行けよ。お前が酒なしでやっていけるとは思えないぞ。」
「いや、俺も酒は飲まん、お前が飲むまでは。」
「・・・今朝は、大丈夫だったのか?」
「俺はちゃんと起きたよ、お前が起こしに来ないなんて、ただ事じゃないと思った。とりあえずドアを叩いてベルも鳴らしたし、携帯も鳴らしたけど、全く反応がないから、死んだと思った。」
「人を勝手に殺すな。俺はまだ20年しか生きてないぞ。童貞のまま死ねるか。」
「・・・お前、童貞だったの?」
「そうだよ!何か悪いか!」
「ふ・・・ははは、それは死ねないな。男の恥だ。心配して損した。」
「うるせえな。ほら、早く勤務戻れ。俺も戻る。休んでられっかこの身分で。」

とにかく何か失敗しないこと、それだけを頭に晃は働いた。萱には連絡を入れた。少し体調が悪い、次の休みは会えないかもしれない。
「大丈夫?お見舞い行けないのが辛いな。私のことは大丈夫よ。」
そう返ってきたLINEを、晃は見なかったことにした。
そして、次の休みの日の夜。

震える手で、スマートフォンのダイヤルを、一つ一つ押していく。その電話番号が完全になり、通話をタップする。呼び出し音が何回か鳴る。晃はその瞬間我に返り、思わず電話を切った。何とか死の淵から甦ったような気持ちで、安堵の溜息を吐いた。

だが。

次の瞬間、晃のスマートフォンが鳴った。無視をした。3回、4回、無視をした。だがもうそのスマートフォンに示される電話番号が、晃を誘惑した。

晃は、禁断の扉を自ら開いてしまったのだ。

「・・・もしもし・・・。」
「・・・ヒカル・・・さんでしょ?橘晃さん。立花です。立花爽香です。貴方からのお電話を、待っていました。」
「萱に・・・ワンピースを買ったお店の、店員さん、ですか。」
「・・・そうです、正式に言えば、店長です。」
「どうして俺に・・・電話番号を・・・?」
「貴方を、知っていました。東京駅の新幹線のホームで、お見掛けしました。私は出張で新大阪に向かうため、15番線で新幹線を待っていました。貴方は、16番線の辺りで、制服に身を包んで、お仕事をされていた。」
「俺を・・・知って・・・。」
「ごめんなさい、一度貴方が帰宅される時、後を着いて行きました。旦那が出張で居なかった時、娘を寝かせて。」
「どうして・・・そこまで・・・。」

「ゆっくりお話しさせていただけませんか?電話ではなく。」
「直接会って、という事ですか?」
「そうですね。はい。」

晃は冷静に考えた。これは萱への裏切りになる。会えない、と言わなくてはならない。だがどうしても、それを口にすることができなかった。会いたかった・・・。自分の感情に混乱して嘔吐するほど、仕事に支障をきたしてしまうほど、彼女が心に棲みつき、暴れていた。会えないなどと、言えるものか。自分の気持ちに、嘘がどうしてもつけなかった。

「わかりました・・・いつ、会えますか?」

「次、旦那が居ないのが、1月13日です。初めて、旦那と娘、2人きりで旅をします。1泊で、草津にスキーに行くそうです。私の休日と、旦那は言ってくれました。」
「・・・その日は・・・。」
「わかっています。カヤさんのお誕生日ですよね?」
「はい、その日、萱を捨てることは・・・できない。」
「次に、旦那と娘が居ない日は、年単位で後になるかもしれません。何時でもいいです。新宿のホテルを予約しています。何時でもいいので・・・。待っています。丸ノ内線の西新宿駅の改札に着かれたら、お電話いただけませんか。」

萱の門限は、22時。それを萱は恐らく、守るだろう。萱を送って、最終電車には余裕で間に合う。冷静に判断を下せる、自分が不思議だった。だが、0時をまわること。13日が終わって、14日になること。それがせめてもの萱への償いだと思った。

「0時をまわっても、いいですか?」
「構いません。私は18時くらいから部屋でお待ちしています。お電話いただきましたら、場所をお伝えします。」
「・・・それまで、立花さんにはお電話できません。それでもいいですか?」
「もちろんです。私は貴方を忘れることはありません。私の気持ちで、貴方を、往かなくてもいい道に誘い込んでいることはわかっていますから。」
「では、1月13日・・・夜、必ずお電話します。待っていてください。」

そう言って、晃は電話を切った。

確かに、「往かなくてもいい道」かもしれなかった。このまま、萱と付き合いを続けて、いずれ結ばれて、両親に紹介し合って、婚約して、結婚して、子供が産まれて・・・。そんな未来を、想像したことがなかったわけではない。だが、既婚の身の女性と、密かに深夜、ホテルで密会など・・・。
会うだけだ、話をするだけ。話が終わったら、部屋を出て、新宿なら適当に過ごせる場所など何処でもある。カラオケ店でもいいし、ネットカフェもあるだろう。朝まで、適当に過ごして、帰れば。

「休暇を申請しなければいけないな・・・。」

1月13日は非番だ。14日は休暇を申請しよう、そう晃は思った。そのまま適当に出社すればいい、そうなのだ。朝、間に合わないこともないだろう。だがそこはどうしても、休暇を取らねばいけない。次はない。次またあんな出勤遅延をやらかしたら、昇進できなくなるかもしれない。前もって休暇を取ろう。晃は何も考えず、そうすることにした。


12月も末になると、世の中は完全にクリスマス一色に染まる。どうしても、24日、25日を休めなかった晃は、23日に萱とクリスマスデートをした。萱の為であっても、まさかデートしたいので休みますなどと甘っちょろいことは言えない。20歳の若造であっても、社会人なのだ。萱は極めて利口な子だった。そんなことはわかってる、クリスマスは友達とパーティーをするんだ、そう言って晃を困らせなかった。その代わり、お誕生日は学校が終わったら会ってね、この間のプレゼントと、いつものペスカトーレがいいな、そう言った。晃は萱と誕生日に会う約束をした。何か特別なことは、プレゼントを渡すだけ、それも萱が欲しがった、中身の知れたプレゼントを形式的に渡して、いつもの店でグレープフルーツジュースで乾杯して、ペスカトーレを食べる。


