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舞台「ハザカイキ」レビュー ──みんな半端者、だから赦し合える。

※本レビューはネタバレを含みます。
※めちゃくちゃ長いため目次をご活用ください。

※セリフへの言及もありますが、記憶を頼りにしたもののため不正確な可能性もあります。ご了承下さい。

「ハザカイキ」
劇場:THEATER MILANO-Za/森ノ宮ピロティホール
主催/企画・製作:Bunkamura
作・演出:三浦大輔
出演:丸山隆平、勝地涼、恒松祐里、さとうほなみ、九条ジョー、米村亮太朗、横山由依、大空ゆうひ、風間杜夫、日高ボブ美、松澤匠、青山美郷、川綱治加来他
期間:東京 3/31〜4/22、大阪 4/27〜5/6

公式HPより


舞台「ハザカイキ」を観劇した。

公演前にポスターやホームページ、出演者や演出の三浦大輔さんのインタビューを読んで抱いていた印象からは、いい意味で裏切られた作品だった。

物語の舞台は芸能界。
登場人物も業界人や彼らを取り巻く人々ということで、私のような一般人には想像し得ないような業界の裏側の世界やそのドロドロした部分を描いていくのかと思っていた。

しかし実際は、それらの「芸能界」や「記者」「タレント」「SNS」という要素はあくまで分かりやすくそこに存在しているだけで、作品の根幹にあるテーマは現代を生きる人間全員に当てはまるものだった。

生きていく上では避けて通れない、他人との関わり合い。その中でどうしても生まれてしまう、互いのすれ違いや摩擦。小さな摩擦だったはずが、少しのキッカケで大きな炎となり日本中に燃え広がる。そんな現代ならではの出来事を中心に、人々の葛藤を描いていた。


演出の三浦さんは本作をについてこう言っていた。

「人が人に謝り、人が人を赦すことに関しての物語」

『ハザカイキ』Bunkamura公式ホームページ

謝るとは、どういうことなのか?
赦すとは、どうなることなのか?
なぜ「許す」ではなく「赦す」なのか?

本レビューでは、言葉の意味そのままの「ごめんなさい」「申し訳ない」「いいよ、許します」の謝罪と許しではなく、現代における人と人との関わり合いの中で、謝ること/赦すことがどういう意味を持つかについて考えながら、本作を振り返りたい。

■みんな人間の途中─登場人物について

本題に入る前に、登場人物のキャラクターを振り返る。
本作では、全員が善人とも悪人とも振り分けることのできないような、人間らしい泥臭さや曖昧さを持っていた。

・菅原裕一

フリーの記者。
元々は正義感をもって悪事に一石投じる政治記者を目指していたが、それだけでは収益を上げられず?芸能記者になった様子。

基本的にマナーやモラルに欠けており、タバコはほとんどポイ捨て。仕事においても、取材内容はおろかリーク主の名前や職務情報まで、居酒屋(しかも個室でもない)で親友の伸二に教える始末。

その親友の伸二には高校時代に告白されているが、「お前勃起してね?」「お前のこと暴露したらどうする?(股間を覗く)」などとたびたび揶揄う様子が見られた。スナックでも「こいつ(伸二)、女に全く興味ないねん(笑)」と出会ったばかりのヒカルに話しており、伸二のセクシャリティーに気を遣う様子は全くない。

休みの日にはサウナにばかり行っており、同棲している彼女の里美には、夕飯の用意が要らない旨も出発間際に言い残すのみ。しかし、夜遅く里美が寝ている中帰宅した際、なるべく物音を立てないようにしており、その程度の気遣いはしている様子
里美とは交際期間が長いこともあってか、比較的リラックスした空気感で接していて、スキンシップが多くラブラブさが際立つ加藤勇・橋本香カップルとは良い対比になっていた。

劇中、菅原は2度水に濡れる。
第一幕のラストで浩二のゲボ(水)を被るシーンと、ラストシーンの大雨だ。
ゲボを浴びた後に芸能記者としてはある種大手柄を挙げた菅原は、最後の大雨によってゲボごと心の中の葛藤も洗い流されているように見えた

スナックのアケミから神経質に守っていたカメラも、ラストシーンでは気にせず地面に置きびしょ濡れにしていたことから、この後の菅原は芸能記者を辞めるんじゃないかと、個人的に思っている。

余談。

終盤セクハラ変態記者として世間に叩かれる菅原。
もちろんセクハラは断じて許されないものだと思うが、ただの1人の芸能記者があのように世間に袋叩きにされていい理由もないように思えた。

リーク記事を書いた後輩記者の川綱は

「この頃テレビもこぞって自身の検証番組やってたじゃないですか?」

「週刊誌もこういった記事を書くことが、時流にふさわしいかと」

舞台『ハザカイキ』より

マスコミのアピールのために記事を書くことを正当化し、テレビの中のコメンテーターもマスコミが自浄していくいい傾向だと評価した。

ジャニーズ問題でSTARTO社やそのタレント達に厳しい姿勢をとり、これまでマスコミが勝手になんとなく空気を読んだことで廃除されていた退所タレント達を、ここに来てこぞって起用しているメディアの現状と重なって見えた。

