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小説『砂漠から』

昔、人生を定義したがる変わり者の爺さんがいた。
幸せとは何かとか、自分はどうあるべきか、などといった問いを起きている間中ずっと考えているような人間だった。

俺は、なんでそんなことばっかり考えるんだって尋ねた。
つまり、人生とは何かとか、幸福とは何かとか、自己との対話というのは、何かに取り組むための準備の話であって、結果ではないと思うんだ。
だから、そのことばかり考えて生きるというのは、実存する日々をむしろ蔑ろにしていることに他ならないだろうか、と。

安楽椅子に座って、庭先で午後の陽光のなかに浮かんでいるようにみえた老人は、こらえたものが喉から逆流するにように、短く笑った。

では、いつそれを考えるのか。
10代ではあまりにも知見が足りない。20代ではあまりにも感情や環境に呑まれる。30代ではもう一人の人間を考える。
だが、考えないことには、自己の可能性に導かれることができないのだ。


それで、じいさんは、身よりもなく、仕事もなく貧困に喘いで、一人孤独に死んでいくんだぜ?
あんたが若い頃そういった考えを手放して、目先の仕事に専念していれば、こんな無知で無理解な若いだけのヘルパーに人生を語らずに済んだかもしれない。


人生のあらゆることを悔いているよ、だが、どう考えても私はそういう人間で、そうせざるを得なかったという結論に至る。
例え人生から何の見返りもないと初めからわかっていても私は
”こういう人間”なのだ。君と同じようにね。

俺はそんなことを考えない。
昔の島育ちの人間が、考えることに大して未知の恐怖を抱いたように、ただ塩が満ちては引いていくに任せるさ。

考える考えないではない。
私達はかつてから永遠に存在して、絶えずある役割を持った演者だ。

さっぱりわからん。

私もさっぱりだ、ただ、この世界の歴史には、人にはそういった理があるように感じるだけだ。

黄金に染まった草原の中に朽ちかけた家と庭は、次第に夜の帳のなかへ混じって、溶けて、いつか思い出せそうもない過去のなかへ葬られたかのように思っていた。

けれど、今、俺は懐かしさとともにその記憶が蘇ってきた。
そういえば、隣に座っている者の存在を忘れていた。

「違うわ」

「ん?」

「私の名前じゃない、それは別な女の名前ね」

夜のハイウェイだというのに周囲の車は、まるで積載重量を3倍もオーバーしたみたいな速度でトロトロと走行している。
それか半分だけ眠っているか、だ。

「謝るべきかな?」

「別に必要ない、だって、私達自己紹介だってしてないもの」

「そうか、そうだったな」

不意に、俺は他のある女性の名前を呼んでいたようだ。
口の中には、さっきまで吸っていた煙草の残り香と、その女の名前のスペルの余韻の残滓が妙に残っていた。

結局、1967年の8月24日に風変わりな爺さんは亡くなった。
俺はそこで、ヘルパーの仕事をやめ、休学していた大学へ復学した。
相変わらず勉学に身は入らず、ふとした拍子に爺さんのことを思い出して、何も産生しないことは承知で、彼の人生についてを考え始めた。

そうこうするうちに、日常の世界は、いくつもの水滴がまとわりつくようにぼやけはじめて、同じ大学生を見ても『俺たちは何をどうしても死んでしまうのに、彼らは何をそんなに人生を豊かにして、有益かつ有用な余生を目指すのだろう』とわからなくなった。

いつか消えてなくてしまうのに、個人の意識の独自性の確立にやっきになるなんて、なんだか空しいものだと。

楽しむとか、喜ぶとか、悲しいとか、寂しい、とか、我々が生きているこの100年の間にどれだけの感情が生み出されて、一体どこへ向かっているのだろうか。

後部座席で、瓶が割れる音がした。

「ごめんなさい、割れちゃったみたい、貴方もさっきそうしていたから、真似てみたんだど、割らないように投げるコツでも聞いとくべきだった?」

女はこちらを一瞥すると口紅を塗り直しながらそう言った。
等間隔に配置された街灯を抜かすたびに、一瞬、車内にオレンジ色の光が去来し、女の半身が、まるでカメラのフラッシュに動じない博物館のマネキンのように冷たく照らされた。

「気にしなくていい、それより、俺にももう一本貰えるかな?」

「何本目?」

「さぁ、3本かな?」

「違うわよ、クラブで私に声をかけるまでに空けた瓶の数よ」

「記憶にない、酔っぱらっているんだ」

「そうでしょうね」と女は言った。「安全運転でね」

「時速150キロで?酒も入っているのに?」

「そう、時速150キロで、酒も入っているのに」

「ありがとう、スイス語でも言って見せようか?」

手渡された酒瓶はとうにぬるかった。
ただ、どんなにぬるくても、酒がもたらす酔いが、偽りでも一時の人生の慰めになることだってある、だから悪くない。
まるで、何も心配がなかったころの、冬の朝の毛布のなかみたいに。
だれだって、いつも帰りたいと思っているに違いないんだ。
正常に世界が回っていて、何かに守られていて、約束された日々に。