1月13日、ずっとずっと待っていた日。あの女性に会える日。萱の誕生日でなく、あの女性に会える日だ。ずっと待っていた。でも、本当に?揶揄われているのではないか?いきなり晃は怖くなった。電話をして、もしかして恥をかくのでは?そうも思ってしまった。晃の心にはあの女性が、立花爽香と名乗る女性が、とっくに棲みついてしまっていたのだ。

1月12日、いつものように勤務をこなし、深夜に帰寮した。眠れなかった。寝付いたのは、カーテンの間から、ぼんやりと明かりが見え始めた時だ。晃はかつてないほど熟睡した。夢を見るでもなく、深く、深く、眠った。だが職業柄起きなくてはいけない時間には目覚める。萱との待ち合わせに遅れない時間に、しっかりと目覚めた。いつもはやらないことした。何となく、浴室でシャワーを浴びた。いつものラフな服装でなく、ノーネクタイながらスーツを着た。実は今日の為にあらかじめ買っておいたものだ。何が自分をそこまで駆り立てるのか、わからない。だが身なりはきちんと整えて行きたかった。

いつもの喫煙所で、煙草を吸う。珍しく、萱から少し遅れるという旨のLINEが来た。
「慌てないで、待ってるから。」
そう返し、ひたすら煙草を吸い続ける。そして、5本目の煙草が終わるか終わらないか、萱がいつものように突然抱き付いてきた。
「ごめん、晃。教授の話が終わらなくて。・・・スーツ?珍しい!お誕生日だから、特別扱い?・・・ふふ、煙、頂戴。」
いつものように、副流煙を吐きながら、萱に口付けをした。
「いつもの店、18時に予約してる。どっか行く?」
「私、この間、晃がプレゼントを買ってくれた店の店員さんに会いたいな。今日誕生日です、明日からこの服着れます、って報告したい。」
「・・・いいよ。」
あの女性は、あの店の店長さんは・・・立花爽香さんは、今日は休みを取っているはずだ。だが晃は急に緊張した。もし、居たら。俺はどうすればいいのだろう?ずっと待っていたこの日に?あの女性は何事もなかったように勤務していて、それで萱と共に会うことになってしまったら?気持ちが暴れすぎて、もう萱と食事などと言う状態ではなくなってしまう。

萱は、いつもと何も変わらなかった。晃が持っているプレゼント・・・をちらちら気にしているのはわかったが、何も言わない。いつものように、表参道を歩く。
「もうすぐバレンタインだね!約束通り、ジャン=ポール・エヴァンでチョコ買うからね。この間少し偵察したの。綺麗なショーケースに、一個一個並べられてて、店員さんが箱に詰めてくれるみたい。美味しそうなの選ぶから、楽しみにしててね!」
そう言われてみれば・・・あと1ヶ月もすると、バレンタインデーだっけ。すっかり忘れていた。1月13日、この日の後のことが何も考えられなかった。年末年始も、仕事柄特別なことがあるわけでもない。普段通り列車は運行するし、社員はいつも通り勤務だ。
「信号・・・長いね・・・。こんなに長かったっけ?」
萱が、不思議そうに言う。だが、晃にはあまりにもそれは短く感じた。信号が変わるまで、むしろ一瞬だった。
明治通りを渡って、ラフォーレ原宿に着く。エレベーターで2階へ上がり・・・。晃は頭がおかしくなりそうだった。
そこに、あの女性の姿はなかった。安心したのか、何なのか。思わず膝をついた晃を、萱が支える。
「晃!どうしたの?大丈夫?」
「ごめん、ちょっと眩暈。お腹空きすぎたみたい。」
「もう、びっくりさせないで。あの店員さん、居ないね。」
この間は居なかった、同世代位の女性の店員が、店のカウンターで何か書いているのが見える。萱が近づいて行った。
「・・・萱!」
「あの・・・今日は・・・あの、お休みですか?あの・・・髪をお団子で纏めてて・・・。」
「タチバナですか?タチバナは、本日お休みを頂いております。」
晃は確信した。あの女性はもう、新宿のホテルで自分を待っているのだと。
「そうですか・・・。」
「いかがされましたか?」
「いえ、何でも。」
「お荷物お預かりいたしますか?」
「いえ、大丈夫です!ありがとうございます!」
萱は笑顔でそう言って、晃の手を取って店を出た。
「いなかったね。お休みだった。タチバナさんって言うんだ。晃と同じだね。時間余っちゃうね・・・どうする?」
「じゃ、いつも通り裏原を散歩。」
「そうだね。あと30分くらいだし、ちょうどいいかも。」

開店が18時なので、いつも予約は18時だ。だが、今日ほど17時に予約したかったと思った日はない。だがそれをすると、萱へのせめてもの償いは、水の泡になるので、これで良かったと、晃は自分に言い聞かせた。

萱の好きなペスカトーレ。妙に味が濃い気がした。晃は萱に尋ねた。
「何か、いつもより塩辛くない?」
「そう?いつも通り美味しいよ?」
そうか、俺の舌が、身体が、もうおかしいのだと、そう自覚した。食後のコーヒーも、妙に苦かった。

「19歳のお誕生日おめでとう、萱。」
あらかじめ決められたプレゼントを差し出すと、萱は本当に嬉しそうにそれを受け取った。
「早く着たかったの!嬉しい!」
良かった、萱の喜ぶ顔が見られた。だが心に芽生える罪悪感。どうしようもなかった。
「今日は10時ギリギリになるかも、って、お母さんに言って来たから、少し遅くなってもいいよ。過ぎたらアウトだけど。」
晃には好都合だった。どこかでイライラと、萱への償いの為に時間を潰す必要がなくなるのだから。
「そう。じゃあ、渋谷へ行こうか。夜景、観に行こう。」
「夜景?観られるところあるの?行きたい!」

