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【宗教2世支援者養成講座11】プロでも難しい”受容と共感”


 宗教2世の支援について考えるこの連載、以前に「傾聴」について取り上げましたが、カウンセリング的には、「受容」と「共感」という言葉とセットにして語られることが多い言葉です。

 以前の記事については

をご参考になさってください。


 さて、「傾聴」とは支援対象者の話に耳を傾け、その話を文字通り聴くことを意味しました。

 そして「受容」とは、「あなたの言葉や感情をありのまま、そのまま受け止めますよ」という姿勢のことを意味します。なので、「受容的態度」という言葉で説明されることもあります。

 さらに「共感」とは、支援対象者の気持ちに寄り添い、「自分の感情ではなく相手の感情の基準に寄せて理解する」ことを意味します。そのため、こちらも「共感的理解」という言葉で説明されることがあります。


 ・・・・・・とまあ、カウンセリングや心理学的な説明だと以上のような話になってゆくのですが、実はここからぶっちゃけた話が難しいのです。

 臨床心理の専門家を目指す人は、こうしたカウンセリング理論についてカール・ロジャーズの唱えた「来談者中心療法理論」を元に学びます。当然「プロ」を目指す勉強ですから、「プロになる」ことをイメージしながら話が進むわけですが、ロジャーズの理論では

■ 自己同一性 カウンセラーの実感・言葉・態度が一致していること

を要求します。もっと平たく言えば、支援者が対象者の話を聞いたときに、

「自分の感情、態度、発する言葉が、純粋に心のまま出てくること」

が大切だ、と言うわけですね。これをさらに言い換えれば、

「対象者の話を聞いて、”おかしいな?”とか”それは違うな”と思う事態はマズい」

となります。自分の感情が、表向きに対象者にかけることばと合致していないので、自己同一性が保たれていない、とするのです。


 ということは、対象者の言葉を聴くとき、

■ こころの底から「そうですね!」という気持ちになり、
■ 遮ることなくそのまま話を聞き、
■ 「あなたの気持ちがわかるわ!」と理解する

ことを、ウソ偽りなく実行せねばならない、ということになるのです。

 対象者の前で、生身の人間としてウソ偽りがない状態で、なおかつ相手の言葉をそのまま受け止めて、その気持ちを理解する、というのは、なかなか難しいことがわかると思います。


 こうした状態に人間がなる、ということは「プロ」でなければ難しいかもしれません。自己同一性が大切なので、自分を空っぽにしてシャーマンのように対象者が乗り移ってもいけないし、自分をしっかり保ったまま「相手の気持ちに100%同意する」というのは、そもそも矛盾した事態です。

 そんなものすごいことができるのか?

と問われれば、まあ、プロでもできません。実際カウンセリングを仕事としている人の中にも、これがちゃんとできているか怪しい人たちもたくさんいると思います。


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 そのため、現実的には、ロジャーズの理想論とは異なりますが、「プロ」は時に演技を多用します。自分の内心では対象者に対して「この人の言っていることはおかしいな」と感じる部分を残しつつも、それを表に出さない、という演技を行うわけです。

 プロのカウンセラーや精神科医の間でも、これは時折話題になり、どこまで「受容・共感」できるかは共通の悩みだったりするでしょう。

 特に人格障害や精神疾患を持つ対象者の発言は、時に非合理的であり、通常の感覚に合わない不可思議な感情を抱く場合があり、「それをそっくりそのまま受け止める」ことは、不可能に近い場合もあるでしょう。

 こうした「プロ」のぶっちゃけ話は、

「受容と共感は、本当は難しい」福田倫明

https://www.jasso.go.jp/gakusei/publication/dtog/__icsFiles/afieldfile/2021/02/17/daigaku515_06.pdf


などにも見ることができます。ご参考まで。ぶっちゃけすぎてえらいことになってますが。

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 さて、ここから宗教2世の支援に話を戻してゆきましょう。

 宗教2世支援者も支援対象者も、基本的には「おなじ宗教体験を持っている」ことが多いと思います。私はエホバの証人2世ですから、特にエホバの証人の2世、3世の支援に関わることが多いのは、自然です。

 ところが、ほとんどの場合「支援者も対象者も、お互いに大きな誤解をしている」ことが起きています。

 それは「おなじ宗教体験を持っている」というただ一点において、「自分たちはおのずと自然に共感ができる」という勘違いをしてしまうことです。

 この壮大な勘違いをしていることで、宗教2世同士の支援は時に大失敗することがあります。

「”私たちは共感できる”と最初は思ったのに、時が経つとまったく互いに理解できないことが明らかになる」

からです。それは、ひどい場合には、強烈な対立や無理解を互いに引き起こす場合もあります。


 ここで、2つの教訓を提示しておきましょう。

1)
 まず「おなじ宗教体験を持っていれば共感できる」と感じるのは、ごく一部の領域、ごくわずかな領域においてであり、互いの「全部」や「多く」ではない、ということです。

 同じ宗教に属していても、組織、集団、家庭の状況がそれぞれ異なり、親の教義への理解度や、その実践度合いも全く異なります。

 エホバの証人で言えば、ムチを頻繁に用い「しばき倒されたこども」だった2世と、ムチの体験が少ない2世では、親や家庭、教団への恨みの度合いは天と地ほども異なるでしょうし、上級学校への進学が許された家庭とそうでない家庭など、話を交わせば交わすほど「むしろ違いのほうがたくさん明らかになってくる」のが普通なのです。

