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透明少女だったころ~ナンバーガール復活と聞いて三十路女が思い出をつらつらと書いてみる~

ぼんやりとTwitterを見ていたらナンバガ復活・再結成の報が飛び込んできた。ナンバガと言えば私が高校生の頃にハマり、そして解散してしまったバンドである。

そもそもナンバーガールを知ったきっかけが特殊だった。中学までを福島で過ごし、家庭の事情で高校から東京へと越してきた私は、同じく福岡から越してきた少女と同じクラスになる。引っ越してきた者同士仲良くなれたりしないかなと話しかけた彼女こそ、ドラムス アヒトイナザワのいとこだったのである。

音楽と言えば小中とKinKi Kidsが好きで、友達などの影響でGLAYやラルクやSHOPIAをちょっと聞くくらいだった私は、もちろんナンバーガールを知らなかった。そして彼女の手厚い布教により、私は見事にナンバガの沼に落ちたのであった。

ナンバガを初めて聞いた時の衝撃はすさまじかった。初めて聞く音楽だった。こんな音楽もアリなのかと思った。かっこいい、めちゃめちゃかっこいい。当時はブログが流行る前のインターネット黎明期後半、友達がいなかった私はレンタルweb日記サービス「memorize」でひたすらナンバガの話をサビのように繰り返していた。すると日記友達の一人もナンバガにハマった。しめた、と思った。他にも元々ナンバガが好きなお兄さんとも交流を持ったりした。あの人今も元気かな。

どうしてそんなにナンバガにハマったのか、その一因は歌詞にある。当時の私は福島から上京してきたばかり、訛りも抜けず、友達もその彼女くらいしかおらず、東京の暮らしになかなか慣れなかった。そんな疎外感や都会の殺伐さ、思春期の青さやぼんやりと抱いていた厭世感がなんとも歌詞とマッチしていた。そしてなにより、私は紛れもない「少女」だった。

夏の夕暮れ、夏の制服に身を包み、ポータブルCDプレイヤーでCDを聞きながら自転車に乗って下校した。耳に流れてくるのは透明少女。

あの時、私は透明少女だった。

初めてライブハウスというものに行ったのも彼女とナンバガのおかげだった。今は亡きCLUB 24 YOKOHAMA。彼女と、彼女の母親と、クラスメイトの男子一人と、私の四人でナンバガのライブを見にいった。ライブハウスの場所が分からなくて迷子になり、到着したころにはライブは始まっていた。熱気、眩しい照明、そして爆音。ダイブする人たちもいた。それを私たちは後ろのほうで見ていた。ただただ圧倒されていた。

一度、ナンバガのチケットを2枚取ったものの一緒に行く人がおらず、掲示板で見つけた人に譲ったことがある。年上の彼はイラストレーターで、とある有名商品のパッケージデザインなどもしていた。原宿のカフェで待ち合わせ、チケットを譲った。結局一緒にライブに行くことになり、その後も少し交流があって、一度だけ彼の主催するイベントで制服姿でDJの真似事をさせてもらったりしたのだけれど、そのうち疎遠になってしまった。いま彼の名前をググったらWikipediaが出てきた。私のこと、覚えてるかな?

解散の報を聞いたのも高校生の時だった。関東での最後のライブに行くかと彼女に問われて、当時初めてできた彼氏に「一緒に行く?」と聞いた。「俺はいいや」といわれて、すっかり恋愛脳だった私は「じゃあ私もいいや」と断ってしまった。私はその後このことをメチャクチャ後悔したのであった。その後悔から「彼氏よりも公演」主義者になったのはまた後々の話。

私の中でナンバガは夏のイメージがある。初めてライブに行ったのも確か夏ごろだった気がするし、ナンバガをよく聞いていたのも夏だった。成人してからは酒を飲みながらナンバガを聞いた。そして今もこれを書きながら呑みつつ聴いている。解散から17年だって。信じられる?あの時16~7歳だったのに。もう私も三十路を超えている。

ナンバガ復活の報は当時のweb日記友達―今もTwitterで仲良くしている―のもとにも届いた。それからなんだか、あの頃のことを思い出してしまった。ので、こうしてつらつらと書いてみた。彼女とは疎遠になってしまったけど、あの頃はまさしく青春そのものだったように思う。そして、これは当時ネットで仲良くしていた別のお兄さんにも言われたことだけど、高校生のうちにナンバガのライブに行けたのは幸運だった。

さて、とりあえず『RISING SUN ROCK FESTIVAL 2019 in EZO』への出演が決まっているけれど、ぜひ関東でもなんかやってほしいものである。北海道はちょっと厳しいけど関東圏なら絶対に行く。向井氏の「できれば何発かヤりたい」の言葉に期待したい。



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