そんなに時間の余裕があるわけではない。歩いても15分くらいだが、晃はタクシーを使った。ヒカリエの前で降車し、エレベーターで11階へ。「スカイロビー」と言われる、夜景スポットだ。屋内で、寒くないのもいい。
「きれー!」
萱ははしゃいだ。だが、晃はただ北を眺めた。新宿副都心の臨める、北を。そこで、あの女性が自分を待っている。ただ、それを確認したかったのだ。萱に夜景をみせたかった・・・わけではない。
萱は、東西南北全ての方向を、一心に眺めていた。晃は、ベンチに座り、その様子をぼんやりと見ていた。時間を見ると、20時半をまわっている。
「萱!そろそろ帰ろう!時間がやばいよ!」
「あっ・・・門限!お母さんに怒られちゃう。すっかり忘れちゃってた。」

渋谷駅から、電車を乗り継ぎ、晃は萱を、いつもの公園まで送り届ける。萱からのLINEで、帰宅を確認できるのを待つ。時刻は21時50分を少し過ぎているが、大丈夫だろう。
「晃!部屋に着いたよ!今日はありがとう。明日、お仕事頑張ってね。」
萱からのLINEには、そう書かれていた。

明日、晃は仕事ではなかった。休暇の申請が通ったのだ。だが、萱はお休みの次の日は仕事、と思っている。わざわざ言う事でもないと、自分に言い聞かせた。
「ありがとう、頑張るよ。おやすみ。」
そうLINEを返す。

晃は一仕事終えたような気分になった。仕事の後の、疲労感と、同じ感覚だ。今ここから西新宿に向かったら、0時前に確実に着いてしまう。やはりどこかで時間を潰すのか?自分の、自己満足の為に。萱への償いと言う、自己満足の為に。ただそれを、自己満足とはっきり認識した晃は、正直そんなことはどうでも良くなった。足は西新宿へと急ぐ。そして、丸ノ内線の西新宿駅に着いた時、時刻は23時20分だった。ほんの少しの罪悪感は、自己満足という罪悪感で増長され、どうでもよくなっていた。改札を出たところで、壁に寄りかかり、一息つく。鏡を見たくて、お手洗いにも寄った。そして、スマートフォンを手にした。通話履歴から消していた、あの番号。晃はスーツの内ポケットから、あの便箋を取り出した。そして改めて、ダイヤルを押し、あの女性・・・立花爽香さんに、電話をかけた。

「はい・・・。」
あまりにもすぐに返答があり、晃はうろたえた。
「ヒカルさん・・・。少し、お早かったですね・・・お待ちしておりました。地下通路で繋がっているので、そのままヒルトン東京へお越しください。37階ののラウンジで、お待ちしています。」
「・・・わかりました。37階ですね。すぐに向かいます。」
ヒルトン東京ということに、動揺した。西新宿というのだから、そうではないかと思っていた。だが、考えないようにしていた。自分が、萱の為に、滞在しようとしたホテルだなどという事は。

言われた通り、地下通路から、ヒルトン東京へと入る。いくつもあるエレベーター。その一つに乗って、37階へ急ぐ。途中、1回もエレベーターは止まらなかった。緊張で、足がすくんだ。

ラウンジに入ると、そこにはストレートの髪の長い女性が、1人だけ居た。彼女だろうか・・・確か、あの時は髪をお団子に纏めていた。こんなに、髪が長いだろうか・・・。新宿の夜景を、ただ見つめて立っていた。晃は立ち尽くした。間違いないのだ、だが、どうすればいいのか。

その時、ゆっくりとその女性が、こちらを振り返った。晃の姿を見つけると、静かに微笑む。
「橘晃さんね・・・お久しぶりです。立花爽香です。どうぞ、サヤカって呼んで。」
「さ・・・爽香さん。俺も、ヒカルって呼んで下さい。」
「ここで立ち話をしていても。お部屋、行きましょう。」

爽香に連れられて、晃は後を付いて行く。女性を「連れて行く」ことはあっても「連れて行かれた」ことはなかった。それも、年は相当離れているだろう。エレベーターで、34階に降りる。

「ここよ、どうぞ、入って。」
鍵を開けると、晃を先に部屋へ通す。豪華で、とても広く、落ち着いた佇まいの部屋。
「スイートですか?」
「そうよ、気に入った?」
「こんな部屋、初めて入った。」
ゆっくりと部屋の中を歩く晃を、爽香は目で追っている。外は、綺麗な夜景が見えるだろう。晃は思わず、障子を開けた。宝石のように輝く新宿の街だ。
「そろそろ落ち着いた?晃、コートを脱いで。必要ないでしょ?」
「あ、はい。」
晃は、そそくさとコートを脱いだ。爽香がそれをハンガーにかけ、クローゼットにしまった。スマホをポケットに入れっぱなしなのに気づいたのは、その後だった。まあいい、話を少しして、帰るだけ。長居はしないし、問題ない。

「座って?何か飲む?シャンパンでいい?お腹は空いてる?何かルームサービス頼もうか?」
「だ、大丈夫です。シャンパンだけ、頂いていいっすか?」
その瞬間、晃のお腹がぐうと音を立てた。
「ふふ、お腹、空いてるじゃない?何かシャンパンと一緒にオーダーするわ。はい、メニュー。」
「は、はい。」
いや、喉を通りません、とは言えず、晃はメニューに目を通す。だが何も目に入って来ない。冷静になれと、自分に言い聞かせた。
「何がいいの?若いんだから、食べられるでしょ。お腹空いてたら、気が散るじゃない。何でも食べて。私、良く食べる子、好きよ?」
「す、すみません。俺分からないんで、適当に・・・。」
「お肉は?好き?」
「あ、はい。好きです。」
「わかったわ。」

