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物語を消費する私たちは、いかに生きるべきか?

 いつもお疲れさまです。

 先日、遅ればせながら大塚英志氏の『シン・モノガタリ・ショウヒ・ロン』を読みました。

 大塚氏の著作『物語消費論』をアップデートした本作は、かつて氏が提唱した「物語消費」という思想を現代の社会情勢に照らし合わせて、私たちが気づかないところで今もなお根付いている物語の消費構造を浮き彫りにしました。


 この本を読んで様々な気づきを得ましたが、その中でもプラットフォームを介したアマチュアの創作活動が「無償労働」と化しているという指摘は、末端で創作活動に携わる私にとって深く考えさせられるものでした。

 小説であれ漫画であれ、物語を内包する作品は、インターネットの普及によってプロアマ問わず膨大な数が制作されています。
 YouTubeやニコニコ動画のような動画投稿サイトや、小説家になろうのような小説投稿サイトなど、創作物をネット上に公開するプラットフォームが構築されたことで、誰でも自由に創作活動を行うことが可能となりました。
 オリジナルのものだけでなく、二次創作として制作される作品も数多く見受けられます。先日開催されたコミックマーケットが大盛況だったように、二次創作は世間一般でも広く認知されているのではないでしょうか。

 今となっては、創作者から鑑賞者へ一方向に物語が提供されるのではなく、鑑賞者も創作者となって新たな物語を創作することがごく自然なこととして起きているのです。二次創作の浸透とプラットフォームの確立によって、創作に対するハードルはそれほど高いものではなくなりました。

 しかし、こうした創作活動のほとんどがお金にならない趣味の範囲内で行われています。広告収入が貰えるようなYouTuberだと一応の利益は得られますが、動画投稿一本で生活が賄えるほどの人たちはYouTube全体の数%ほどと言われているそうです。

 また、YouTubeなどのプラットフォームは企業が運営しているものが多く、それを踏まえると企業が用意した環境の中で人々は創作物を無償で提供しているという構図が浮かび上がってきます。

 こうした状況に対して大塚氏は、物語を「消費」するのではなく「労働」、もっと言えば「無償労働」によって物語を創作しているのが2020年代の創作界隈の在り方ではないかと指摘します。

 創作活動を「労働」という観点で捉えることは私にとっては目新しく、良い刺激を得られました。そして、「物語消費」という考えは現在においてもやはり通用するものだと改めて認識しました。




 東浩紀氏の『動物化するポストモダン』をきっかけに大塚英志氏の『物語消費論』も読んだ私は、物語を消費する人々、あるいは社会の構造について考えるようになりました。

 それから、レイ・ブラッドベリ『華氏451度』、映画『トゥルーマン・ショー』『Fate/Grand Order』の第2部6章「Lostbelt No.6 妖精円卓領域 アヴァロン・ル・フェ 星の生まれる刻」に出会ったことで、物語消費に対する意識が強まりました。

 いま挙げた三作品は、「物語消費」を連想させる内容を含んでいると私には感じられるのです。


*以下、『華氏451度』・『トゥルーマン・ショー』・『Fate/Grand Order』(=『FGO』)の第2部6章「Lostbelt No.6 妖精円卓領域 アヴァロン・ル・フェ 星の生まれる刻」の内容に言及しています。特に『トゥルーマン・ショー』と『FGO』に関してはネタバレを含みますので、未視聴・未読の方は予めご注意ください。



『華氏451度』は、本が有害物として燃やされてしまう世界を描いたディストピア物のSF小説です。そこでは本を燃やす専門の職業「昇火士(ファイアマン)」が存在し、主人公のモンターグも昇火士の一人として登場します。


 作中で、モンターグの上司であるベイティーがモンターグに「講義」を行う場面があります。そこでベイティーは、技術の発展とともに省略・簡略が進んでいく娯楽の在り方について語っています。

 写真術が確立されて、二十世紀初頭に活動写真が発明されて、それからラジオやテレビなど様々な媒体が大衆の心を掴んだ、とベイティーは述べて、「そして大衆の心をつかめばつかむほど、中身は単純化された」と続けます。

