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原作に現代風の深い味付けをした傑作、2018年イ・チャンドン監督「バーニング」

村上春樹さんの短編小説「納屋を焼く」を原作とした2018年イ・チャンドン監督の映画「バーニング」を観た。

ボクは村上春樹さんの作品は大好きである。
学生時代に「ノルウェーの森」にハマりまくって以降、常に新作は読んできたし、その流れでずいぶん以前に「納屋を焼く」の原作も読んでいたが、正直なところ、読んだ当時、原作はあまり記憶に残っていなかった。

改めて原作も読み直した。

今回の映画は、村上春樹作品の持つ「ピュア」さ、純粋さ、を残しながら、いい意味で「現代」の時代性と「リアリズム」のテイストを加えて、より深い味わいが増し、非常に印象深くなった傑作であると思う。

村上春樹の典型的主人公

ボクが村上春樹の好きなところでもあるのだが、村上春樹作品の典型的な主人公像がある。
他人や社会に対して、少し距離を持って、自分一人の時間を大切にして、他人に強く求めないことを優しさだと自己満足して(ある意味勘違いして、逆に他人を傷つけて?)いる主人公・・・。
ボクは勝手に一人っ子気質の象徴的主人公と思って、いつも非常に共感しながら読ませていただいているのだが、一人っ子のボクがすっごく共感できるだけで、一人っ子がみんなこんな性格では無いのですが。。。

この映画も最初の印象としては、まぎれもなくその「村上春樹風味」を色濃く残していて、あれよあれよという間に、ユ・イアンさん演じる小説家志望の典型的村上春樹的主人公ジョンスと、チョン・ジョンソさん演じる幼馴染、ヘミが、(観ている方としては、可憐な脱ぎっぷりの良さにドキドキしながら)あれよあれよという間に結ばれていく展開・・・「村上春樹っぽいなぁ」と、ボクもニヤニヤしながら観始めたのですが・・・展開していくうちに「何かが違う!!」と思い始めました。

村上春樹の原作では、3人とも平板な気取った社会に立っていた

この映画で、上手くテイストされているのが、原作では無かった、「現代」の時代性とリアリズムである。

それについて、単純に、「格差社会」という言い方で良いのか、ボクとしてはまだ迷っている。
原作では「広告モデル」という設定だったミステリアスな女性ヘミは、市井の街角のバーゲンセールの安っぽいキャンギャルとなり、主人公ジョンスの家は、小説家を目指しながらも、親が問題を抱えた農家という、超リアリズムな設定が絶妙に加えられている。

村上春樹の原作では、3人とも平板な気取った社会に立っていた。
スティーブン・ユアンさん演じる、ベンこそ、「貿易の仕事をしている」と言いながら、働いている風でもなく、外車のスポーツカー(映画ではポルシェ)を乗り回す、謎多きギャツビーとして描かれていたが、原作では、主人公の「僕」も、小説家でそこそこ仕事をしていて、バーや趣味のJAZZレコード、オーディオ機器に凝る、いわば少し気取った、「並の生活」、少なくとも、生活に困っている様子はない。
映画に描かれたような、親の裁判や別れて暮らす母親からの金銭の催促などは、イ・チャンドン監督による絶妙な味付けなのだ。
村上春樹の原作に「深みが足りない」というのではない。
一つには、村上春樹が「納屋を焼く」を最初に出版したころ・・・1987年という時代、日本はバブル絶頂期、それこそ、戦後高度経済成長期の到達点、高度経済成長以前の、貧富、農村と都市、世代間、あらゆる格差を乗り越えた(つもりになって)、日本人総中流生活の幻想の中でノリにノッテいた時代に、登場人物の格差を描くことは、読者からも受け入れられなかった時代だったのだろう。
そして、やがて、バブルは崩壊し、日本も世界も、現代のような「階級社会」とも言うべき状況に陥ろうとは想像だにできなかった時代だったのだろう。

そして、もう一つの側面として、日本人は、未だに現代のリアリズムを直視できないでいるのではないか?
イ・チャンドン監督には、最大の絶賛を贈りたいが、村上春樹さんの原作を何故日本人がアレンジできなかったのか?
言ってしまうと、ボクも含めて、今でも日本人は、村上春樹さんの描く、現実に対してちょっと斜に構えた、「ピュア」な幻想の中で生き続けたい、そんな空気に支配されている気がする。

あえて言わせてもらうが、ちょっと!!日本人!!しっかりしてよ!!

村上春樹に「リアリズム」を混ぜることで生じる化学反応が、これほどまでに素晴らしいことを見つけてくれたのが、イ・チャンドン監督なのである。

観客のルサンチマンに訴えることで、納得させられるが、実は何も解決していない結末

村上春樹的典型的主人公に、リアリズムの味付けが加わったことで、主人公ジョンスは一気にルサンチマンの塊の様相を呈してくる。
もちろん、バーゲンセールのキャンギャルをする幼馴染、ヘミとの関係においては、そんなルサンチマンは感じさせないのだが、ヘミがアフリカから戻ってきて、ベンと出会うや否や、そこに観客の誰もが、「はい!勝負は終了!ジョンスの負け!!」となってしまう。もちろん、ベンは、ジョンスに無理やりマウントをとってくるような人物ではない。
ヘミは、ジョンスに、わざわざ空港まで迎えに来て欲しいと連絡をよこしたにもかかわらず、自分のボロトラックと、ベンのポルシェを比較して、ジョンスは、「物わかりの良さも優しさなのだ」という自己満足、いわば、「カッコつけ」で、自分の主張を抑えて、身を引く。

その後もジョンスの前で、ヘミとベンとの関係性をあからさまに見せつけられることに対して、もうここからは、ジョンス一人だけ、単なる我慢大会をしているに過ぎない状況に追い込まれていくのだ。そんな状況、精神衛生上よいはずがない。

ボクも、ふと、東京都心、青山や代々木を歩いていて、突然、高級外車で乗り付けて、堂々と路上駐車してこじゃれた店に消えていく、若い男女の姿を見た時の気分の悪さを思い出してしまった。

後半は、観客の持つそんなルサンチマンをくすぐられて、観客もいつしかジョンスの視点に感情移入していく。

これぞ、イ・チャンドン監督の、実は巧妙な罠だったと後で気付いたw

ここまで書いておいて、ラストのネタバレは避けるが、原作の小説にはないけれども、観客の誰もが一瞬納得させられる!?ラストの悲劇!!

だが!しかし!!

よく考えてみよう!!よく考えてみよう!!!

実は、謎は、謎のまま、何も解決していないのである!!

解決していない「モヤモヤ」さえ忘れさせる、その巧妙さ!!
な・る・ほ・ど!!これこそ観客もまんまと罠にハマったのだw

いやぁ、天晴!!

そして、この映画を観た後、今でもボクは、答えのないパズルを解くように、登場人物3人と、猫について、いろいろな可能性が頭の中をぐるぐるぐるぐるしているわけである。

是非、必見!!の映画です!

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