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結局、私たちは他者を受け入れられない


 以前に、このnoteで「寛容さの限界とリベラルの限界」という記事を書いて、今後の西洋社会、日本社会は「修正リベラル主義」のようなものが進んでゆくだろう、と推測した。

 この「修正リベラル主義」とは、「自由・平等・博愛」が無条件に”善”とされるのではなく、一定の制限がなんらかの形で加わったり、「俺たちの間では自由・平等・博愛だけれど、お前とは違う」という形になったりするのではないか?という話であった。


 その世界的なリベラルの潮流については、作家の橘玲さんは「リベラル主義はとことん進むが、その大きな反動が出現する」という考え方を示しておられるので、そちらもぜひ読んでいただきたい。

https://diamond.jp/articles/-/292579


 この「リベラルは軌道修正される」という予想と、「リベラルには反動が起きる」という予想は、厳密にはちょっと方向性が違うのだが、少なくとも2022年や2023年ぐらいの直近に起きることについては、ほとんど誤差の範囲くらいで「同一である」と考えてよいだろう。

 いずれにしても、今までのままのリベラルがそのまんま通用しない、ということは押さえておいたほうがいい。その修正が「一時的で終わるのか、恒久的に変化するのか」は、ここ1〜2年では簡単に判別できないからだ。


 橘玲さんの予想では「リベラル化・グローバル化・知識社会化」がより進むという。そしてそれに対する暴力的な反動があちこちで起きるわけだが、私はより悪い方向性において「非リベラルで、非グローバルで、非知識社会な弱者(橘的には『下級国民』)な人たちが

”実はおなじ一票を持っている”

ということがどちらに転ぶかに注目しているのだ。

 たしかに、リベラル社会、グローバル社会、知識社会が進めば、下級国民であり弱者なピープルはどんどん取り残されてゆく。しかし、政治制度において、弱者な下級国民が、強者の上級国民より多勢であり、かつおなじ価値の一票を持っていることに気づいたとき、大逆転が「理論的には」可能なのだ、という点に興味を持っている。

 もちろん、弱者で下級国民はアホなので、連帯できないし、強者をひっくり返すような「フランス革命」めいたことはできないだろう。しかし、大衆ポピュリズムぐらいは実行可能なので、その意味でろくでもない社会へ変革することはできるのではないか、とも思う。

 もちろん、その社会は幸せで平和で安全なものではないが、「ちっとばかりは強者を引きずり下ろしたり、キャンセルさせることができる力」くらいは残っているのではないか?とも思うわけだ。

 まあ、こんな話ははるか昔に「資本論」でマルクスが語り済みなので、このあたりでいったんおしまいにしよう。


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 さて、リベラル化がよりいっそう進むにしても、少しの制限が加わるにしても、「自由」を求めるということは「わたしの自由」「俺の自由」を求めるくらいのショボイ話に終始せざるを得ないだろう。

 それは決して、「相手の自由をも守るべきだ」とは、ならないものである。

 その意味では、旧来のリベラルは(何度も言うが)限界を迎えている。


 さて、

https://toyokeizai.net/articles/-/478985

「多くの人はアラブの春を大きく勘違いしている」という東洋経済の記事は、一読に値する。ぜひ読んでみてほしい。

 中東で始まった「アラブの春」は、何も知らない私たちからすれば「ようやく中東も民主化し、自由化するんだろうな」という誤解を生じさせた。

 しかし、彼らが求めていたのは、全然そうではなく、「イスラム教に準じるという自由を俺たちによこせ」ということだった、という話である。


『人類みな平等、は世界の共通認識ではない』

『アラブの春、とは民主主義を敵とみなすことだった』

『公正であるとは”異教徒や奴隷にはそれにふさわしい公正がある”ということだ』

『アラブの春では、ジハード戦士の多くが自由の身になった』

『主権は民にあるのではなく、神にあるのだ』

『話せばわかる、ということはない』


 次々に繰り出されるショッキングな言葉は、アフガンからアメリカが撤退した今なら、その意味がよくわかるだろう。

 中東は、ようやく西洋的民主主義リベラルから「自由」になったのだ。


 そうすると、西洋的リベラルの意味は、ある種の大きな方向転換(転進)を迫られるだろう。これまでは

「人類はみな、互いに自由で平等であらねばならない」

と思っていたグローバルリベラルが、前方向に進むものだったとすれば、斜め右に方向転換するわけだ。

「俺もお前も、互いに自由で平等であるから、好きにしろ。俺も好きにする」

という方向である。だからアメリカはアフガンから脱出して、好きにしろ、と言ったわけだ。

 おもしろいことに、これは自由と平等の否定ではない。むしろ自由と平等を突き詰めれば、「キリスト教を信じる自由」もあるし、「共産主義を信じる自由」もあるし、「イスラム教を信じる自由」もあることになる。

 「男尊女卑を守る」自由もあれば、「忌避食物を食べない」自由もある。

すべてはそれぞれの自由であり、それぞれ平等なのだから。


 このことは、また逆に言えば「僕たち、私たちは、他者を認めない」ということに直結する。

 『他者を大いに認める』ということは、『他者を大いに認めない』ということと全く同じなのだ。

 つまり、「おまえとわたしは、絡まない。からみたくない」ということでもある。

 その意味では、これまでは執拗に、異なる文化の人たちに「キリスト教的、自由平等男女同権」を押し付けまくっていたわけだから、別に悪いことではないのかもしれない。


 2022年の年頭において、これからの社会における身の処し方を考えるのであれば、覚えておいたほうがよいことがひとつだけある。それは

「他人は、あなたの考え方と同じではないかもしれない」

というただ一点である。

 だから、「きっと相手はこうだろう」という予測は、やめておくことだ。自由と平等がより進めば、相手はあなたの思い通りには、ならないからである。

 そして、この年頭にもうひとつ、覚悟を決めてほしい。それは、他人がわからないのであれば

「わたしはこう思う、こう生きる」

ということをより明確に意識していかねばならない、ということである。

 今まで漠然とほったらかしにしていた、あなたの意志が、これからは常に試されるだろう。なぜなら

「あなたは自由だから」

である。


(おしまい)

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