【#17】ジャガイモの憂鬱

いろいろな素材から一つの料理を生み出すときに”同時スタート”をすると失敗することが多い。葉物野菜であれば茎から先に茹でた方がいいし大根とゴボウなら、より固いゴボウから先に鍋に入れたほうがいい。立ち止まって考えてみればとてもシンプルなことだけどそれぞれ切り終えたらザッと一気に鍋に入れてしまうことを盲目的にやる。家族のためのごはんを何十年と作っている世界中の偉大なるオカン達でさえ、なにも不思議に思うこと無くこの”同時スタート”をやっている。

そもそも切り方ですら個性に合わせたほうが良くて、より味の出やすいサイズとカタチで切ってあげた方がおのおのチカラを発揮できるというもの。とても人間関係やチームビルディングに似ていると思った、今日。

「なんで私より先にあの子が…」「あの子と一緒じゃやだ」などなど、人参と大根はお互いの”つくりと質”が違うから、これをなかなかわかりにくく、おのおのの言い分がある。

最終的にみんなの美味しさが出し切れる仕上がりをイメージする。それは時にバラバラの歯ごたえを”揃える行為”であり、ときには”個を際立たせる”行為であり、いつも同じではない。大根と人参とゴボウのチームに小松菜が加われば全体のオーケストレーションを変えるし小松菜に”合わせろ”という方が酷であり、小松菜の頑張りも、必要。

大事なのは料理をしている人が全体とゴールを見ることができるかどうか。過程の段階からそれぞれに伝える話法を持っているかどうか。聞く耳を持ってもらえているかどうか。ここで問題なのは会社で言うところの役職って奴が付いちまった人=スキル保持者だとは限らないということだ。

料理を”任せられた”立場にいて、実は魚を3枚におろせなくとも圧力鍋を使ったことがなくとも、マズイものは出さないぞと真剣な眼差しでキッチンに立つ。そしてそれは2年とか3年の道のりをかけ煮詰めていくつもりだけど、実は僕自身が料理人ですらなくジャガイモ君が無理して人間のフリして鍋を煮詰めているとしたら悲劇だ。

これは世の役職持ちの多くがそうなのかもしれない。運良くカナブンじゃなく人間に3度生まれ変わることが出来たなら、違うのかもしれないけれど、僕はおそらく”人間1回目”だ。粒ぞろい粒違いの素晴らしい素材達を扱う一介のジャガイモ。ジャガイモは手足が生え、カルビーのポテトチップ君みたいになれるのだろうか。

それでも今日という日はここにあり、明日も明日にやってくる。

自分らしさとはジャガイモらしさなのか、手足が生えるのを目指してもがく、それそのものを指すのか今の僕にはわからない。

来世は人間かもしれないしヤカンの蓋かもしれないし三角コーナーかもしれない。だから人生は厄介だ。もうこのくらいで止めておけばいいや、という予定が立てられないから。でもきっと大事なのは何かに目をつむったままにしないことなんだと思う。「人はおおむね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない。肝心なのは望んだり生きたりすることに飽きないことだ。」というコトバがあるけど、ここまで達観してはツマラナサスギてやってらんない。こうして思考がグルグル回ったとて結局いつもの座右の銘にたどり着く。

「十年後には笑い話だ」 (映画版「阿修羅のごとく」:向田邦子)

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