オヒトツ、シャチョ、オヒトツ
喫煙所でタバコを配っているオヤジがいる。発明に失敗して爆発に巻き込まれたコントの科学者みたいな髪型をしている。笑い皺しか刻まれていないひょうきんな顔をしているが、目の下にはマジックで書き込んだような隈があった。
「オヒトツ、シャチョ、オヒトツ」
「結構」
喫煙所に入るたびに同じやりとりを繰り返している。佐竹は胸ポケットを叩いた。
タバコを受け取ってもらえないとわかると、オヤジは灰皿横の定位置に戻る。ステンレス製の磨き上げられた灰皿は等間隔で並んでいるので、物理的に邪魔にはならない。しかし目障りだ。
喫煙所に出入りする客に、オヤジは例外なく声をかける。オヒトツ、シャチョ、オヒトツ。気前よく受け取る客もいるが、大抵は邪険に扱われる。気が立っている客は馬糞でも投げられたみたいに激怒するが、それでもオヤジは笑顔で引っ込むだけだ。
佐竹はソファに身体を沈め、残り少なくなったマルボロに火をつけた。まるまるボロもうけ。そんな験担ぎとは裏腹に、財布の中身は軽い。
引き際が肝心だ。そう思いつつも佐竹は店内に設置されたATMに何度も足を運んでいた。砂崩しのようにちょっとずつちょっとずつ、削るように金を下ろしていく。日本円からシンガポールドルへその場で両替できるが、利便性が高い反面レートは悪い。取られた手数料分くらいはせめて、取り替えさなければ気が済まない。
駅やデパートの見世物小屋のような喫煙所とは違い、カジノの喫煙所はまるでVIPルームだ。二階は禁煙エリアとなっているため、ここでしか一服できない。
スロットを打っていると、知らぬ間に貧乏揺すりをしているか、爪先でこつこつと台を叩いている自分に気づく。調子が良かろうが悪かろうが、一定時間を過ぎるとニコチンが切れて、切迫感がせり上がってくる。それでも佐竹は禁煙フロアで打っている。
もういい、今日は終わりだ。そう思って佐竹は喫煙所にやってきた。一服したら帰ろう。さっきも、その前もそう思っていた。
ガラス越しにフロアを見下ろすと、気分が落ち着いてくる。充満した紫煙の雲の下で、亡者たちがさまよっている。俯瞰で見ると、全員が負けているように思えた。
一人一人の表情までは見えないが、スロットへの顔の近さで悲喜こもごもが計れる。食い入るように前傾しているやつはおそらく負けている。逆に余裕綽々でふんぞり返っているやつは調子がいいのだろう。少なくとも、頭に血が上ったり熱くなったりはしてないはずだ。
自分はどうだったか、佐竹は振り返り、鼻から長く白い煙を吐いた。
一つの台にこだわりすぎたかもしれない。冷静になれば勝機はある。
カジノは一階の喫煙スペース、二階の禁煙スペース、三階のVIPスペースと分かれている。佐竹も最初は一階をうろついていたが、二階へ上がって正解だった。煙も、怨嗟も、重いものは下へ下へと溜まっていく性質がある。そんな淀んだ空気の中でいくら賭けようが結果は見えている。もちろん勝っているやつもいるだろうが、そんな浮き沈みも所詮は下界の重力に抗えない。
気づくと最後の一本だ。タバコなら販売機で買えばいいが、このタバコが尽きたら終わりにしようと来る前から決めていた。
佐竹はタバコをくわえたまま席を立った。隅の灰皿横で待機するオヤジに歩み寄る。
「オヒトツ、シャチョ、オヒトツ」
差し出された箱の銘柄をよく見ると、ポールモールだった。黒と赤のグラデーションに、並び立つ馬のエンブレム。いったん製造中止になる前の、初期のデザインのパッケージだ。
「いつからいるんだ? ここの従業員ってわけでもないだろう?」
オヤジは日本語が通じないのか、目をせわしなく泳がせた。怒鳴られたりイチャモンをつけられたりすることも多いから、責められていると勘違いしているのかもしれない。
「まあいい」
もう顔を見ることもないだろう。佐竹はオヤジを脇にどけて、灰皿にタバコを突っ込んだ。気合いを入れるために指の関節をならすと、オヤジは壁の角にめり込むように引っ込んで身を縮めた。危害を加える気などさらさらないが、いい気分だった。
マルボロのパッケージをゴミ箱に放り投げ、身軽になって喫煙所をあとにする。入れ違いで喫煙所にやってきた客に、オヤジが声をかけているのが背後から聞こえた。
「オヒトツ、シャチョ、オヒトツ」
佐竹は空になった胸ポケットを叩き、冷静にクレバーに、次の台を物色し始めた。
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