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村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』

村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』(文春文庫)

作家であり、ランナーでもある著者が「走る」という行為を通じて自分自身を見つめ、それを「正直に」言葉にした一冊。
本書を手に取ったきっかけは、わたし自身も走ることを習慣にしようと思ったからだった。

著者は1982年の秋に走り始め、それから毎年必ずどこかのフル・マラソンの大会に出るほどのベテランランナーだ。週に60キロ、一ヵ月に260キロ走ることを最低ラインの目標とし、一日10キロを一時間かけて走りこむことを日課にしている。膨大な走り込みの量に圧倒されるが、著者自身は「走る」ことが苦にならない、根っからのランナー気質なのだという。

走り始めた理由は、もともと「走る」ことが性に合っているということと、「走る」という行為を通じて身体に負荷をかけることで自分の頭の中の思考や理論や物語を文章に落とし込んでいくことが出来るタイプだからだ、と語っている。著者にとって「走る」という行為が物語を産み出す重要な燃料になっているのだ。

著者は長距離走の醍醐味を次のように語る。

僕はもちろんたいしたランナーではない。走り手としてきわめて平凡な―むしろ凡庸というべきだろう―レベルだ。しかしそれはまったく重要な問題ではない。昨日の自分をわずかにでも乗り越えていくこと、それがより重要なのだ。長距離走において勝つべき相手がいるとすれば、それは過去の自分自身なのだから。(26頁)

なるほどなぁ、と思いつつ読み進める。
その後は書いている当時(2005年)のレースに向けての練習風景や本番での様子を事細かく語っている。
フルマラソンを走り切った後、思考も身体も真っ白になってしまったような様子を語る箇所が個人的にお気に入りだ。

ゴール。
やっとゴールにたどり着く。達成感なんてものはどこにもない。僕の頭にあるのは「もうこれ以上走らなくてもいいんだ」という安堵感だけだ。(中略)
アテネからマラトン村までの所要時間は3時間51分。好タイムとは言えないが、とにかく僕は一人きりでマラソン・コースを走りきったのだ。交通地獄と、想像を絶する暑さと、激しい渇きを相手にまわして。たぶん誇りに思ってもいいはずだ。しかしそんなことは、今のところどうでもいい。とにかくもうこれ以上一歩たりとも走る必要はない――なんといってもそれがいちばん嬉しい。(99頁)

フルマラソンに挑戦する気は今のところ無いが(そもそも走ることを習慣にできるかも自信が無い)、真っ白になりながらも「あぁ~終わった~!すげぇ気持ちいい!」みたいな、強い快感が全身に響き渡るのかしら、と想像してしまった。

本書のなかで一番響いたのは次の箇所だ。

効率があろうがなかろうが、かっこよかろうがみっともなかろうが、結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。僕はそう考える。実感として、そして経験則として。(252頁)

過去の自分に負けずにたたかい続けることは、年齢的なこともあり、むなしいことかもしれないが愚かしいことではない。先日誕生日を迎え、アラサーの階段を確実にのぼっているわたしにとってジーンとくるものがあった。

本書を読んで、走る最中の「頭の空白」や走ることが嫌になったときの記述など、初心者にも共感できるところがあり、走ることへの興味とモチベーションがすごく上がった。

走ることが好きな人はもちろん、走ることは好きじゃないけれど村上春樹が好きな人、走ることにちょっぴり興味がある人にぜひおすすめしたい一冊だった。

※おまけ※

形から入るタイプのわたしのお気に入りのランニングシューズ。(ミズノ)
わたし自身はというと、いまのところ週3ペース(一回で4キロ)で走るようにしている。
そもそもなぜ走ろうと思ったかというと、友達に影響されたことと、ダイエットのためだ。
一年後には「フルマラソンに出る!」と宣言しているようなパワフルな自分を目指して、日々こつこつと地道に走り続けたいなぁ、、、
と、今のところ(2016年3月)思っている。

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