見出し画像

<短編小説>コーヒーの味を知った日

 飛行機がローマの空港に到着した時、すでに23時を回っていた。こんなはずではなかった。32歳女性の一人旅。安全な旅を心がけ、夕方5時前には空港へ到着、町の中心へ移動しホテルの近くで夕食をとる予定だった。しかし、これではホテルに到着する頃には日が変わってしまう。真っ白な雪に覆われたスイスの山に見守れて迎えた新年、希望溢れる1年が始まったはずだった。それなのに、その3日後、離陸の直前に機材の故障が発覚、結局6時間も遅れての出発となった。とにかく早くホテルまで行こう。空港からローマのテルミニ駅まで特急列車が出ているはずだ。私は慌てて切符を買い、出発前ギリギリに列車に飛び乗った。

 何かが違うと感じた時は、出発してからすでに30分は経っていた。あまりにも人が少ない。車内放送もない。列車がホームに入ると、全員が降りた。どうやら終点らしい。私も慌ててホームへと降り立った。自分が間違った列車に飛び乗っていたことを認めるしかない。大きな町の駅ではないことは、この寂しいプラットホームを見れば明らかだ。まわりに10人ほどいた乗客たちも皆、足早に家路に向かっている。ここで一人取り残されると思うと恐怖に駆られ、私は近くにいた中年の女性に英語で話しかけた。しかし、彼女は英語を解さないのか、一瞬私に冷たい視線を向けると、すぐに前を向いて行ってしまった。冷や水を浴びせられたように惨めな気持ちになった。

 こうなったら自分でなんとかするしかない。慌てて鞄の中からスマホを取り出した。しかし、長かった1日の終わりを告げるように、すでに充電は切れており、電源も入らない。なぜ空港からタクシーを使わなかったのか。なぜ行き先を確認しないで列車に飛び乗ったのか。自分の浅はかさを悔やんでみたところで覆水盆に返らず。向かいのプラットホームの電気が消えた。どうやら終電も終わったようだ。見知らぬ地で真夜中に一人、真冬の田舎の駅に取り残され、朝が来るまで待つしかないのか。そう思うと寒さと恐怖で鳥肌が立ち、足がすくんできた。

 寒さをしのぐためにとりあえず駅を出て歩いてみようか、そう思いながら歩き始めた。その時、駅の入り口で立ち止まり、鞄の中から何かを探している男性が目に入った。私はまさに海の中で溺れ、藁をもつかむ思いで声をかけた。

「エクスキューズ ミー」

 男性は異星人でも見るような目で私を見た。

「あの、私、ローマの空港から列車を乗り間違えたみたいで、あの、テルミニ駅に行きたかったのですけど。気がついたらここに着いていて。あの、この近くにどこか泊まれるような場所はありませんか? あるいは、一晩中開いているカフェとか、ないでしょうか?」

 頭が混乱し支離滅裂だった。とにかく今晩安全に過ごせる温かい場所を求めていた。彼はじっと私を見つめた。もしかすると、英語が通じていないのかもしれない。彼にもやはり見捨てられるのかと思うと、涙が出そうになった。すると、彼は辿々たどたどしい英語で言った。

「この辺りにはホテルもカフェもない。こんな真夜中では、タクシーも走っていないし、終電も行ってしまった」

 彼は無表情だった。歳は20代半ば頃だろうか。こんな真夜中に、駅で見知らぬアジア人女性に声をかけられ、迷惑だと思っているに違いない。彼の声は、被告人に死刑を宣告する裁判官の声のように私の胸をつき刺した。

「あなたが今晩無事に過ごせる場所は、僕の家しかない」

 数秒の沈黙の後、能面のような表情のまま彼は言った。

 突然別の恐怖が訪れた。いくらやむを得ない状況だとしても、得体の知れない男性の家にノコノコついて行くなんて、そんな向こう見ずな行動が取れるだろうか。寒さを凌げたとしても、自分の身の安全は保証できない。それならば、一晩中街を歩き回った方が賢明なのではないか。

「あ、ありがとうございます。でも同居されている方に迷惑がかかるから」

 私はようやく声を絞り出し、断りの意思を伝えた。しかし、そんな私の必死な決意も意に介さず彼は言った。

「僕は一人暮らしだ。向こうに車を停めているからついて来て」

 彼は私の返事も待たずに歩き始めた。外の冷たい風が頬に当たり、身体が震えた。駅の外は見事に真っ暗だった。どこを歩けば良いのか、何があるのか全く見えない。やはりこの暗闇で冷気と共に過ごすことは狂気の沙汰だ。どちらも身の安全が不確かなのであれば、残された道はただ一つ。彼を信じることなのではないか。私は彼の後ろをついて行くことに決めた。