そして、その渦中にいる人物を丸山隆平に演じさせる。しかも当て書きで。なんともチャレンジングな構図に三浦監督の想いや気合のようなものを感じた。

・鈴木里美

菅原と8年交際している彼女。
寝ている菅原のことは全く気にせず、隣で爆音のドライヤーを使用している様子から、菅原とは気を遣わずに過ごせる関係性と伺える。
テレビに流れる加藤と香のLINEに野次を飛ばしたかと思えば、菅原のモラハラには厳しく、LGBTQには理解を示す。
モラルや時代の価値観に正しくいたい/気をつけたい自分と、根底では変わりきれていない自分が同居している。

今話題の美人タレントである香を持ち上げたかと思えば、加藤と香のスキャンダルが出た後は手のひらを返すように茶化す様子からは、大衆的でミーハー、流されやすい印象があった。

ただ、個人的には、年齢(推定)や価値観への移ろい方などが1番共感しやすいキャラクターだった。

クッションを投げられただけでモラハラ!と叫ぶ姿は、客観的に見ている分には確かに異常に感じられたが、たとえ上辺だけでも新しい価値観をいち早くインプットし時代についていこうとすること、それ自体は全く悪いことではないと思うし、私自身も同じように心がけていたからこそ、彼女の言動すべてが他人事には感じられなかった。

・今井伸二

菅原に想いを寄せる親友。
香をリークした裕子を「SNSならまだしも、よりによって週刊誌にリークなんて…」と言ったり、タバコのポイ捨てや食べ残しなどを度々菅原に指摘(ふざけつつ)している様子から、菅原のモラル感とは対の感覚を持っている。

菅原のサウナによく付いて行っていたが、実のところ伸二は「水風呂シングル」の意味も知らないし、サウナグッズも一切持っていない。このことから、伸二自身はたいしてサウナにハマっておらず、菅原に付き合っているだけ(一緒にいたいだけ)と考えられる。
菅原がロウリューの真似事をしながら腰を振っていたシーンでは、よく見ると伸二は菅原の下半身を凝視しており、そういった下心もあったと思う。

彼は、自分が同性愛者であることに対して、他人から「理解のあるフリ」をされる事を嫌い、世間への理解を求める他のマイノリティと一線を引いていた。
終盤のシーンでは、そんな自分を"解ったフリ"をしていたと謝罪したが、最終的には"全く理解のあるフリをしてこない菅原"と一緒にいることを選んだ彼の様子から、謝りはしたがそれも本音なのだと思う。

客観的に見て、価値観も異なり恋も成就しない菅原との関係は残酷すぎるんじゃないか?と感じられるが、彼にとって「菅原と一緒にいること」がそれほどに重要なのだと分かる。


ちなみに、里美と伸二には共通する台詞がある。

橋本香のスキャンダルを追う菅原に対して放った、

「すぐ、そうやって芸能記者の顔になるよね(よな)」

舞台『ハザカイキ』より
里美:冒頭の菅原自宅シーンにて/伸二:居酒屋シーンにて

という台詞である。

ここから、2人は菅原の表情を読み解く点、菅原への理解度は同じレベルにあったと分かる。

しかし、里美は菅原と同じ感覚の持ち主で、菅原がモラル的にグレーな発言をしている時に同じくらいグレーな発言ができる。また、記者活動に対しては比較的懐疑的で、でも分からないなりに「どんな気持ちなの」と解ろうとしていた
対する伸二は、解ったフリをしながら一緒になって裕子達を茶化していたが、結局はフリでしかなく、菅原と同じ感覚で話すことはできない。

2人のこの違いが、菅原にとって今後どんな存在になれるかを別つポイントになっていたように思う。

菅原が怯えながら真っ先に電話したのは里美だったし、伸二に電話した際も「里美が実家に帰っちゃって…」と里見の2番手にしかなれなかった。

・橋本香

観劇の記憶をほとんど掻っ攫っていった香。

最初のシーンこそ、彼氏と仲良しで愛嬌のある清純な女の子のイメージとして描かれていたが、加藤とのスキャンダルをきっかけに、彼女の打算的で、ある種人間に対して冷めた目で見ているような一面が垣間見えた。

香は当初、おそらく無意識的に“他人から向けられるイメージに敏感“だった。それはよくある○○に見られたら嫌だな…ではなく、自分に対してどういうイメージ持たれているのか、を個人としても仕事としてもちゃんと分析したいタイプだったからだ。

同時に、他人の言動とその裏に抱く"どう見られたいか"という感情にも敏感な人間だった。

加藤を好きになった理由も、よくある優しいだとか価値観が合うだとかの単純なものではなく、「令和ぽくないところ、なんでも笑いにできる感覚、どんなときもふざけられるセンス、抜け感…」と、恐らく加藤自身からは褒められている気がしないような、核心をついた言葉を並べた。

