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風呂場の歌を聴け

 僕が目を覚ますと、知らない女が隣で寝ていた。
 やれやれ、と僕は思った。それから首を振って、とうもろこし畑を歩くみたいに慎重に記憶に分け入った。今月だけで、もうこれで七人目だった。僕は乾いたため息をついて起き上がり、床に落ちていたパジャマを身につけた。そしてキッチンに行って濃いコーヒーを一杯入れた。僕はいつものように砂糖もクリームも入れずに、ゆっくりとそれをスプーンでかきまわしてから一口飲んだ。窓から差し込んでくる朝の光は、まるで透きとおった薄いヴェールのように部屋を包んでいた。僕はテーブルの上に食べかけのチョコチップ・クッキーがあったことを思い出し、コーヒーを持ってリビングに行った。朝食代わりにそれをかじりながらデレク・ハートフィールドの『火星の井戸』を読んでいると、彼女も起き出してきた。
「ねえ、私どうしてここにいるのかしら」。ひどく眠そうな声で彼女は言った。
「君が新宿駅で寝ていたからだよ」と僕は答えた。
「新宿駅で?」
「線路の上で寝ていた君を僕が起こした。ホームに引き上げてね。それからこの家に連れてきた。君がもっと寝たいと言ったからさ」
「嘘をつくのが上手いのね」
「正直なところ、あまり得意とは言えないね。もっと得意なことは他にあるんだ」
「私は得意なことなんて一つもないわ」
「そういうのは誰にだって一つはあるものさ」
「そうかしら。じゃあ、あなたは何が得意なの?」
「ピスタチオの殻をむくこと」
「素敵ね」。彼女はそう言うと、僕の近くに来て座った。彼女は冬眠中の小動物のように毛布にくるまっていた。
「コーヒー飲む?」と僕は訊いた。
「オレンジ・ジュースの方がいいわ」と彼女は答えた。
「どちらも同じようなものだよ。ストローで飲むか直接口をつけるかくらいの違いしかない」
「グラスで飲むかカップで飲むかの違いもあるわ」
「オレンジ・ジュースをカップで飲む人もいる。この家にはカップしかないんだ」
「どうしてグラスを買わないの?」
「そういう主義なんだ」。僕は立ち上がり、キッチンに行って冷蔵庫を開けた。そしてオレンジ・ジュースを緑色のカップに注ぎ、ストローをさして渡した。
「本当に出てくるなんて思わなかったわ」と彼女は感心したように言った。
「いつも置いてあるんだ。こういう時のためにね」
「知らない女の子を連れ込んだ時のため?」
「人助けのためさ」
「オレンジ・ジュースなんかで、人は助かったりするのかしら」。彼女はカップを見つめ、少しだけ口をつけた。どこか遠い場所から車のクラクションが聞こえた。
「ねえ、インドのある僧侶は、オレンジ・ジュースを恵んでもらったことで悟りを開いたんだ。そして死ぬまでオレンジ・ジュースを配って歩いた。そういうことって、誰にでも起こり得ると思わないか?」と僕は言った。
「私には分からないわ」。彼女は首を振った。「だってここは日本だもの」
「おいしいオレンジ・ジュースはどこにでもある。インドにも、この部屋にもね」。そう言って僕はコーヒーを一口飲んだ。
「それは、そうかもしれないわね」と彼女は言った。「確かにこのオレンジ・ジュースはおいしいもの」。それから彼女は僕の顔をじっと覗き込んで訊いた。「ねえ、私が本当に昨晩のこと、覚えてないと思ってるの?」
「まさか」と僕は答えた。
「じゃあ私のこと軽蔑してるのね?」
「軽蔑? どうして?」
「私が見ず知らずのあなたと寝たりしたからよ」
「そんなことは」、僕はもう一口コーヒーを飲んでから言った。「動物ならみんなやっていることさ」
「人間も?」
「そんな風に考えるのが人間だけだという話にすぎない。大して意味のないことだよ」