そういった童心を欠損した人間から、きっとくだらない人間になっていく。
そんな予感が最近するんだ。

「それなら植物語で行ってみてよ、植物学者さん」

「植物は話さないよ、泣きはするけれど」

「植物が泣くの?悲しいよぉ、辛いよぉって?」

「葉に傷をつけたり、花を切り落としたりすると、人間には聞こえない周波数でクリック音を発するんだ、それが植物の泣き方なんだよ」

「私、貴方が植物学者って言ってたの嘘かと思っていたのに、どうやら本当のようね」

「いや、嘘かもしれない」

やがて首都から真っすぐ伸びているだけのハイウェイを降りて、別なハイウェイに乗った。

そこは先ほど走ってきたハイウェイよりもずっと走行車両の数が少なく、すれ違う家々の数も減っていった。

俺はガソリンメーターを見る。
もしかしたら、途中でガス欠で朝まで動けなくなるかもしれない、と思った。
道端に見えるガソリンスタンドからは既に光が失われ、役割を終えた段ボールのように闇のなか佇んでいる。

ついさっきまでのハイウェイと違って、整備が行き届いていない。
白線は死にかけていて、道路には細かいクレーターがあちこちにある。
街灯の間隔も遠くなっていた。

ハイビームにしても、地平線がずっと暗かった。
そういう光景が、永遠に続いていきそうだった。

『ようこそ、メッカへ』

そうか、俺達は砂漠に行こうとしていたのか。
空いた酒瓶を後部座席に投げた。
瓶がたまらず割れた音がした。
その開放的な音が、何故だか心地よかった。
けれども、生きている間、ずっと何かを壊し続けることはできない。
すぐに閉塞的な薄い膜が俺と人生を再び隔てた。

隣を見ると、女は静かに眠っていた。
車のエンジン音がやたら立体的に感じる。
ラジオをつけた。起こさない程度に気を配った。

地元のニュースが読み上げられていた。
どうにもビーチで鮫が出たために、一時的に閉鎖するらしい。

『ようこそ、メッカへ』
俺は、この名前も知らない女と酒を飲んで、くだらない話に耳を傾けて、夜中がそうさせたのか、二人で砂漠へ行こうという話になった。

「そういえば」眠たそうに枯れた声で女が言った。「さっき呼んだ女の人って誰なの?」

「起きたか、ラジオをもう少し小さくするから、まだ眠っていたほうがいい」

それからまた女は眠りについた。
反対車線を走る車がパッシングする。
ハイビームを元に戻した。

ラジオからは1960年の一時、僅かにブームを起こしかけた曲が流れている。
カントリー系の哀愁を誘うような曲だった。

今日は全てを過去に引っ張られる。
まるで、夜のハイウェイが意志をもって、過ぎ去った日々へ道をつなぎ、遠く夜の中でひっそりと縫い合わせているように。

”彼女”と出会ったのはまだ俺が大学に在学している時だった。
数年交際し、婚約した、そして極度にアルコールに呑まれていった俺の元を去った。

俺の友人がめでたく彼女を射止めて、結婚し、子供を産んだ、そして旦那の暴力によって別れたと誰かが教えてくれた。

そんな彼女とぶらりと来たのが、この『メッカ』の町だった。
婚約して数か月後のことだった。

ガス欠になりかけた車を転がして、砂漠の風で錆びついたガソリンスタンドで給油がてら、併設されたカフェとしみったれたスーパーのなかで、一服した。

出てきたパンケーキは、どこの誰が作っても同じような代物が出てきそうなもので、それに20ドル払った俺たちは、どうしようもない、と笑った。

閑散とした店内には、地元民しかおらず、全員がここまでの道のりで土で汚れたメキシコ人だった。彼らは大声で話し、訛りの強い英語で俺達に何かを言ってきたが、手を振ると、満足そうに笑って自分たちのコミュニティに戻っていった。

どうしてか、俺はそのあと二人で行った形容しがたい奇麗な場所よりも、その店内のまだ旅の途中といった雰囲気が立ち込めている、少しくたびれて、少し遠いところまできてしまったという、二人の共通認識と、微笑みが、胸の中に残っている。

それは思い出という言葉では優しすぎて収まらない。
もっと焦げに近い焼き付いたものだ。

あのときの14時の砂漠の西日の鋭さや、膨らんだだけのパンケーキの香りや、地元民の大袈裟な身振り手振り、それなのにどこまでも閑散とした静謐に包まれた、店内。

ガソリンスタンドに立ち寄る車のほとんどが、スタンドと同じようにサビ、ところどころの車体のフレームが歪んでいた。


ふとした、夜、俺は、あそこにまだいるのではないかと思う時がある。
人間は人生にある幾つもの焦げのなかに、自己であったはずの何かをまるで帰れない目印にように置いていっているのではいかと。