爽香は、メニューを持ち、電話を取った。何をオーダーしているのか、晃にはよく聞こえなかった。
「待ってね。20分くらいかかるって。」
「あ、あの・・・煙草、吸ってきて、いいですか?」
「ここで吸って、大丈夫よ?ここ喫煙できる部屋だから。貴方は煙草を吸うと思ったから、ここにしたの。」
「じゃあ・・・すみません、失礼します。」
晃が煙草を取り出して咥える。すると爽香は高級そうなライターを差し出した。シュッと音がして、火が灯る。そのまま、爽香は煙草に、火をつけた。
「すみません・・・。」
晃は、何と言ったらいいか、わからなかった。すみませんなのか、ありがとうございますなのか、わからなかったのだ。こんな風に、女性に扱われたことはない。
「メビウスね。昔はマイルドセブンって言ったのよ。私も吸ってた。懐かしいわ。昔は、煙草の香り、好きだった。」
「あっ・・・すみません、今は・・・。」
「大丈夫よ、心配しないで。旦那が吸うわ。私はね・・・香水の方が好きになっちゃって。知ってる?これ・・・。」
手渡されたのは、少し薄緑がかった色をした、香水瓶だった。香水をつけたことはなく、晃には全然わからない。それを見て、困ったような顔をする晃に、爽香は微笑んだ。
「エルメスの、ナイルの庭よ。ユニセックスだから、男性も好きな方多いわね。つけてみる?」
「あ、じゃあ・・・。」
晃は慌てて煙草を灰皿に押し付け揉み消した。
「煙草、いいのに?」
「でも、香水なんで。」
「煙草と相性のいい香水もあるのよ?まあ、いいわ。髪、ごめんね。」
そう言って、爽香は晃の耳元の髪をあげ、耳の後ろに香水を散らした。その瞬間だった。
「あっ・・・。」
「どうしたの?あまり気に入らなかった?」
「俺、知ってます。この香り。何だろう。覚えてる。心が休まるような、この感じは・・・。」
晃は思い出した。あの時だ。駅のホームで誰かの視線を感じた気がした時。社員寮に翔を抱えて帰っていて、誰かの視線を感じた気がした時。あの時だ。鮮明に思い出した。間違いない。あれは、爽香さんの・・・。
「後で私もつけよう・・・。これからお食事が来るからね。」
そう言って、爽香は、ウェットティッシュで晃の耳元を拭った。

その時、ベルが鳴った。ルームサービスが来たらしい。
「お待たせいたしました。ドンペリニオンと、和牛照り焼き丼をお持ち致しました。グラスはお2つでよろしいでしょうか?」
「うん、ありがとう。」
「こちらにサインをお願い致します。」
爽香がサラリとサインをすると、ウェイターは一礼をして立ち去った。
「晃、こっち。こっちで食べながら話しましょう。」
ドンペリニオン・・・名前は聞いたことがある。確か凄い高いやつ・・・後、丼のようだ。丼なんて牛丼かつ丼親子丼、500円くらいのものしか食ったことがない。
爽香は器用にボトルの栓を抜き、グラスに注いだ。綺麗な金色の液体が、コポコポと音を立てる。
「食べないの?」
「あの・・・爽香さんは・・・。」
「私?こんな時間に食べられないわよ。もう若くないのよ。晃みたいに。いいのよ、遠慮しないで。乾杯しましょう。再会を祝して。」
爽香がグラスを傾けると、晃も慌ててグラスを手に取った。かすかにグラスのこすれる音がして、爽香と晃はその液体を口にした。

酒を断ってから、1ヶ月だが、久しぶりに口にしたアルコールは、高級感も相まって、とても美味しく、そして良く効いた。
爽香に促されるように丼の蓋を開ける。綺麗な白米の上に、牛肉と温泉卵のった、豪華な、所謂「牛丼」だった。

