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「直感」は、「好き」や「嫌い」を超えてゆく

「直感を信じる」は、なんだか正解な感じがするので、信じながら、生きてきた。ふと舞い降りてきたメッセージは、信じてみるのだ。これ、直感?思考?ただの偶然?と迷うときもあるが、直感だと思い込んでみるのだ。そうすると不思議なもので、「直感は正しかった!」と肯定できるように身体が勝手に動くのだ。直感を信じて後悔したことは、実は一度もない。

「シンクロ」をキャッチできる状態を保つこと

世の中には、不思議なことがたくさんある。あの人元気にしてるかな…と考えているときにその人からメールがきたり、映画を見ていてどしゃぶりのシーンになると突然現実の世界でも大雨が降り始めたり、隣の人と自分が突然同じ歌を口ずさんだり、などだ。

それを、「ただの偶然」として流すことはいくらでもできる。でも、「シンクロ」として、何か意味のあるものとしてキャッチすることが大切だと、私は考えている。

私の場合は、自分に余裕がないと、シンクロをキャッチできなる。そもそも、世界への意識レベルが低くなるので、あらゆることへの感度が鈍くなる。心の声を、感じにくくなってしまうのだ。なので、私は、「シンクロ」をキャッチできる状態を保つために、自分の健康状態(精神的にも、身体的にも)を整えるようにしている。とても、意識的に。

「忙しくて死にそう」という悩みを、人生から消した

自分の健康状態を保つために、私がしていること。
「忙しくしすぎない」。以上。

私は、余裕がなくなると、すぐにバタバタしだすタイプである。余裕があるときには比較的メタ的に物事や状況を見れるのだが、時間や心に余裕がなくなると、一気に目の前しか見られなくなる。このとき、心の感度も、ダダ下がるのだ。私は、余裕がない時でも、メタ的で在りたいと望んでいる。トレーニングもしている。が、限界もあると思う。恥ずかしながら、今まで、余裕がなくてパンクしかけ周りに迷惑をかけたことが何度もある。なので、「忙しくて死にそう…」という悩みは、人生から消した。(今のところは)このときは、感度ゼロなので、当然何もキャッチできない。

定期的な "整う" 儀式

それでも、どうしても、何かが溜まっていってしまうときがある。滞っていく感じ。淀んだ感じ。突発的な感情の動きによって瞬時に溜まるときもあれば、じわじわと蓄積していく場合もある。そんなときに私が取る手段は、3つ。サウナ(サウナ後の水風呂で…すべて抜ける)、スウェットロッジ(これは、生まれ変わる)、そして最近ハマった酵素風呂だ。もちろん、効果に大小はあるが、身体的にも精神的にも、溜まったものが一気に抜ける感覚があり、その後しばらくは、肌の感覚、心の感覚、あらゆる「感覚」が研ぎ澄まされる。突発的に何かが溜まる場合にはもちろんこれらのどれかに駆け込むが、そうでなくても、定期的に、サウナや酵素風呂、スウェットロッジには行くことにしている。

話は戻るが、これで「整う」状態を保てていると、「シンクロ」もキャッチしやすいのだ。

「直感」は、好き嫌いを超えたもの

昔は、「あ、これ好きかも」や、「あ、これ苦手かも」を直感だと思っていた。「あ、好きかも」だけを選択し、「あ、これ苦手かも」は、自分の人生から排除した。

最近気づいた自分の変化としては、「好き」か「嫌い」かという概念がどんどん消えて行っているということだ。今、自分で「直感」と呼んでいるものをあえて言葉にすると、「その対象と自分の人生を交わらせたいという心の意志」だと思う。その人と自分の人生を交わらせることで、自分が不愉快な気分になるかもしれない。それでも、交わらせたいと心が言うことだって、あったっていいのだ。自分が求めているのは、ドラマティックな人生であり、平穏な人生では、決してない。忘れてはならない。この時、それを好きか嫌いかなんて、とても、どうでもよい。

これからも私は、
「直感とは何か」を問いながら、生きていくんだと思う。

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