こんなことを考えるようになったのも、あの変な老人のせいだ。
あの時から、俺は、何かを意味もなく、探り、考え、漁ってきた、
すると、目の前にあるたくさんの物事から光が失われ、意味が消失し、いつの間にか俺を人生の傍観者にかえてしまった。

そしてメッカの町から失われた彼女は、俺の最後の人間の部分だったのかもしれない。
それはもう、あの日の夏の西日のなかへ置いてきた。

クラクションが鳴った。
ハンドルを取り直す。
車体半分が反対車線に乗り出していた。

女が酒を手にして、こちらを見ている。

「なんでか悲しそうな顔、飲む?」

「一口でいい」

「死ぬつもりなのかと思ってた」

「どうして?」

「なんとなく?お酒飲んで時速150キロで命を大事にしてる人間はいないと思うからよ」

「それで、よく君は眠れるな」

「私は、それで困ることはないの、貴方が私のことを知らないだけで、私もそれなりの事情があるのよ」

「安全運転にって言ったろうに」

「それはジョーク、ねえ、ちょっと休憩しない、足が疲れちゃった」

左手にガソリンスタンドが見えた。
沈黙を守り、宵闇に溶け込んでいるが、駐車場くらいは空いているだろうと、いうことで、俺はそこへ向かう。

ハイウェイを降りて、夜間でも機能している信号を無視して左折した。
暗くてわからなかったが、そこはかつての見覚えのある場所だった。

何の因果か、俺は一度、自分を置いてきた場所に戻ってきたというわけだ。
ここに来たのは数年前か。

駐車場へ止めると、すぐに女がドアを開け、砂漠の夜気に伸びた。

「うんっと、開放的じゃない、実は都会の空はとっくに死んでたのね、ほら星だってキレイ」

「そうだな」

「貴方ってさ」と女はこちらの様子を見るように言った。
「貴方ってさ、なんか見ず知らずの誰かに自分のことをうんと話したくなる夜とかってない?明日明後日、もう二度と会うこともないような人と」

俺は女が言っていることの意味が上手くつかめなかった。

「つまり、私に話してみたら?なんか、抱えているみたいだし、貴方が抱えていることって、一度でも他の誰かに話したことある?」

「いや、ないね」

「なら、余計に話して見なさいよ」

「どうして?」

「ここは砂漠だし、明日には私はあなたの前から未来永劫消え去っているから」

「なんだその理屈」

俺は縁石に座った。
昼間、何もかも崩壊させるような陽ざしの下に晒された縁石とは思えない程冷たかった。

女も俺の真似をして、一個離れたところに腰を下ろした。

「言ってなかったけど実は私も植物学者なのよ、貴方と違うところは、人間に聞こえないはずの周波数も捉えることができるの、貴方からは特徴的なクリック音が発されているわ」

「つまり、どんな?」

「泣いているのよ、あなたは」

俺は、これまでの人生のことを話した。
自分のことを語る経験などないから、たどたどしかったように思う。
話しの重要なポイントも前後したし、思い出したかのようにわき道にそれることもあった。

けれど、近くに座っている女は忍耐強く頷き、適切に相槌を打っていた。

話し終わると女は、その相手の電話番号を知っているかと聞いてきた。
俺は多分覚えているといった。

「今でも好きなんだわ、その人のこと」

「忘れられないだけさ」

「酒は今日で辞めなさいよね、貴方にお酒は向いていないわ」

「どうして?」

足元の靴に預けていた視線を女へ戻すと、女は縁石から立ち上がって、どこかへ小走りしていった。

女は財布を取り出し、何かをしている。
女がいる場所は一か所だけ設置されている街灯で照らされていた。
恐らく目の前がトイレだろう。赤レンガ造りの壁面に公衆電話が並んでいる。

まさか、と俺は思った。
止めようと向かったが、女はダイヤルを押し終わった後のようだった。
耳元に受話器を添えて俺を真っすぐに見つめている。

女から受話器を渡された。

「はい、もしもし」

声が聞こえてくる。
俺はそれでも、切ろうと思った。
ただ、受話器を戻すだけ、それだけのこと。

受話器を預かった手が微かに震えた。
女が俺の肩を叩く。
俺はそっちを見た。

女は口パクで『おまじない』と言った後で
俺の頬にキスをしてから遠ざかった。
俺は、赤レンガ造りの壁面に向き直る。

街灯に照らされた公衆電話。
受話器。

「はい、もしもし、どちらさま?」

息を飲む。

「もしもし、こんな夜更けにごめん、覚えているかな、俺のこと」


「もしかして……随分ひさりぶりね、今どこから電話かけているの?」

「ここは……」

俺は辺りを見渡す。
ここは、君と一度だけ訪れたことのある全ての幸福が詰まっていた、過去の俺を置いてきてしまった、錆びたガソリンスタンドだ。
もちろん今は、パンケーキだって食べていないし、土で汚れたメキシコ人たちもいない。



【完】

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