「食べられそう?あまり好みではなかった?」
晃は思わず頭を横に振った。
「いや、こんな豪華なの、食ったことないっす。」
「良かった。召し上がって。」
「・・・いただきます。」
晃はまず一口大にカットされている牛肉を頬張った。歯がなくても噛み切れるほど、柔らかかった。そして、米をかきこむ。
「晃、ちゃんと噛んで。丸のみしてるじゃない、身体に悪いわ。」
晃は普段からあまり食物を噛まない。大量に口に入れ、そのまま呑み込むように食べる癖があった。高校生の時、実家にいる時は、良く母にそれを怒られたのを思い出した。
「すいません・・・つい、癖で。俺、普段からちゃんと咀嚼しなくて。」
「ゆっくり食べていいのよ?ごめん、気になる?席はずそっか。」
「いや!居てください・・・。その・・・。」
「わかったわ。居る。食べながらでいいわ、聴いてくれる?」
「はい。」
「初めて見た時から、ずっと気になってたの。貴方のこと。時々東京駅で見たわ。私、仕事が原宿でしょ?家も神奈川の方だし、あまり東京駅には用事が無いのだけれど、理由を作って、よく行ってた。あるじゃない、東京駅でしか買えないものとか。そう言うのを買う口実を作って、良く新幹線の改札の方にも足を運んだわ。」
「・・・俺、ですか?」
「ごめんなさい、こんなストーカーみたいな真似。でも私には、晃はとても可愛くて、何処か頼りなくて、魅力的だった。思い出してしまったの、ずっと押し殺していた感情を。」
「押し殺していた・・・?」
「29歳の時、結婚をして、一度仕事を辞めて、完全に家庭に入ったの。31歳になる直前に、娘を産んだ。しばらくして・・・辞めた職場・・・今の職場から誘われて、また仕事に戻ったの、娘が2歳の時ね。ずっと仕事と育児の毎日だった。旦那は仕事が忙しくて、海外に行ったり。帰って来なかったり。押し殺していたというよりは、忘れていたんだと思う。自分は一人の女性でもあることを。」
晃は箸を止めた。
「貴方を見て、思ってしまった。私はまだ女性としても生きたいんだって。ねえ、晃は社会人だけど、年はいくつなの?かなり顔立ちは幼く見える。」
「俺は高卒で、18歳でJRに入社して、今20歳です。11月に、20歳になったばかり。」
「えっ・・・まだ20歳なの?確かに顔立ちは幼いけれど、今、煙草を吸っている姿を見て、もうちょっと上かと思ってた。そう・・・20歳・・・。まだ子供ね・・・。」
「子供、でしょうか?そこそこ職務も全うしているのですが・・・。」
少しだけ馬鹿にされたような気がして、つい口調がきつくなった。
「ごめんなさい。晃がお仕事をしている姿、見ているもの。立派にお仕事されているわ・・・だけど、20歳なんて、まだまだ子供。だって、大人ってなんだか、わからないでしょう?私もそうだったと思う。」
そう言われると、ぐうの音も出ない。
「食べていいのよ?食べながら聴いて?子供って言ってるのにあれだけど・・・私は貴方に女性として認められたいと思ってしまった。もちろん、旦那も、娘も、大事よ?特に娘は本当に神様から授かった宝物で、娘と過ごす時間、場所、とても大事にしているつもり。だけど、女性として生きたい気持ちがどうしても抑えられなくなってしまった。だから晃が、恋人・・・カヤさんと一緒にうちの店に来た時は、正直動揺した。冷静に接客できたのは、経験ってだけ。もちろん、私は貴方の名札を良く見ていたから、苗字が私と違う字で、「タチバナ」であることは知っていたわ。そして、カヤさんが呼んでいたことで、「ヒカル」と言う名前と初めて知った。でも私は知りたかった・・・どんな字で、「ヒカル」なのか。だからあの時私は「暗証番号」でなく、「サイン」で対応した。現行だと、まだサインでもカードは使える。これは私の完全な職権乱用だから・・・。それでも、私は貴方が「晃」という名前だと知ることが出来た。そうしたらどうしても貴方と話がしたくなった。だから書いたの、名前と電話番号。それしか、方法は見つからなかった。待ったわ・・・。長かった。ずっとスマートフォンを気にしてて、旦那にも不審に思われたけど・・・。だからあの時電話が鳴った時、ようやくかけて来てくれたんだと思った。だけどそれはすぐ切れてしまった。」
「すみません・・・俺も・・・どうしたらいいのかわからなかったんです・・・俺には、萱がいるし、でも爽香さんのことも凄く気になった。あの日の夜、俺、食べたものを全て嘔吐して、気を失いました。仕事に初めて遅刻をしてしまった。鉄道会社って、遅刻に凄く厳しいんです。でも俺は派手に数時間、上司が心配して寮に来るまで、気づかなかった。俺も凄く動揺していました。」
「・・・ごめんなさい、そんな事が・・・。」
「いや、爽香さんは何も悪くないんです。俺も、貴方がどうしても離れなかった。萱と一緒に行ったお店で貴方に初めて俺は会いました。その時はよくわからなかったけど・・・貴方が俺の心に入り込んできたのは間違いないです。・・・いや、もう既に入り込んでいたのかも。貴方の存在を、初めて感じ取った、その日から。」
「私を感じ取っていた?」
「さっきの香水で、わかりました。俺は貴方を知っていた。何処の誰かはわからないけれど、知っていたと思う。その香りに、覚えがあるから。・・・ごちそうさまでした。美味かったです。」
「お腹いっぱいになった?」
「はい、充分。」
「じゃあ、話を続けましょう。貴方は私の存在を感じていた。その香りで?」
「視線、も感じました。何か慈愛に満ちた、視線を。そう何度でもありません、感じたのは、多分2回くらい。新幹線のホームで、それと寮の近くで。」
「私は晃をずっと見ていたもの・・・2回なんて酷いわ?」
「・・・すみません。」
「あ、冗談よ。ごめんなさい。」
「だから・・・俺は電話をかける自分を止められなかった。もしかしたら萱を裏切るかもと思ったけど、その理性で一度電話を切った。もうやめようと思ったら・・・爽香さん、貴方がコールバックしてきたんです。俺は・・・表示されている電話番号を見て、なかったことにできませんでした。」
「それで、電話に出てくれたのね?」
「・・・はい。」
「まず、お礼を言うわ。本当にありがとう。私を拒絶しないでくれて。拒絶されたら、もう悲しみのあまり何も手につかなくなっていたかもしれない。貴方が見てくれたから、私は旦那との婚姻関係も、娘との親子関係も、きちんと維持できたの。だから、ありがとう・・・。」
「そんなに、俺のこと・・・。旦那さんがいるのに?」
「私は旦那と別れる気はない。凄く貴方に向かって失礼なことをしているのはわかっているつもり。だけど晃、貴方への想いはもう暴走した列車のように止められないの。貴方に認められたいの・・・女として。」
「俺は、どうしたら・・・?爽香さん、貴方に何をしてあげれば?」

しばらく、間があった。爽香は、凄く苦しそうに表情を歪ませた。だがそれは、晃にとても美しく映った。女性であるが故の、苦悩。萱にはないものだった。爽香の表情は、ある瞬間、変化した。変化・・・というより、化けた、ような・・・。そんな・・・。

「晃?」
そう言って、席を立ち、晃に近づく。そして先程手にしていたナイルの庭の香水瓶を近づけ、晃の耳元に再び散らした。そして自分のうなじにも同じことをした。そして、爽香が囁く。

