見出し画像

破壊性へ─メイヤスーの「絶対的偶然性」とハーマンの「汲みつくせなさ」について

あらゆるものは、たまたまそのようになっている。それゆえ、時間的に積み上げてきた同一性の殻をとつじょ脱ぎ捨てて、まったくべつのものに変身しうる。破壊の力はいつだってなんにだって到来しうる。わたしたちは、それによってまったく新たな世界へと投げ込まれる。新しさの春の嵐は、とつぜん吹き荒れる。

そんなことをここ1、2年のあいだずっと考えている。だが、この思考の同一性にも破壊がやって来るかもしれない。そして、まったくべつのことを考え出すかもしれないし、そもそも考えることとはべつのことをやり出すかもしれない。なので、簡単なメモを残しておこう。破壊性へ──。

* * *

カンタン・メイヤスーの「絶対的偶然性」から出発しよう。この概念の正式名称は「事実論性」である。だが、ほかにもさまざまな名をもつ。「非理由律」「別様である可能性」「ハイパーカオス」「すべてを破壊しうる時間」「デカルトの神に匹敵する全能性」など。

これらの名はどれも、つぎのおなじ事態を表現したものだ──すべては偶然的である。それゆえ、つぎの瞬間に別様になりうる。

メイヤスーは、たんに偶然性を主張しているだけでなく、そこにじっさいの生成変化の可能性をもつけたしている。この点がおもしろい。たんに偶然性を主張するだけの哲学者ならいくらでもいるが、そうではない。「あらゆるものはたまたまそうなっている。だったら、それとはまったくべつのあり方になってしまってもおかしくない」というのがメイヤスーの考えだ。

〈あらゆるもの〉の範囲を最大限に広く、そして〈なる〉の断絶を最大限に強く理解することが重要である。

まずは〈あらゆるもの〉について。とつぜん別様になってしまうのは、個々の事物だけではない。あらゆる事物のあり様を規定している法則性も変化しうる。つまり、物理法則や論理法則、形而上学的法則でさえも変化しうるのだ。たとえば、ビリヤードボールがありえない方向に飛び出していくかもしれない。あるいは、プーチンがプーチンであると同時にプーチンでない世界になるかもしれない。時間が逆行したり、前後とはべつの方向に流れ出したりしても良い。なんでもありだ。

ということは、〈なる〉の断絶がとてつもなく強い、ということである。あらゆるものが、どのようにでもなりうる。しかも、いまのわたしたちにはまったく想像できないようなあり方で。こうした劇的な生成変化の可能性が世界全体に染み渡っているのだ。

可能性の力のあふれ出しを空間的に展開させることを試みたのが、可能世界論だと言える。さまざまな可能な世界が、現にあるこの偶然的な存在者の横方向に広がっている、というイメージだ。それに対してメイヤスーは、可能性の力を時間的に未来方向へとあふれ出させる。つぎの瞬間にまったく別様なものが到来しうるのである。

だがもっと言えば、メイヤスーが考える時間的な可能性の力(絶対的偶然性)は、可能世界論が提示する形而上学的構造そのものにさえも絡みついている。可能世界論が考えるように、この現実世界の周囲にさまざまな可能世界が広がっているとしよう。だがメイヤスーの主張を敷衍すれば、そうした諸世界から成る構造そのものも、つぎの瞬間に崩壊し、まったくべつの構造へと劇的に生成変化するかもしれないのだ。メイヤスーの絶対的偶然性は、可能世界論そのものの破壊をも含意する。

このように、メイヤスーが考える絶対的偶然性はひじょうに強力である。哲学史において最強の破壊力を持っていると言っても良い。だが、メイヤスー自身は、その力にリミッターをかける方向へと議論を進めていってしまう。なんてもったいないことを!

ぼくは、リミッターがかかる手前の純粋な絶対的偶然性の力をそのまま引き継ぎたいと思う。それをあらためて「破壊性」と呼びなおすことにしよう。それはあらゆるものに浸透する破壊の力だ。いかなる理由もなしに、とつじょ通時的な同一性を引き裂きうる。そして、まったくべつの新たな世界を到来させるだろう。ベンヤミンのイメージを借用(し破壊)すれば、破壊の嵐は、瓦礫が残らないほどにすべてを吹き飛ばし、哀れな「歴史の天使」をまったく新たな異世界へと転生させるのである。

* * *

グレアム・ハーマンは、対象を重視する。ハーマンにしたがえば、個々の対象は、他のいかなるものにも還元されない強力な自立性を有する。その自立性を支えるのは、「汲み尽くせなさ」である。対象の強力な汲み尽くせなさが、その強力な自立性を保証する。

たとえば、「プーチン」という対象は、他の対象によっては汲みつくされえないものだ。側近や娘、ペットの犬、愛用のネクタイといった対象は、プーチンと親しい関係を持つだろう。だが、そうした関係にさえも登場しない余剰的な性質を、プーチン対象は隠し持っているのである。余剰的な性質は、プーチン自身でさえも汲みつくせない。さらには、全知全能の神でさえも汲みつくせないのだ。ハーマンは、このように汲みつくせなさを強力なものとしてとらえている。

汲みつくせなさは、変化や新しさの起爆剤だと言える。対象の奥底に眠る汲みつくせなさの闇から未知の性質が噴出することによって、世界に新しさがもたらされるのだ。ハーマンは、変化の起爆剤としての汲みつくせなさを個々の対象のうちに埋め込んでいる。

破壊性もまた、変化の起爆剤である。破壊の嵐が吹き荒れることによって、事物は、その既知のあり様を吹き飛ばし、別様になる。だが他方で、破壊性は、ハーマンの汲みつくせなさとは異なり、個々の対象という固定的な枠の内部におとなしく収まってはいない。破壊性は、対象という枠組みそのものにも浸透している。破壊の嵐は、対象という構造そのものをも吹き飛ばしうる。さまざまなタイプの対象から成り立つという世界の構造そのものが別様になってしまうのだ。

ハーマンは、対象性という形而上学的構造にかんしては汲みつくせる、という態度を取っているのだと言える。ハーマンにおいて、変化の起爆剤としての汲みつくせなさは、対象性に従属している。したがって、これだけは爆破不可能なものである。ハーマンにおいて、対象性は、爆破不可能な必然的構造として汲みつくされることになる。

他方で、破壊性は、汲みつくせなさが有する爆破の力を解き放つ。いかなるものも破壊の可能性を免れることはない。破壊性は個々の対象だけでなく、対象性そのものをも吹き飛ばし、まったく新たな世界を到来させるのだ。

研究をしながら、分かりやすい記事をすこしずつ書いていきたいと思います。サポートしていただけると、うれしいです!