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コミュニケーションについて 村上春樹『風の歌を聴け』のジェイズ・バー 柄谷行人『探求 I 』

村上春樹のジェイズ・バー

村上春樹の『風の歌を聴け』の中に、コミュニケーションについて考えるヒントとなる場面がある。

「ジェイズ・バー」のカンターには煙草の脂で変色した1枚の古びた版画が掛かっていて、どうしようもなく退屈した時など僕は何時間も飽きもせずにその絵を眺め続けた。まるでロールシャッハ・テストにでも使われそうな図柄は、僕には向かいあって座った二匹の緑色の猿が空気の抜けかけた二つのテニス・ボールを投げ合っているように見えた
 僕がバーテンのジェイにそう言うと、彼はしばらくじっとそれを眺めてから、そう言えばそうだね、と気のなさそうに行った。
「何を象徴しているのかな?」僕はそう訊ねてみた。
 「左の猿があんたで、右のが私だね。あたしがビール瓶を投げると、あんたが代金を投げてよこす。」
 僕は感心してビールを飲んだ。

村上春樹『風の歌を聴け』

ロールシャッハ・テストにでも使われそうな図柄が、「僕」には、二匹の猿が二つのテニス・ボールを投げ合っている姿に見える。他方、ジェイは、一方の猿がビール瓶を投げ、他方の猿は代金を投げていると言う

では、なぜ「僕」はジェイの解釈に感心するのだろう?

2匹の猿がテニス・ボールを投げ合う場合、どちらの猿も投げる行為と受け取る行為を交互に行い、役割が固定されていない。従って、2匹の関係は対称的だといえる。
役割論的に考えると、二匹の猿は同一である

ロールシャッハ・テストは、紙の上にインクを落とし、その紙を2つ折り、次にそれを広げて作成するために、ほぼ左右対称の図が表れる。
「僕」が感心したのは、ジェイがその左右対称の図柄に違いを見出し「他者」の存在を読み取ったことではないだろうか。

とにかく、二匹の猿のキャッチボールはモノローグ的であり、ジェイと「僕」のやり取りはダイアローグ(対話)だといえる。

普通はそこで考察は終わるのだが、「売る — 買う」関係からコミュニケーションについて、さらに考えを深めることができる。

柄谷行人 「売る — 買う」の関係

『探求 I 』の著者である柄谷行人に従えば、「売る — 買う」の関係において、最初に「売る」時点では買われる保証はなく「売る」と「買う」の間には「命がけの飛躍(関係の偶然性)」(カール・マルクスの用語)がある

一般的には、「売る — 買う」のやり取りは、ビールひと瓶350円という値段が予め決められていて、その規則に則って二人が物と貨幣をやり取りすると考えられる。
しかし、実際には交渉の結果、値段が事後的に決まるのであって、予め決まっているわけではない。

この指摘は、売買のルールが前提条件として成立している世界に生きる私たちの実感とは一致しないような感じがし、納得することが難しいかもしれない。
そこで、フリーマーケット、オークションなどのことを考えてみよう。
一応相場を調べてから値段を付けるかもしれないが、売れるという保証はない。売れるためには、相手が納得して買うという行為が必要になる。値切ろうとする相手もあるだろう。
つまり、値段は決まっていず、売り手と買い手が納得した金額が商品の値段になる。

そこから翻ってみると、例えば、ビールひと瓶350円というルールが前提にされる場合、カウンターのあちらとこちらで「僕」とジェイの位置が入れ替わり、「僕」がビールを出し、ジェイが買う側に回っても、あるいは2人でなく別の人物になったとしても、同じ行為が行われる。
その際には、「売る — 買う」においてさえ二人の関係は対称的になり、テニス・ボールのキャッチボールと同じことになる。つまり、相手は本来の「他者」ではなくなる。

柄谷行人は、「売る — 買う」の非対称的関係性を、コミュニケーションの場におけるダイアローグつまり、「他者」との対話に応用した
彼によれば、「売る — 買う」は「教える — 学ぶ」関係、規則が前提となる会話は「話す — 聞く」関係だといえる。

普通、コミュニケーションについて考える時には、「話す — 聞く」に基づいて理論が形作られる。
話す人間は、話したい内容を持ち、それを伝えるために言葉を発する。話し手はその声を頭の中で聞き、意味を理解し、自分の意図を確認する。つまり、最初の聞き手は話し手自身なのだ。
従って、最初の段階では、相手に向かって話しているように見えても、「話す — 聞く」行為は一体化しており、モノローグでしかありえない

話し手の意識としては、言葉は対話の相手に向けられたものであり、それが理解されることを前提にしている。しかし、その理解とは、話し手の頭の中の「内的な聞き手」が理解した意味を、実際の話し相手も同様に理解するということに他ならない。
そこでは、話し相手の理解でも、二人が共通の言語ルールに基づいていることが前提として想定されていることになる。

いわゆる齟齬のないコミュニケーションのベースにあるのは、話し手と聞き手に共通するルールである。
柄谷は、こうしたルールを前提にした会話はモノローグであり、それは他者との対話ではなく、自己の内的な会話とみなす。

他方、「教える — 学ぶ」において、「他者」が現れる
学ぶ者を、外国語の学習者や幼児を考えるとわかりやすい。外国語を学ぶのも、幼児が母語を学ぶのも、規則を知らないからだ。