「晃・・・セックスを、しましょう・・・。」


晃はわかっていた。こういう流れに、なってしまうことは。だから警戒した。でも、自分を止められなかった。悪いのはここに来てしまった自分だ。話をしてすぐ帰るなんて・・・。そんなこと、あるわけもない。女性経験のない自分でもそのくらいは理解できた。一瞬、自分が乖離した。反射するテレビの画面から、自分が自分を見ている気がした。たった一瞬のそれが、晃の理性をどうにか留めた。爽香が、唇を近づけてくる。
「ま、待って・・・シャワー、行かせてください。」
「・・・わかりました。私も行きたい。先、どうぞ。」
爽香は、急に晃に背を向けてゆっくりとソファーに腰をおろした。その瞳は、決して晃の方を向かない。急に放り出された晃は焦った。その場にいることができず、とりあえず浴室に駆け込む。
(俺は・・・どうすれば・・・。)
シャワーに行かせては、もちろん逃げたかっただけだ。誰か・・・。誰かどうしたらいいのか・・・。
スマートフォンを手元に置かなかったことを後悔した。晃は、完全に孤立した。相談できる人などいないが、相談できる状況にすらないのが、現実だった。呆然と、鏡を見つめる。そこには、萱の姿があった。
(・・・晃?煙、頂戴?)
そう言って、突然消える、幻覚。そうだ、煙草を・・・。しまった。置いてきた・・・。香るのは、あの香水の匂いだけ。その匂いを意識した時、急激に晃は欲情した。何故、どうして。頭に浮かぶのはそればかりで、ただ、熱くなっていく自分の身体が怖かった。女性経験など、ないのに。もちろん、一人でしてしまうことなど、何度もあった。それはもう人間である限り、仕方ない欲求で、どうにも自分は責められない。だが今まで感じたことのない欲求が溢れ出る。もう、自分は、どうかしてしまった。そう思うと、もうこのままこの欲求に従ってしまおう、晃は全く冷静でない頭で、判断した。

歯を磨きたかった。とりあえず、歯を磨こう。歯ブラシに、歯磨き粉をいっぱいにつけて、晃は歯を磨いた。あまり得意ではない歯磨き粉で口内が溢れる。急に不快感が湧き、それを洗面所に吐き出した。
白い泡の中に、赤い筋が浮く。血だ。きつく歯を磨きすぎた。口を漱いで、口内を鏡に映す。特に、赤みを帯びているところはなかった。口内に不快感がないのに安心した晃は、スーツを脱ぐ。自分の手が止まらない。服を剥ぎ取り、浴室に舞い戻った。シャワーの栓をいっぱいに捻り、とにかく嵐のような水音を浴びる。水滴が滝のように降り注ぐ様を見つめて、髪を振り払った。猫の毛のような髪が、ぺしゃんこにへこんで、もう晃は何もかもどうでも良くなって、どうでも良くないのは欲情した自分だけだった。
浴室のドアは、開けっ放しだった。水が大量に跳ねて、床を濡らしている。とりあえず、一枚、寝室と仕切りがあることに、安心をした。浴室を水で汚して、このあと爽香がここを使うことに気づいて、また焦る。だが、もうどうでもよくて。もう、どう思われようと、それすらどうでもいいのだ。とにかく身体を拭って、ドライヤーで髪に風をあてて、ぺしゃんこにへこんだ髪をどうにか取り繕った。猫っ毛なのは、生まれつきで、ただその髪が、晃は好きだった。

ドアを開くのが怖かった。バスローブを来て、欲情した自分を隠した。もうわかってしまうのに、とりあえず晃は隠すことにした。静かにドアを開ける。晃はぎょっとした。爽香が、浴室の壁に身を預け、立っていた。顔を俯かせて、やはりこちらを見ない。

「あの・・・爽香さん・・・出ました。」
「うん・・・私も、シャワー浴びるね。ベッドで待ってて。」
晃の肩に手を置いて、そのまま浴室へと消えて行った。

場所を指定してくれたのは、爽香の経験からの、気遣いだ。そのくらい、晃にも理解できた。どこに居たらいいかわからない自分の気持ちは、とうに爽香に知られていた。思いっきり背中からベッドに横たわって、天井を見上げる。
(知らない、天井だ・・・。)
ふと、今何時なのだろう?と頭に過った。0時前には、部屋に来ていた、と思う。あれからシャンパンを飲んで、食欲を満たして、話を、して。浴室にも、随分長く、居たと思う。身体を起こして、ただ時刻を告げるだけの、無情なデジタル時計を凝視した。

深夜4時になろうとしていた。晃は慌てて窓に駆け寄り、障子を閉じる。月がこちらを見ていた。
夜空を良く眺めるほど、ロマンチシズムには傾倒していない。だが、この月に、見覚えがあった。フルムーンだ。月よりも、晃はやがて昇りくる太陽が、怖かった。むしろ月を選んだかもしれない。太陽が、怖い。あと3時間もすれば、太陽が昇ってくる。ギラギラと光る、太陽が、怖い。
(戻ろう・・・)
ベッドに居れば、怖くない気がした。天井を見上げる。やはり、知らない天井。心細い。もうそこから、浴室から出てこないでくれれば、と思いながら、自分がこの部屋を出るという選択肢が、晃にはどうしてもなかった。

浴室のドアが開く音がした。晃の心臓はもう、瀕死の魚のように跳ねた。足音もたてずに、爽香がベッドサイドに立ち、微笑んだ。
「・・・お待たせしました。いいかしら。」
何を?晃は爽香の胸元を見つめ、考える。俺は何を待っていたのか。バスローブの下に隠れる芳醇な胸。少しだけ落ち着いていた欲情が、再び首をもたげた。
「あ、はい・・・。」
「何処に寝てるの・・・?ちゃんとシーツの上に寝て。」
「あ・・・すみません。」
晃は慌てて立ち上がると、自分の重みで作られた皺を整えて、夜具を剥がした。爽香がベッドに横たわるのを見ながら、晃は立ち尽くした。
「晃?どうしたの?いいのよ?・・・そんな、心細そうな顔をして・・・不安なの?」
「いや、その・・・」
「大丈夫よ。」
爽香が晃の腕を強く引っ張る。晃は思い切りベッドに、爽香の上倒れこんだ。香水の香りが晃を包む。ああ、さっきの・・・。そのまま爽香が晃の頭と背に腕をまわした。
「不安よね・・・だって貴方はまだ、カヤさんとしていないもの・・・。」
「えっ?」
「そうでしょう?第一、貴方はまだ女性としたことはないものね・・・。」

どうしてわかるのか?そんなことが。わかってしまうのか。
「何で・・・知ってるんですか?翔に・・・聞いたんですか?」
「知らないわよ・・・でもね・・・・大人になれば、わかるのよ?そのくらい・・・。でも私、晃にリードして欲しいな・・・できる?」
できません、とは言えなかった。でもそんなこと、晃にはありがちなアダルトビデオのようにしかできそうもない。
「すみません・・・どうしたらいいか、教えてもらえますか・・・?」
「それじゃあリードになってないじゃない・・・まあいいわ。じゃあ、晃はセックスは何から始めたいの?」
何から?何からだろう。考える。爽香は待ってくれた。ただ欲情をぶつけるのは嫌だ。あ・・・。
「・・・キス、から・・・?」
「そう・・・じゃあ、そうして。私もそうしたい。」

