神様のつくりかた
これまで、ワタクシこと武庫川散歩の駄文に長らくお付き合い頂いている方には、ムコガワが基本的にどのような考え方でこのセカイを生きているかは、すでにおなじみのことと思います。
このムコガワさん、自称他称を問わない「解脱者」ですから、このセカイというのは、一種の「システム」でできていて、それ以上でもそれ以下でもないことを知っております。
まあ、ニュートリノとかヒモ理論かは知りませんが、原子や電子みたいなものがあって、そういう物理科学なシステムが、この宇宙やセカイを動かしているのが真理真実であり、いわゆる人間が想像するような「神様」みたいな意識存在が天のどこかにいるとは思っていないのですね。
そうすると、何を差し置いても優先されるべき、あるいはベースとなっているのはシステムそのものであり、「意識」とか「感情」とかそういうものは、そのシステムの上に成立しているだけで、根幹にあるのはやっぱりシステムなんだ、ということになります。
だから「神様は人類をどうこうしようと思っている」とか「善なる人間は救われ、悪なる人間は滅ぼされる」といった意識論や感情論は全く持って「誤り、まやかし、間違い」であると喝破するわけですね。
このセカイを作った創造主はもしかしたらいるかもしれないけれど、彼には意識や感情はなく、まさしく「無感情なシステムそのもの」である、というわけです。
さて、じゃあ人間が抱いているような感情はどこからできたのか、ということについてですが、科学的には「細胞が感じる、快・不快の感覚情報」がもとになっているのではないか?と言われています。
たとえば、あったかい方向を神経細胞が感知して、そちらへついつい行ってしまうとか、苦いものは避けようとしたり、光がある方向がわかる、とかそういうものの積み重ねが「喜怒哀楽」の原初の姿なのではないか、なんて言われたりもしていますね。
さて、 解脱者ムコガワさんは、人間というものは「物語」でしかこのセカイを認知できないと思っています。この物語、というものは、起承転結がある「ストーリー」だけでなく、「これこれこういうことなのか」と納得できるような「お話」も含みます。
先日、うちの息子と原子やら電子の話をしていて、まあいわゆる「原子核の周りを電子が回っている」模式図の話になりました。まさしく「お話」です。
中高の教科書では、原子核の周りを電子が回っていて、何重かの輪っかになっているような図が載っていますが、あれは実は違うらしいのですね。
わかりやすい「物語」「お話」としては、太陽の周りを地球が回っているような、地球の周りを月が回っているような、そういうイメージが用いられるので、なんとなく原子核の周りを電子が「回っている」ようなお話が語られるのですが、実際には電子顕微鏡で見てみると「回っている」ところは全く見えないそうです。
どういうことかというと、電子顕微鏡で見ると「この瞬間、電子がここにいる」ということはわかるのだそうで、「次の瞬間、電子があっちにいる」ということもわかるのだとか。
しかし、電子顕微鏡では「瞬間瞬間の位置は見える」けれど、それが「回っている」ことは観察できないらしいのですね。うろ覚えだったらごめんなさい。
そこで、「瞬間瞬間の位置」を点で記録してゆくわけです。たくさんの瞬間を「ここにいた!」という点で描いてゆくと、どうもその点の集合体が、原子を中心に輪っかを描くようにぼんやりと映し出されてゆく、ということなのだそうです。
その点々の集まりを見て、わたしたちは「いわば、これは電子が原子の周りを回っているのだ」というストーリーで説明するのです。
ほら、物語が誕生したでしょう?
このように、人は「瞬間瞬間どこに何があるか」ということをそのまま認知しても、それだけではあまりうまくその情報を活かせません。
それがある程度連続的に繋がっているような、進行してゆく「物語」を通して生きてゆくわけです。
これまたこの間、興味深い話を見聞きしました。それは核実験に失敗した人がどうなったか、という話なのですが、核を扱う実験をしていた作業員が、あやまって核物質が臨界になってしまって、放射線をいっぱい浴びたらどうなったか、というお話でした。
彼はその瞬間は生きているのですが、同時に彼はその瞬間に「死んだ」というのです。
どういうことか?
これは放射線が彼にどのような作用をもたらしたかをよーく考えたら、理解できます。臨界に達した放射性物質が、放射線を大量に放出すると、その側にいた作業員のすべての細胞が貫かれるのですね。
その瞬間に、すべての細胞の「コピー能力」が破壊されます。でもその細胞そのものは生きている。瞬間に人体全体が死ぬわけではありません。
なので、その作業員は、臨界の瞬間、何かめっちゃ光が出て、それを感知したことはわかりますが、普通に生きているし、喋ることも出来ます。
ところが、その次の瞬間から、すべての細胞がもう再生しないので、ひとつの細胞が死ぬと、もう復活することはないわけです。あとは死に向かう一方。
このことは、ふだん私達が生きているということは、新陳代謝や細胞分裂という形で、「新しい細胞がつぎつぎに入れ替わっている」こととイコールだということを意味するのです。
「瞬間瞬間生きている」ことと、「連続性の中で生きている」ことの関係性や、「電子が瞬間どこにいるか」と「電子は回っていると捉えられる」ことと、繋がってくると思いませんか?
昨日があり、今日があり、明日がある、という連続性は、実は途切れ途切れの細胞が「コピー」されることで成り立っています。昨日の細胞と今日の細胞は違うけれど、物語は連続性を持って「私はわたしだ」ということを保持してくれるのです。
瞬間の細胞だけが存在していても、それは被曝した作業員のようなもので、ある程度は生きながらえるかもしれませんが、物語としては「続かない」のかもしれません。
同じことは、人類全体の何万年もの歴史についても言えます。たとえばわたしたち日本人は縄文人から弥生人を経て、平安鎌倉室町といった「歴史」が連綿と繋がっていると思っています。
ぼくたちには先祖がいて、そのたくさんの先祖から今のわたしへと繋がっていると考えていますよね?