 彼は再びカバンの中を探りながら前方を歩いていく。そして、車の鍵を取り出すと、助手席のドアを開けて、私の方を見た。私は「ありがとう」と小声で言うと、車に乗り込んだ。車内にはイタリア語のラジオが流れていた。何を言っているのかさっぱりわからない。しかし、突然無口だった彼が鼻で笑った。背中がゾクッとした。

 10分ほどでフラットの前に到着し、車を降りた。彼は無言のまま階段を上がった。部屋は3階にあった。玄関を入ると、細い廊下の先にリビングとキッチンがあった。

「この部屋を使って」

 そう言いながら、リビングの横のドアを開けた。そこは寝室だった。

「でも、ここはあなたの寝室でしょう?」

「いいから、気にしないでベッドを使って」

 彼はそう言うと、私を部屋へ案内した。ドアの横には時計があった。もう深夜1時が近い。あれこれ議論をする時間ではないと思われ、私は言われるがままに彼の寝室を使うことにした。洗面所を使わせもらうと、すぐに部屋に入り、ドアを閉めた。

 部屋はきれいに整頓されていた。ベッドにはきれいに布団がかけられている。ベッドに腰掛けると、ドッと疲れが押し寄せてきた。リビングから彼の声が漏れ聞こえた。電話で話しているのだろうか。声が聞こえなくなり、しばらくすると、玄関のドアが開く音がし、また閉まった。もしかすると、彼は悪友にでも電話をして、変な女が家にいることを伝え、仲間を呼んだのだろうか。不吉な考えが頭をよぎったその時、部屋の電気が点滅し始め、そして消えた。こんな時に電球が切れたのか。恐怖でパニックになりそうだった。

 思い切って部屋のドアを開けた。しかし、彼の姿は見当たらなかった。さっきのドアの開閉音は、彼が出かけた音だったのか。それにしても、こんな時間にどこへ行ったのか。私は暗い寝室に戻った。だんだん暗闇に目が慣れてきた。突然また玄関のドアが開いた。彼が戻って来たようだ。私はベッドの上で体育座りをし、身構えた。どれくらい時間がたったのかわからなかった。生活音が消え、家の中が静寂に包まれていた。彼の悪友は部屋にはいないのか。彼はもう寝たのだろうか。私も布団の中に入って体を休めることにした。うとうとしかけた頃、急に部屋のドアがそっと開いた。心臓が止まりそうなほどの恐怖にかられた。しかし、そのまますぐにドアは閉められた。誰かが入ってきた気配はない。けれど、その後もあらゆる妄想が頭から離れなかった。

 気がつくと、窓から太陽の光が差し込んでいた。長い夜があけ、ついに朝がやってきた。ものすごく喉が渇いていた。ベッドから出ると、窓辺に行きカーテンを開けた。気持ちの良い晴天だった。見下ろすと芝生の公園があり、木々の緑の葉の間に、オレンジの実がなっていた。ローマではこんな冬でもオレンジができるのかと思うと、久しぶりに気持ちが和らいだ。時計を見ると、もう8時になっている。ずいぶんゆっくり寝てしまったようだ。彼はどうしたのだろう。部屋のドアに近づくと、足に何かが当たった。ペットボトルのお水だった。彼が夜中に部屋へ入れてくれたということか。ありがたく渇いた喉を潤した。私はペットボトルを握りしめ、ドアを開けた。

 彼はキッチンにいた。ベーコンが焼ける香ばしい香りが漂っていた。テーブルの上には、パンとカットされたオレンジが二人分用意されている。

「おはよう」

 声をかけると、彼が振り向いた。

「朝食もうすぐできるから」

 彼はうつむきながら恥ずかしそうに言った。昨晩は冷たい無表情に感じたけれど、実際は照れ屋なだけだったのかもしれない。

「ありがとう、いただきます。そしてお水もありがとう。昨晩わざわざ買いに行ってくれたの?」

「違うよ、あの時間に開いているお店なんかないよ。水はいっぱいあるから」

 彼が指さしたキッチンの棚には、水のペットボトルが並んでいた。そしてその隣には、キャットフードの箱が置かれていた。

「ネコを飼っているの?」

「いいや。ここはペット禁止だから。でも庭に遊びにくるネコがいるんだ」

 彼は昨晩、庭に遊びにくるネコのために、外に出て餌をあげに行ったのだろうか。

「座って」

 彼はぶっきらぼうに言うと、カップにコーヒーを注いでくれた。私は普段コーヒーを飲まなかった。けれど、その時彼が入れてくれたコーヒーを飲んで、初めてコーヒーの味を知った。それは、苦味を感じるけれど、やさしい味だった。


最後までお読みいただきありがとうございました。






この記事が参加している募集

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?