初体験が、爽香になること。晃は、これはもう生まれた時から決められていたことのような気がした。このことが決まっていたから、自分はこの歳まで性欲処理は自慰で済ませていたのかもしれない。恥ずかしいとは思わなかったし、だからその為に風俗を利用しようとも思わなかった。

唇を合わせたら、自分に性経験がないことなど忘れてしまった。もちろん、晃がリードできたわけではなかったかもしれない。爽香の力だった。正直、一度達しただけでは済まなかった。爽香より乱れたかもしれない。

「晃・・・ありがとう・・・。」

そんな声を聴いた気がしたが、晃はそのまま意識を手放した。

眠りの中で、ただ晃は穏やかだった。温かい光に包まれるような感覚で、心地よい温度の水中に漂っているようだった。こんなにも満たされた気持ちになるのは初めてだったかもしれない。必死に起きて、働いて、飲酒喫煙を繰り返し、寝る。時々、恋人に会って、何となく安らいだ気持ちになって、また必死に起きて。自分の心がカラカラだったことに、今気づく。ただただ晃は満たされていて、気づいた時、爽香の胸に優しく抱かれていた。

「・・・爽香・・・さん?」
「・・・起きた?」
「すみません、俺寝てしまったんですね・・・。」
「ううん、大丈夫。まだ9時前よ。もうちょっと寝る?」
「いや・・・。あ、チェックアウト・・・。」
「12時よ、大丈夫。」
「そうですか・・・。」
爽香が晃の頭を優しく撫でる。くすぐったいな・・・と思いながらされるがままになっていた。

「あのね、晃?」
「はい・・・。」
「私がどうして貴方にここまで惹かれてしまったのか、わかる?」
「・・・いいえ、全く。何が魅力だったのか、全然わからないです。」
「・・・面影があったの。」
「面影?」
「誰、の?」
晃の心臓は心拍数を増した。面影?誰かに似てたのか?
「もう、20年前の話だけど・・・。」
(20年?俺の生まれた頃だ・・・。)
「私、実は子供が2人いるの。」
「・・・え、娘さん1人じゃ・・・。」
「高校生の頃よ、もちろん育てられないし・・・乳児院に・・・。」
「会って・・・ないんですか?」
「最後に会ったのは、6歳の頃ね・・・。記憶に残らないギリギリのタイミングで、私はもうあの子とは会わなくなった。だって、棄てたのよ・・・。堕ろしたくないっていうエゴだけで産んで、育てなかった。私はあの子にしてあげられたことは何もなかった。」
「・・・その子の名前は・・・。」
「『晃』、じゃないわよ。大丈夫。貴方はご両親の子よ。」
「その子に・・・俺が・・・。」
「そっくりなの・・・。あの子が成長したら、貴方みたいな感じになっていると思う・・・。」
「でも何で・・・俺が爽香さんの子供に見えたなら、そんな・・こんな関係・・・。」
爽香は目を伏せ、晃を見据えた。
「貴方もいつか子供を持ったら理解るわ・・・。親は、子供の成長した姿をみたいものなの。でも、私は少し歪んでいるかもしれないわね・・・。もし貴方を子供としてみていたなら・・・。教えてあげたかったのかもしれないわ、大人になることを。」
「俺、ひとつだけ理解ることがあります・・・。」
「・・・なあに?」
爽香が首を傾けた。
「爽香さんは、その子を産んだじゃないですか。それだけで凄いことだと・・・思うんです。俺は子供産めないし、わからないけど・・・でも、お腹の中で10ヶ月守って、命懸けて産むんです、女性は。この世界にその子を存在させた、それだけで凄いんです。だから、『してあげられたことは何もなかった』というのは絶対違う。」
「晃・・・。」
「今、俺は貴方の子供です・・・。貴方に、少しだけ育てられたと、思う。だからもう爽香さんは、何も罪に思うことはないです。」
晃がそう言うと、爽香は、晃に縋るように、今まで心に仕舞っていたものが溢れだしたように、雨が降りしきるように涙を流した。雨や雨、ひたすら。どうしたらいいかわからず、晃は爽香の頭を胸に抱く。爽香の涙が晃の胸をつたって寝具に落ちた。

時間が足りない、と晃は思った。時刻は10時を過ぎている。チェックアウトまで2時間もない。自分も、爽香も、心が落ち着くまで2時間で済むとは思えなかった。どうしたらいい?

爽香の涙がおさまり、ようやく表情に笑みが戻ってきた。
「ごめんなさい、もう大丈夫。貴方の方が、大人だった、かもしれない。私の時は17歳で止まっていたのかも。本当は・・・。」
「爽香さん、もう一泊、しますか?」
「・・・ううん。貴方は、戻らなければならないところがあるでしょう?」
「俺はもう・・・萱の元には戻らないと思う・・・。」
「・・・どうして・・・?私、そんなつもりじゃ・・・。」
「貴方と関係を続けるわけではないです。爽香さんにはちゃんと今、幸せがあるはず。でも俺は多分、もう煙草を吸えない。煙草よりも貴方の香りが身体に染みついてしまった。貴方のその、香水の香りが、煙草の香りよりも好きになってしまったんです。煙草のように、自己主張のない、とても淑やかな香りです・・・。」
「私のせいで・・・。」
「違います。そう感じたのは俺だから。貴方のせいではない。帰りに、『ナイルの庭』買って帰ろうと思います。だから、貴方を思い出すことだけは許して下さい。忘れろなんて、言わないで下さい。」
「晃は、私を、一瞬でも、愛したの?」
「俺は、貴方を、愛した。でもその事実だけで充分なんです。もう貴方に会いに行くこともない。携帯番号も、通話履歴から消します。貴方から頂いたあの便箋は、風に飛ばします。だから、爽香さんは、今の幸せを、大切にして下さい。俺はいいんです、俺は・・・。貴方を愛している。だから、いいんです・・・。」

