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多世代地域に暮らして、死の近さに気づく

田舎の村に越してきて5年以上が経ち、ようやくご近所の方からぶっちゃけ話を聞ける瞬間ができはじめた。よそ者扱いは変わらずだけれど、お客様ではないくらいには受け入れてもらえたらしい。
あの家は実はこんな事情がある、あの人はこういう癖があるから話す時は気をつけて、あそこの娘さんはどこに住んでいるのかしら。そんな会話の中で、近所のお年寄りの話、もう亡くなった方の話、遠方に住む息子夫婦への思い、介護をしているときの気持ち、自分が年を取ったらどう死にたいか、なんかを聞きながら、ああ、こんなに「生き死に」の話を他人とするのは初めてだ、と気付いた。

私が育った家は祖父母と同居だったけれど、ふたりとも若くて元気だった。私が結婚して家を出たあと、最近になって軽い介護が必要になったくらいの年齢だ。
もし私の実家が核家族で、就職と同時に都会で一人暮らしをして、そのまま結婚して子どもをつくったとしたら、私の人生に「お年寄り」が登場することはほとんどなかっただろう。職場にも同世代から親より少し上くらいの人しかいない。街中に住んでいた頃は近所付き合いもなく、あったとしてもやはり同じ賃貸に住む同じ年代の人ばかりだった。お年寄りを見かけることはあれど、その暮らしを想像もしなかった。
田舎ならではの地域コミュニティでは、街中では見かけないようなお年寄りと接することがある。
90を超えて耳が殆ど聞こえないのに毎日畑の世話をしているおばあちゃん、ヘルメットも被らず古びた原付で畑に通うおばあちゃん、何を話しているかわからないくらい訛っているのに耳が遠いから怒鳴るように話すおじいちゃん。皆さん、畑のほかは農協のイベントや近所のスーパー、病院くらいにしか出歩かない様子で、以前の私なら生活圏が全く被らない人々だ。
少し若い、まだ働いている世代の方でも、都会の企業に勤めているような人とは暮らし方が違う。地元に残って、地元を支えながら、孫の面倒を見ながら、地域のお店や病院や介護施設で働いている。やはり、以前の私の生活では出会えなかっただろう。しかも、たぶん(ほぼ間違いなく)インスタもXもやっていないか、やっていたとしても見る専門。つまり、ネットでも交流する機会がないような人たちということだ。
そんな人の話が聞けたのは、田舎暮らしの大きな、そして思わぬ収穫だった。

近所にご老人が多いせいか、毎年のように葬式がある。自然、「死」が話題になることも増える。
あるおじさんが話してくれた。
「うちの母ちゃんは百歳こえてもまだ元気だけど、毎日のように、早くお迎えが来てくれたらいいのに、と言う。夫も兄弟も友達も同世代の知り合いも皆喪ってしまって、子どももひとり亡くして、耳も遠くなって家の中でも会話もしにくい。寂しいんだろう。そんな姿を見ていると、長生きすることが良いことと思えなくなってくる。自分はそう長生きせずに、母ちゃんを見送ったら早めに死にたい。」
こんな話、この地域に住まなかったら絶対に聞けなかった。でも、お年寄りを抱える家庭では珍しくないことなんだろう、とも思う。
そのおばあちゃんにも会ったことがあるから、なおさら胸に来る。
その話を聞いた、私より20歳ほど年かさのご婦人が
「死ぬの怖いな〜って考えて眠れなくなるときがあるけど、よく考えたら夜に寝るときだってなんにも考えず意識がなくなるだけよね、って思ったりもする。自分が死んだら未練がありすぎて娘や孫の周りに化けて出ちゃいそう。」
なんて笑いながら言う。

家族以外と、こんなに死の話をしたことはなかった。死を話題にすることはどこかタブーのような気がしていたし、年齢的にもまだまだ遠いことのように思っていた。
けれど、世代が上の人にとっては近い未来の話であり、日々身近に起きていることなのだ。

同世代としか交流がない若者たちが、あるいはそうして過ごしてきていま中年になった人たちが、SNSでいたずらに「死にたい」とか「死ね」とか、そんな言葉を呟けてしまうのは、身近に本当に死んだ人が少ないからなんじゃないだろうか。
ほんの百年もたてば、ほとんどの人は死んでしまう。
頭ではわかっているけれど。
多世代が暮らす地域に、数年かけてまぜてもらって、私はやっとそのことに気づけたのかもしれない。

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