ところが科学的には、質量保存の法則がありますから、常に地球上の構成元素の量は同じで、あっちやこっちに瞬間瞬間存在するだけです。
織田信長を構成した元素は、いまあなたの鼻のてっぺんくらいにあったりするわけです。だから織田信長がいたという歴史は、物語としてはそうですが、科学的には、あなたの鼻にその元素が巡ってきていたり、京都の土にまだ埋まっていたりするわけです。
歴史は物語として存在するだけで、それを形成した元素は、瞬間瞬間どこかにバラバラにたった今存在するだけであり、1000年前も現在の一瞬もそれほど違いません。今ここにある、おなじ元素なのです。
けれど、わたしたちは物語としてしか認識できないので、誰も「俺もお前も信長だ」とは思わないのですね。
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さて、解脱者ムコガワは、「システムが先にあった」ということを主張していますが、このセカイに生きている人は物語としてセカイや宇宙を知覚していますから、どうしても感情論に傾きがちです。
無感情で無機質なシステムが先にあって「感情や理性を持った神」は後付である」ということは、物語には反しますから、なんとなくですがよくわからず、理解できないのです。
むしろ、「感情や理性を持った神が、無機質なシステムを創造したのだ」と考えがちです。どうしても理性のほうが、無機質なシステムより上位で偉いと思ってしまうのですね。
ほんとうは逆なのだけれど。
本当のことを結論から言えば、先程書いたように、「システムが知覚機能を動かしている」のが先で、「その知覚が、より生存に適した環境を求める判別プログラムが感情や理性という物語で説明されている」のが正しいのですね。
そこで、今回は面白い哲学的思考実験をしてみましょう。
それは「愛」をどのように生じさせるか、という科学実験です。
これまた本当の結論からいえば、愛とはシステムが遺伝子を残すために望ましい行動を取るためのプログラムに過ぎません。
けれど人間は、愛を崇高で、無機質なシステムなどではない、という物語を信じています。
今日は解脱者がそれを突き崩す実験をしてみよう、というわけです。わらい。
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「愛」は知覚機能が先にあって、後付に過ぎない、というのがこの実験の骨子ですが、それではみなさんからまず知覚を奪ってみたいと思います。
■ 目が見えない
■ 耳が聞こえない
■ 触れてもわからない
■ 匂いも感じない
■ 味もわからない
という五感の知覚が失われた状態をイメージしてみてください。
この状況で、あなたは誰かを愛したりセックスしたり、できるでしょうか?
まず、見えませんから異性とどのように遭遇するかという問題が生じます。
もちろん、目が不自由な方も恋愛はできますし、愛情を抱くことはできるでしょう。けれど、ほかの知覚がそれをサポートしていることが、だんだんとわかってきます。
見えない、聞こえない、人の動きを肌で感じることもできない、匂いもない、味もわからない。この状態で異性に出会うにはどうすればいいでしょう。あるいはセックスするための生殖器を探す、探り当てるということを考えてみてください。
……ね?非常に難しいことがわかるでしょう?
そうすると、私達がふだん異性を感じたり、その対象に対して「好きだ」「愛している」と思うのには、知覚的要素がものすごく重要だとわかると思います。
■ 容姿や声
■ しっかりした手、やわらかい体などの触覚
■ 香り
などなど。さすがに「私は異性の、あの味が好き」という変態は少ないかもしれませんが、たいていの場合「好き」とは知覚システムが先なのですね。
ましてや触覚すらなければ、性行為を行いたいということすら思いつかないかもしれません。そこに快も不快も、何も存在しないのですから。
今回の思考実験では、意思疎通もできません。システム上シャットアウトされた状態では、恋も愛も生まれないのです。
逆に言えば、わたしたちは知覚をすべてシャットアウトされた異性を好きにはならないでしょう。
喋らず、こちらを見ることもなく、聞いてくれることもなく、触れることもできない、味わうこともできない相手のどこが好きですか?あなたという存在を無視し続けるだけの異性がいたとして、その人のどこを好きになることができるのでしょう。
あなたも、同じく目隠しされ、鼻栓・耳栓・猿ぐつわの上、寝袋でぐるぐる巻きにされた状態で、どうやって異性がそばにいることを知覚できるでしょうか。
この二人は、永遠に出会うことすらないのです。
ということは、わたしたちが思い描いている「愛」とは、基本的には知覚システムをどのように「物語として捉えるか」に過ぎないことがわかるのです。
オスとメスは、互いの知覚的接触が「快」であるようにプログラムされていて、そのシステムに基づいて動いています。それを「愛」という物語で理解するようになっているということです。
このように、人にとって最も崇高であるはずの「愛」ですら「知覚を物語に置き換えたもの」であることがわかると、おのずと「神様の作り方」もわかってくるでしょう。
それは宇宙やセカイのシステムを「なぜそうなっているのか」を物語で置き換えたものなのです。
現代人こそ、システムをシステムのまま、「そういうものが動いている」とリアルに近い物語化で認識することができます。(それでも電子の位置を円周上に置き換えないと理解できないくらいは、物語を欲しているのです)
古代人にとっては、システムをシステムのまま知覚することはたいへん難しいことで、人や動物の動きなどに置き換えて理解するほかはありませんでした。
そうして神が出来上がっていったわけですが、「神は理性を有している」といった物語性がないと納得しにくいのは、まだまだ人類が発展途上だからかもしれないですね。
逆に言えば、人は物語を操って生きています。他者に対してもそうで、自分に対してもそうです。自分で、自分のために物語を操ることができる人こそが、もしかしたら幸せな人なのかもしれません。
(おしまい)
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