そう言って、晃は爽香を抱きしめる腕を緩めた。身体を起こして、足を床に着く。爽香も身体を起こした。脱ぎ捨てたバスローブを羽織ると、晃は内窓と障子を開け放った。
先程、あれほど怖かった太陽が、もう冬の低い空にあがっている。訪れるのは、別れだ。こんなに辛いものなのか、別離と言うものは。

「晃、これ、貴方にあげるわ・・・。貴方が持っていてくれるなら、それがいいもの。少し、使ってしまっているけれど、良かったら。」
爽香が差し出した薄緑色の香水瓶を晃は受け取ると、太陽に透かした。綺麗だ。今の晃の心を映しているようだった。
「私、ここに残されたら、死んでしまうかもしれない。だから、先に行くね。もう、貴方にストーカーのような真似はしない。でも、貴方を忘れない。忘れられるわけがないもの。」
「爽香さん・・・。」
「遠くから、貴方の幸せと成長を祈っています。晃は私が罪人でないと、言ってくれた。私の20年の想いは、全て貴方が受け入れてくれた。だから、ありがとう。貴方は私の前に現れた、天使よ。・・・さようなら、晃。」
「待って・・・!」
「・・・ん?」
「いや・・・ありがとう、俺の、愛した人・・・。」

戸が閉まると、晃は広いスイートルームに1人残された。爽香と再会して、約半日。まるで1年経ってしまったような、そんな長さにさえ感じる。一晩で、全てが変わってしまった。
(もう、萱とは会えないな・・・そんな気持ちには・・・。)
晃を支配していた、苦みには、もう会えない。晃は、一番卑怯な手段を取った。萱の携帯を着信拒否にし、LINEもブロックした。メールも受信拒否にした。もうこれで、萱は晃と連絡は取れない。晃は、萱、という煙草を咥えただけだったのかもしれなかった。その煙草は、あっと言う間に半分より短くなり、灰皿に押し付けられて。晃はその煙草を捨てた。酷いと思った。だが、言い訳をするよりいいと思ったのだ。ゲームオーバーなのだ。煙草で繋がった関係など、もうこの薄緑色の香水の魅力には勝てなかった。

晃はまた、浴室に入った。シャワーの栓をいっぱいに捻り、とにかく嵐のような水音を浴びる。そして、バスタオルで拭った首元に、香りを放った。

不思議と欲情しなかった。現金なものだ、と晃は思った。だが、先程より酷く鼻に染みつくその香りは、晃を突如哀しみに誘った。雨や雨、晃は泣いた。太陽に照らされた涙が、キラキラと光った。そして一頻り涙を流した晃は、身なりを整え、部屋を出た。後ろは向かなかった。34階からエレベーターで降り、フロントでチェックアウトに向かった。だが、宿泊費の支払いは済まされていた。爽香が済ませて行ったのだろう。そんな気はしていた。女性として生きたいと、認められたいと思いながら、母親のような感覚で自分を見ていたのなら、多分そうするだろうな、と思う。

晃は地下鉄でなく、1階の出口から新宿駅西口まで歩くことにした。たいした距離ではないが、外の冷たい空気を吸いたかった。高層ビルの間を、冷たいビル風が吹く。気分が悪くなって煙草の匂いの染みついたコートを脱いだ。冬の寒さが晃の身体をキリキリと締め付ける、だがその度にナイルの庭が香る。ふと、ポケットに何か入っているのに気づいた。探ると、小さなサシェが入っていた。
”JEAN-PAUL HÉVIN”
それを見て、一瞬だけ血の気が引く。ジャン=ポール・エヴァン。確か萱が初バレンタインのチョコレートを買うとはしゃいでいた。
(キャラメル・・・?)
サシェを開けると、キャラメルが6個入っていた。晃は躊躇わず、ひとつ包みを開けて口元に寄せる。唇が触れて、それを含んだ。少し塩味のあるキャラメル・・・。何となく自分の心みたいで、晃は一人頬を歪めた。何故、ジャン=ポール・エヴァンなのか。考えるのはやめた。ただ、その甘味と塩味に落ち着くのは何故だろう。爽香が何故これをコートのポケットに入れたのか。考えてもわからない。

晃は、新宿アイランドタワーの、「恋が実る」というオブジェの前に立った。スーツの内ポケットから、あの綺麗な便箋を取り出す。

風が強く吹いている。その風に舞い上がる便箋を見上げる。蒼い、空だ。
晃はスマートフォンを取り出すと、躊躇いもなく、最後の通話履歴を消去した。

自分はどうやって生きていくだろうか。昇進試験があることを忘れていた。勉強もしなければ。だがこのまま鉄道社員として生きて、ひたすら昇進を目指していくのか。何となく、流れに乗ろうとしていた自分を、改めて見つめ直す必要があるかもしれない。あの人が、心に居るうちは、自分を見つめ直せる気がした。教えられたのだ、「生きる」とはひたすら何かを愛していくことだ。それが今自分にできているか。自分を愛せているか。仕事をなくして自分に何が残るか。何も残らないではないか。
昇進試験を何とかクリアしよう。そうしたらまた何かが見つかるかもしれない。何も見つからなかったら、またその時考えればいい。ただ、鉄道社員として会社に骨を埋めるだけが選択肢ではないと、何となく思った。

そして、爽香が心から抜けていく頃、恋ができたら。恋をしたい。今度は、ただ純粋に恋をしたい。煙草とか、香水とか、感情の在るものではなく。ただ、恋をしたいのだ。そして、誰かに愛されたら、きっとその先の道が見えてくる。


晃り続けよう。この名のように。輝き続けたい。いつか、今日のこの決意を思い出して、ただ、陽光と生命力が溢れた時、きっとそれは叶うだろう。


生きるのだ、川が流れていくように。




【後書き】


【続編】



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