外国人や子供に教えるということは、いいかえれば、共通の規則(コード)をもたない者に教えるということである。逆に、共通の規則をもたない他者とのコミュニケーション(交換)は、必ず「教えるー学ぶ」あるいは「売るー買う」関係になるだろう。通例のコミュニケーション論では、共通の規則が前提されている。だが、外国人や子供、あるいは精神病者との対話においては、そのような規則はさしあたって成立していないか、または成立することが困難である。(中略)
 「教えるー学ぶ」という非対称的な関係が、コミュニケーションの基礎的事態である。これは決してアブノーマルではない。ノーマル(規範的)なケース、すなわち同一の規則をもつような対話の方が、例外的なのである。だが、それが例外的にみえないのは、そのような対話が、自分と同一の他者との対話、すなわち自己対話(モノローグ)を規範として考えられているからである。

柄谷行人『探求 I 』

一般のコミュニケーション理論は、ジェイズ・バーの図柄の例を思い出すと、「2匹の猿がテニス・ボールを投げ合う」場面をモデルとして組み立てられている。そこでの会話の相手は、内的な自己であり、「話す — 聞く」が考察の対象となる。
そのために、同一の規則が前提とされていることが忘れられ、「わかる」あるいは「通じる」が当たり前のこととして論じられる。「わからない」「通じない」「誤解」は、正常からの逸脱と見なされる。

しかし、対話とは、本来「他者」との間で行われるはずのものであり、そこに共通のルールが最初から存在するわけではない。意味は理解される時に成立する。物が買われた時、初めて商品として価格が決まるのと同じことだ。
「教えるー学ぶ」において、どんなに教えようとしても、学ぶ側に学ぶ意志がなければ、教えることはできない。

「教えるー学ぶ」という関係を、権力関係と混同してはならない。実際、われわれが命令するためには、そのことが教えられていなければならない。われわれは赤ん坊に対して支配者であるよりも、その奴隷である。つまり、「教える」立場は、ふつうそう考えられているのとは逆に、けっして優位にあるのではない。むしろ、それは逆に、「学ぶ」側の同意を必要とし、その恣意(しい)に従属せざるをえない弱い立場だというべきである。(中略)
 「教える」側からみれば、私が言葉で何かを「意味している」ということ自体、他者がそう認めなければ成立しない。私自身のなかに「意味している」という内的過程などない。しかも、私が何かを意味しているとしたら、他者がそう認める何かであるほかなく、それに対して私は原理的に否定はできない。

柄谷行人『探求 I 』

「私が意味すること」が正確に伝わるかどうかが問題ではなく、私の言葉を理解しようとする「他者」が存在し、その「他者」の解釈した「意味」が、「私の言葉の意味」となる。
それが、「他者との対話」の最も基本的な構図である。解釈のルールは、事後的に成立する

現代のコミュニケーション

ジェイズ・バーのカンターに掛かった1枚の古びた版画から導き出した「他者」に関する考察は、SNSが盛んな現代のコミュニケーションを考える上でも有益だと思われる。

まず第一に、私たちがコミュニケーションについて考える時、二匹の猿が二つのテニス・ボールを投げ合うといった、言葉のキャッチボールを思い描くことが多いことに気づく。
私の話す言葉を最初に聞くのは頭の中にいる「内的な私」であり、その「意味」が現実の話し相手にそのまま理解されると思っている。しかも、意味を解読する前提となるルールの存在が意識されない
そこに、真の「他者」は存在しない。しかし、「内的な私」が現実の聞き手と混同されるために、「話せばわかる」が基本的な考え方になる。

そのことは、過去の村社会でも、近代の家族社会でも、コンセンサスが重視されたことと関係している。村や家内部では、共通の規則が個人よりも優先し、言葉の理解もその規則に基づいて行われる
それ以外の規則によって解読された意味は、共同体から排除される。
「他者」は村や家族の内部に受け入れられないし、違う考えは許容されない。

村や家族が希薄となり、非人称的なコミュニケーション手段であるSNSになると、発信者と受信者の間にルールが存在するようには思われない。しかし、実際には、「他者」との対話が成立することは少ない

SNSを発信する時、多くの人に読まれ、「いいね」というサインで承認されることを望むことが多いだろう。
その際、発信者は、自分の意図する「意味」が、内的自己の読み取った意味とズレることはあまり意識していない。というのも、不特定の他者は「内的な自己」の反映でしかなく、本当の意味での「他者」とは言えないからである。
つまり、発信する時点で、メッセージが「命がけの飛躍」をすることは想定していない。むしろ、「内的な自己」の読み取った意味が、できるかぎり多くの受信者に受け入れられることが願いなのだ。

しかし、時として、思わぬ攻撃を受けることがある。
ジェイズ・バー以外の場所では、ビールが350円と決まっているわけではなく、値段が高すぎるとか、まずいから買わないとか、色々な問題が起こる。
「他者」との対話であれば、違う理解が当然であり、そこから規則を作っていくことになるが、ネット上での調整は不可能に近い。相手は非人称であり、カウンターの向こうにいる「他者」にはならない。

その一方で、インフルエンサーと呼ばれる人々は、数多くの受信者がインフルエンサーの内的なルールの影響を受け入れたためルールが広く共有される現象があることを示している。
現代社会におけるSNSでのコミュニケーションも、やはり「二匹の猿が二つのテニス・ボールを投げ合う」がベースなのだ。

そうした中で、「他者」との対話に基づくコミュニケーションの在り方を知れば、自分の発する言葉の意味が他者にそのまま理解されることはないことがわかり、違いを前提にした上での対話が成立する。
現代社会において本当に必要なのは、「教える — 学ぶ」あるいは「売る — 買う」のコミュニケーションなのだ

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