 彼女は、まるで壁の向こうに何かが見えるみたいな顔をしてしばらく考え込んだ。「そういうものかしら。私は、何もかも深刻に考えすぎる癖があるのよ。ときどき、自分の欠点ばかりを考えて嫌になることがあるの。昨日みたいに」
「完璧な人間などというものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」
「どうしたらあなたのように考えられるのかしら」
「もっと肩の力を抜いてごらんよ。簡単なことさ。そうすれば、大抵のことはうまくいく。野うさぎが草原を転がるようにね」
「そっちに行ってもいい?」
「どうぞ」
 僕がそう言うと彼女は毛布から抜け出し、僕の横に来て座った。彼女が着ているのはワンピースだけで、その下には何も身につけていなかった。
「寒くないの?」と僕は訊いた。
「少し寒い」と彼女は答えた。
 僕はコーヒーをテーブルに置いて、彼女を抱き寄せた。そして優しく口づけをした。彼女の柔らかい乳房を感じ、僕のペニスは勃起した。
「私とセックスしたいのね?」と彼女が言った。
「どうやらそうらしいね」
「したいって言ってくれないの?」
「そういう性質の問題ではない気がするんだよ。僕らは今、セックスをしなきゃならない。僕の気持ちとも、君の気持ちとも関係なくね。ずっと以前から決まっていたことなんだ。僕らが生まれる、ずっと前から。分かるだろう? そういうの」
「分かるわ」。彼女の手は僕の下着を脱がせ、硬く勃起したペニスを握った。「ずいぶん立派なのね。こんなに大きいのは見たことがないわ」
「大きいのは嫌い?」
「ううん。どちらかと言うと好きよ」
「だろうね。大抵はみんなそう言う」
「じゃあ私は嫌いよ」
 彼女はそう言いながら、しばらく皮をひっぱったりして遊んでいた。それから何も言わずに僕の上に乗ると腰を振り始めた。その動きに合わせて、ワンピースの裾がひらひらと僕の腹の上を往復した。彼女のヴァギナは温かく湿って、まるで別の生き物のように僕を包んだ。僕らは長い時間そうして交わった。その間、彼女は一言も声を発しなかった。そして僕は射精した。全てが終わると、どちらからということもなく僕らはそのまま抱き合って目を閉じた。僕はやわらかい泥に飲まれていくように眠気を感じた。しばらく後で、女の子はベッドから抜け出していった。バス・ルームから響く彼女の微かな鼻歌を聞きながら、僕は眠りに落ちた。
 次に僕が目覚めた時、彼女の姿はすでになかった。代わりに、テーブルの上に書き置きがあった。それはノートの切れ端に細いボールペンで書かれていた。
「いろいろありがとう。あなたとのセックスはとっても素敵だったわ。でもね、終わってからすぐに寝るのはやめた方がいいと思うわ。そんなのだから女の子は去っていくのよ、私みたいにね」
 手紙はそこで終わっていた。僕は首を振った。オーケー、認めよう。確かにその通りだ。でも、僕にだってどうにもできないことはある。僕は紙を丸めて捨てようとした。でもその時に、裏側に続きがあることに気がついた。くしゃくしゃになりかけた紙を、僕は仔熊のオムツでも取り換えるみたいに注意深く伸ばした。そこにはこうあった。
「p.s. あなたのおかげでひとつだけ分かったことがあるわ。教えてあげる。それはこういうことよ。大きいあそこが人を救うこともある」
 やれやれ、と僕は思った。
 窓の外では競い合うように朝の鳥が鳴き、せわしなく車が行き交っていた。人々はどこからか現れて通り過ぎ、そしてどこかへと向かっていく。
 大きいあそこが人を救うこともある。
 僕は再び眠気を感じ、書き置きをテーブルの上に戻してベッドにもぐりこんだ。そして名前のない場所の片隅で、名前のない短い眠りに落ちた。

もしよければお買い上げいただければ幸いです。今後のお店の増資、増築費用にします。