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桐野夏生『ハピネス』

桐野夏生『ハピネス』(光文社文庫)

若々しくて、綺麗で、セレブで、おしゃれで、ハッピーなママライフ。

桐野夏生『ハピネス』は、女性誌に頻出しているこれらの言葉を体現するような人たちが暮らす、東京都・江東区の五十二階建てのタワーマンションが舞台の物語である。

このタワーマンションに暮らす専業主婦の有紗は、娘の花奈と二人でタワマン生活を謳歌している。夫は海外に単身赴任しており、有紗の実家は新潟と遠い。何かあった時に頼りになるのは同じタワマンに暮らす「ママ友」たちである。

登場するママ友は全員で四人。いぶきちゃんのママ、芽玖(めぐ)ちゃんのママ、真恋(まこ)ちゃんのママ、美雨(みう)ちゃんのママだ。ママ友たちは「いぶママ」「美雨ママ」と子どもの名前+ママの通称で呼ばれ、ママ友たちの本名は物語内でほとんど明かされない。全員が同年代の女の子の子どもを持つママである。

このタワマンは「BWT(ベイウエストタワー)」と「BET(ベイイーストタワー)」の二棟が建ち並ぶ。見晴らしが良く人気があるのはBWTである。BWTのなかでも西南四十七階の一等地に住んでいるのがママ友グループのリーダー格「いぶママ」だ。

元CAのいぶママは、カルティエのエンゲージリングが似合うセレブ妻だ。
センスがあり、社会経験もあることからママ友たちのまとめ役となり、主にいぶママが子ども連れ集合を呼びかける。
有紗はママ友達とのお茶べりを楽しむ反面、見栄をはって小さな嘘を付く自分を苦々しく思っていた。
有紗はBETの住人であり、分譲ではなく賃貸で住んでいる。それが有紗に劣等感を抱かせ、見栄をはらせる原因になっていた。

いったん「センスの悪い家」とか、「手抜き主婦」「ダメママ」の烙印を押されたら、引越しでもしない限り、その烙印が消えることはない。家事手抜きのだらしない主婦、と。それでも男の子がいる家はまだ許される。男の子が乱暴で散らかす、と言えばいいのだ。女の子の家は反対に、決して手抜き家事をしてはならないのだった。むしろ、料理や掃除などの家事が好きで、手作りの菓子を始終作っているような母親でなければならない。(69頁 第一章 タワマン)

タワマン暮らしができるだけでも十分恵まれているはずなのに、より高みにいるママ友達に囲まれ、有紗は劣等感にさいなまれ自信を無くしていく…。

しかし、ママ友グループにはタワマン暮らしでないママもいる。美雨ママはタワマンの隣のマンションに暮らしており、タワマン暮らしのママたちと比べると庶民的な生活をしている。美雨ママは「江東区の土屋アンナ」と比喩されるほどの美貌の持ち主であり、リーダー格のいぶママにも臆することなく接するため、有紗は美雨ママに圧倒されっぱなしだ。

五人で構成されたママ友グループはうわべではとてもキラキラしたグループだが、有紗の内面は羨望と見栄と嫉妬が渦巻いている。小さな嘘を重ねつつ、有紗はママ友達、特にいぶママに嫌われないように苦悩の日々を送るのである。

この物語ではママ友という人間関係ならではのしがらみが「リアル」に描かれていて、その「リアル」さに戦慄する。

「美雨ちゃんて響きが可愛いよね。字も綺麗だし、美雨ちゃんは顔も可愛いから、とっても雰囲気に合ってると思うな」
いぶママが穏やかに言うと、そうそう、と他のママたちも同意した。
「うちも、そういう名前にすればよかったな。いぶきに言われるのよ。どうして、いぶちゃんだけ、『い、ぶ、き』って三つの音なのって。ほら、今の子って、みんな二文字じゃない。めぐちゃん、まこちゃん、みうちゃん、かなちゃん」
いぶママが、一人ずつ子供の顔を見て言った。有紗には、子供の名前の順が、いぶママの好むママ友の順に思えてならない。(163頁 第二章 イケメン)

「ママ友達のしがらみ」というテーマだけでもホラーなのだが、この物語はそれだけではない。主人公・有紗の家庭問題や隠していた過去、子どものお受験問題、ママ友たちのいさかいなど、多くの問題があらわになり、展開されていくのである…。

この物語は読めば読むほど登場人物の問題と秘密があらわになっていき、有紗たちがどうなるのかエピローグまで分からず、読了するまでずっと緊張状態であった。

「何か可笑しい?」
目敏く見咎められて、有紗は肩を竦めた。
「ううん、何にも可笑しくない。みんな必死だったんだなと思っただけ」
(414頁 第五章 セレクト)

結局のところ、この物語が言わんとしているのはこの引用になるのではないか、と思いつつ、人間関係のしがらみと感情の複雑さを改めて感じた物語だった。

東京都内でタワマン暮らしは多くの女性が一度は夢見るのではないだろうか。
上を見たらキリがないし、下を見てもキリがない。
この物語で描かれる黒い感情に共感を覚えない人はいないと思うし、みんなが黒い感情を上手いこと飼いならして「ハピネス」を作ろうとしているという単純なようですごくややこしいことを日常的にやっているんだよな、と改めて感じたのだった。

自分の黒い感情を戒めつつ、ハッピーに生きていこう…と強く思った一冊だった。

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