「体験の全体を仮に10段階で表現するとして、おなじ宗教だったという体験は1〜3くらい、残りの7割くらいは、互いはまったく別の環境だった」

という程度の感覚を持っておくのは大切と思います。 7割別人なのですから、それはもう、何も工夫をしなければ、自然に理解し合うのは無理です(笑)

 ひどい場合だったら「1割しか合致点がない」ということもあります。それはもう海外において「たまたま同じ日本人に出会った」くらいのレベルです。

(なので現実にこの誤解やバグが原因で、海外の日本人コミュニティではおなじ日本人に騙されて身ぐるみ剥がされることが続出するわけですね)


2)
 同じ宗教体験を持っていても7割違うということは、宗教2世の支援には「工夫が必要、演技が必要、意図的に相手を理解し、自分の感情を表向き制御する」必要があることを意味します。

 心理学のプロではない支援者には、「高度な自己同一性と、共感的理解の両立」までは要求しませんが、「感じたことや思ったことをそのまま表に出さず、いったんは相手の立場を理解して黙る」ということが時に必要なことを意味します。

 そして、支援者も対象者も「話のすり合わせ」が必要だということです。

 なおかつ、対象者の多くは傷つき体験を抱いていますから、「自分の側は、すり合わせに応じず、支援者に一方的な理解を要求する」ということが起きがちです。

 すり合わせとは、支援者が一方的に妥協することを意味するでしょう。

 これは支援者にとっては、かなりストレスフルな状況です。

 特に対象者から猛烈な意見や感情をぶつけられたりした場合、プロではない支援者は、この時点で支援を投げ出してしまうことが多いと思います。


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 今回はかなり重たい話も含まれましたが、では宗教2世支援者はどのようなことに気をつければいいのでしょうか。

 それは

■ 自分にできるレベルの、自分が誠実でいられる範囲のわずかな支援でよい

ということがまず第一です。ロジャーズの理論である「自己同一性」を偽らなくてもいい範囲、それがプロではない普通の人間として「自分にできる範囲」に限って、対象者に対して「わずかな誠意」を示す、ということです。

 自分の力量のノリを超えてまで、支援に精力を注ぐ必要はない、ということでもあります。

 そして

■ そもそも、宗教2世同士の共感ができる範囲は、ごくごく狭い

ということをあらかじめ知っておくことです。

 この点を理解しているかどうかで、互いの言葉の齟齬、感情の対立が生じることはかなり避けることができます。


 結論ですが

「宗教2世同士とは、おなじ宗教に属していただけのまったくの他人であり、基本は理解し合えない人間同士である」

「けれど、そのわずかな共通点を大切にすることで、歩み寄れるチャンスがある」

「それでも、互いの体験・感情・考えの違いは時に対立を生む」

「したがって、支援とは、わずかな親切と誠意の集積である」

という感じでしょうか。


(つづく)


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※ 高度な補足

 最終的に「傷つき体験を抱き、生きづらさを感じている」人にとってのケアは、認知行動療法的なものになってゆきます。

 それは、つまり「対象者が感じてきた感情や認知の歪みを、他者からの言葉等によって修正してゆく作業」ということになります。

 そうすると「受容と共感は態度としては大切」だけれど、実際に起きる感情や概念を「当初本人が抱いていた認知や感情とは異なる着地点にもってゆく」ことになります。

1) 「怒っている人がいる」 → 「怒っているんだね。感情が高ぶってしかたないんだね」という共感
2) その怒りはどういう感情やどういう状況か整理する 傾聴を深める
3) 相手の気づきを重んじたり、認知の歪みについて修正してゆく
4) 最終的には「怒りの感情と認知」は違うものに変化する

という一連の流れを仮に設定すると、支援者から見れば「受容と共感の中身」は常に変化しています。


1)怒ってるんだね
2)整理作業って困惑だよね
3)気づきがあってうれしいね
4)今は新たな気持ちになったんだね

と、常に寄り添い「受容と共感している」のだけれど、起きてる感情や事態は最初とはまったく異なっているというわけです。

 互いが違う人間である、ということはここで生きてきます。最初とは違う感情や感覚、認知にもってゆくためには「違う人間、違う感情、違う感覚」が存在していないと成り立たないからです。

 そして専門的にはさらにややこしいですが「プロは認知を誘導する」のではありません。対象者の中から引き出したり、自らの気づきを大切にします。

(先ほどはわかりやすさ優先で、「着地点にもってゆく」と誘導めいた書き方をしましたが、実は誘導せず、対象者の内面から引き出すのがプロです)


 ということは当初うまく行かないと思われた「互いの違いのすり合わせ」は実はこの段階で行われるということなんですね。

 心身が健康な人同士であれば「互いの違いのすり合わせと気づき合い」は、対立を生まずに健常に行えますが、対象者の心身が傷ついている場合は、ものすごくそこに至るまで時間と手間がかかるということです。

 プロはその段階に至るプロセスを、ゆっくりと行います。




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