 より多くの人に受け入れられるためには、より多くの人に理解してもらわなければいけません。そのため、なるべく分かりやすい表現を用いることが求められて、結果として映画やラジオなどの娯楽は「練り粉で作ったプディングみたいな大味なレベルにまで落ちた」のだと言います。

 それとともに、娯楽の内容はどんどん「圧縮」されていき、「古典は十五分のラジオプロに縮められ、つぎにはカットされて二分間の紹介コラムにおさまり、最後は十行かそこらの梗概となって辞書にのる」ようになっていった、というのがベイティーの見解です。

 ベイティーが語った内容は、2022年を生きる私たちにとって無関係ではありません。

 何百年も前に書かれた小説や哲学書といった古典には、数多くの解説本が作られています。500頁を超える難解な本でもたった4頁の解説にまとめられたり、漫画形式で解説を行ったり、100分で本の内容を網羅的に解説したり、と物語・思想は次々と「圧縮」されていて、なおかつ「圧縮」された物を求める人も一定数存在するのです。

 また、動画コンテンツにおいても「圧縮」は顕在化しています。かつては2時間前後の映画やテレビドラマを観ることが当たり前だったのが、今ではTikTokやTwitterなどの数十秒から1、2分程度のショート動画が日常的に観られています。数十分の動画となると倍速で視聴するという人も現れているほどです。

 人生をかけても読み尽くすことのできないほど膨大な物語が氾濫している現代。次から次へと物語を消費するようになっていき、そのスピードに合わせるようにして物語の方も「圧縮」されています。ただ、それが度を超えてしまうと、物語をじっくりと味わう喜びが失われてしまうのではないかと思うのです。



『トゥルーマン・ショー』は、トゥルーマンという一人の男の人生を24時間365日テレビ番組として中継している模様を描いたSFチックな映画です。映画のタイトルにもある「トゥルーマン・ショー」は、トゥルーマンの生活を放送するリアリティ番組のタイトルでもあります。


 トゥルーマンの生活圏は全てテレビ局が用意した架空の街であり、トゥルーマンが出会う人も全員が番組側のキャストです。何もかもが仕組まれた世界の中を、何も知らずにトゥルーマンは生きているのです。

 この映画ではトゥルーマンの視点だけでなく、「トゥルーマン・ショー」の制作にあたるプロデューサーたちの視点、さらには番組を観ている視聴者の視点も描かれています。

 プロデューサーの演出の下に、トゥルーマンは恋に悩み、幸せを掴み取ろうと奮闘します。そんな彼の姿を観て、作中の視聴者たちも一喜一憂するのです。

 彼ら視聴者の姿はまるで、この映画を観ている私たちを代弁しているかのように見えます。ただ、こうした鏡写しのような関係は、他人の生活さえも物語として消費してしまう人間のサガをも突きつけてくるのです。

 映画の終盤、トゥルーマンはテレビ中継され続ける人生から脱却したいと考えるようになり、外の世界へと旅立つことを決意します。テレビカメラの前で別れの言葉を告げたトゥルーマンは「トゥルーマン・ショー」は幕を下ろします。
 そして視聴者の視点へと切り替わるのですが、それまでトゥルーマンに熱狂していた彼らは実に冷めていて、他の番組でも観るかと言ってチャンネルを変えるのです。

 こうした視聴者の姿を観て、実世界における私たち視聴者もまた、彼らと同様に次々とチャンネルを切り替えていることに気づかされます。面白い番組は無いかと物色するようにリモコンを操作し、興味の無い番組については見向きもしません。それでようやくお目当ての番組に辿り着いて視聴を始めたとしても、放送が終わればさっさと次の番組を探し始めるのです。
 それがたとえ実際に起きている事件であっても、単なる情報、単なる娯楽の一つと見做されてしまい、そのことについて真剣に考えることはありません。

 この映画は、物語を消費している人間の姿を的確に表しているように感じます。テレビを観る視聴者というメタ的な視点を盛り込むことで、無意識のうちに物語を消費していることへの自覚を呼び起こしているのです。



『FGO』の第2部6章「Lostbelt No.6 妖精円卓領域 アヴァロン・ル・フェ 星の生まれる刻」は、妖精という神秘の存在が万物の霊長となった世界「妖精國」を舞台に、本来の世界を取り戻すべく戦う「人理継続保障機関フィニス・カルデア」と、妖精國を支配する女王モルガンとの戦いを描いた物語です。


 ここで注目したいのが、モルガンを打倒して3つの厄災も乗り越えたところで現れる真の敵、オベロンについてです。

 カルデアの前にオベロンが立ちはだかった時、彼は妖精國を「モルガンが描いた、1万4千年もの絵本」だと称しています。

 元々、『FGO』第2部における地球は「白紙化」という現象に見舞われていて、あらゆる生命とその営みがリセットされた状態にあります。そこへ「異聞帯」という本来の歴史(=汎人類史)とは異なる世界を構築されたのです。

 白紙化された地球(現実)を異聞帯という虚構で塗り替えられたのが、『FGO』第2部の舞台となっています。その異聞帯のうちの一つが妖精國なのです。

 虚構は物語と言い換えてもいいでしょう。IF(もしも)の歴史を物語った結果として異聞帯が顕現し、汎人類史を脅かそうとします。

 カルデアの目的は汎人類史を取り戻すことですが、それはつまり異聞帯という虚構、または物語を否定することに繋がります。そのことをオベロンは批判するのです。

「都合のいい存在を、誰もが夢見る物語を創造しておいて、その物語に人生を変えられてさえいて、その上で、“これは現実にはない空想(もの)だから”と下に置き、あざ笑う、おまえたちが」気に食わないと語るオベロン。
 どんな物語にも「その後に残り続ける、権利はあったはず」だとして、彼は憤りを示します。

 オベロンの言葉は、消費されていく物語の登場人物の怒りや哀しみを代弁しているようだと感じます。

 消費する側の読者は一度読んで満足すれば次の物語を手に取り、読んだ物語をすぐに忘れてしまうでしょう。そのような読者の姿勢を、オベロンは批判しているのです。

 娯楽となる物語作品が無数に創作され続ける現代において、物語を一回きりで読み捨てるような行為は、物語そのものに対して、あるいは物語を創った創作者に対して不誠実ではないか。そんな疑念が頭の片隅に残り続けています。




 かつて私は『Storia ─ストーリア─』という小説を書いたのですが、そのきっかけとなったのは実は「物語消費」だったのです。


 物語を消費する構造がこのままどんどん発展していけば、いつかはAIに物語らせて、より手軽に物語を消費できるようになるのではないか。そのような考えから、AIシェヘラザードという設定を考案しました。

 今の時点でも、AI星新一「きまぐれ人工知能 作家ですのよ」やAI手塚治虫「TEZUKA2020」、「AIのべりすと」といったように創作に携わるAIが次々と開発されています。これらが進化していけば、自律的に物語を創作するAIが誕生するかもしれないですよね。


 「消費」という言葉を用いると、まるで物語を軽視しているかのように読めてしまうのかもしれません。
 しかし、使い捨てカイロを使用するような行為だけが「消費」の在り方ではありません。食べ物を食べて自らのエネルギーに変換する。これもまた「消費」の在り方なのです。

 「物語消費」とは、物語を読み捨てる行為ではなく、食事と同じ要領で物語からエネルギーを摂取する行為だと言えるのではないでしょうか。

 であれば、物語を消費する私たちにできることは何なのか。それは物語から得たエネルギーを自らの糧にすることだと思います。

 物語を読んだ体験を、明日を生きる活力にする。物語を読んだ感想を他の人に発信して、新たな読者を増やしていく。物語から着想を得て、自らの創作活動に活かす。いろんな形で、物語を自らの糧とすることはできるでしょう。

 ただ、それらを行うにあたって、物語とその創作者に対して感謝の心を忘れないようにしたいものです。

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