彼女は元々、人間が外側に纏うイメージや表に出す感情ではなく、根っこの普遍的な部分を感じ取ることに長けていた。
そんな彼女だからこそ、観客を一気に当事者に巻き込むあのシーンを任せられたのだと今になると分かる。

スキャンダルの渦中にいて世間の心無い声を目の当たりにしたことで、そんな自分の思考も自覚していくことになる。

雑誌インタビューのシーンで香は

「価値観をアップデートしていくことですかね」
「時代に流されないことですかね」

と答えて、田村に修正される。

初見では、適当なそれっぽい回答をしたから矛盾したように見えたこの台詞だが、観劇後振り返るとどちらも正しくどちらも持つべき感覚なのではないかと思えた。そんな鋭い感覚の持ち主。

・加藤勇

シャバ僧脚長アーティスト。

恋人の香からは

「抜け感」
「真面目ぶらず、自分の考えを押し付けない」
「どんなことも笑って冗談にしてくれる」
「誰に対しても逃げ道をくれる」
「お父さんと似てないから好きだった」

舞台『ハザカイキ』より引用

と評価されていたが、これは浩二への批判と同時に、現代(と現代を生きる人々)への香なりのアンチテーゼのように聞こえる。

多様ではあるが、新しい価値観を取り入れることでルールも増えガチガチになってしまいがちな社会。
例え冗談だとしても赦してくれない、言葉狩りの社会。
1つのミスも逃さない世間。
そんな現代と相反する加藤は、昭和の人間である浩二とは別の意味で令和っぽくない人物として描かれていた。

個人的に彼のキャラクターは比較的好感を持てた。
カッコつけている際もカッコつけようとしてつけられなかった際も常に自然体のようで、しかも素直に「やっぱ俺シャバいわ」と弱音を吐ける。

実際のところ彼には重大な秘密(犯罪)があったわけだが、それを除けば世渡り上手な愛されやすいキャラクターなのではないか。

ちなみに。
結局何の犯罪を犯したのか分からない加藤。
誰かを会っていたところを裕子に盗撮されていた点から密売などが絡む内容だろうと推測されるが、彼が犯罪に絡んでいると明かされるシーンで背中の入れ墨を観客に見せる演出は安直にも感じた。(入れ墨=犯罪者ではないので)

・野口裕子

無駄に行動力のある裕子。

誰しも周囲の人間を羨ましく思ったり、それが妬みや嫉みに変わってしまうことはあるだろう。
しかし、その気持ちに歯止めが効かず、安易に週刊誌にリークしてしまった裕子はあまりに軽率だった。

彼女の地下アイドル時代にどんな苦労があったかは描かれていないが、アイドルを諦めて声優の養成所に通うなど、仮にも業界人を目指しているにも関わらずギャラ飲みに参加したり、そんな自分の素性を明かして菅原にリークしたりと、裕子には常に軽率さが垣間見える。

菅原に連絡がつかず電話口で怒鳴り散らした後も、いざ当人を目の前にすると「私こそすみません、急に呼び出して…」と弱気になっていたりと、その場その場で自分の感情のまま行動している印象。

個人の意見や、尊厳を主張しやすくなった現代。
裕子のような人間も少なくないはずだ。

・橋本浩二

THE 昭和のオヤジな浩二。
ハラスメント上等な発言ばかりで、観客もおもわず笑ってしまうほどだった。

彼は田村との騒動をきっかけに変わろうと決心するが、それ以前から自分の傍若無人さは自覚しており、反省する様子も見られた。

加藤を呼び出し、交際に釘を刺したシーン。
泥酔しふらつきながら帰路につく浩二は、田村に「香…嫌だったろうな…」と弱音を吐いていた。

本音では自分が正しくないことをしていると分かっていながらも、そんな自分を変える勇気が出なかった。そんな経験は誰にでもあるんじゃないだろうか。

浩二は悪意なくやってしまっていた言動だからこそ、振り返り反省し、変わろうと決心することができた。

・橋本智子

核心をつく台詞が多い智子。

「世間なんて個人の集まりでしかない」

「世論なんて個人の意見の多数決」

「擁護の声も心からの声に聞こえなかった」

「自分がその意見を言うことでどう見られたいかを気にしてるように見えた」

舞台『ハザカイキ』より引用
スナックでスキャンダルに落ち込む香を慰めるシーン

「人間の本性なんてモヤがかかったみたいに曖昧なもの、他人が抱くイメージとは重なりあわない」

「振り子みたいに善と悪が行ったり来たり」

舞台『ハザカイキ』より引用
加藤の事件で落ち込む香を慰めるシーン

かつて浩二のスキャンダルによって、自身も世間からさまざまな視線を向けられた智子は、人間や世間の曖昧さや未熟さを見抜いていた。

そして自分も同じく未熟であると、おそらくは随分前から自覚していた。
劇中で浩二や香、ヒカルやアケミとの関わりの中で、その本音を口に出して謝ることで本来の意味でそんな自分を認めることが出来たように見えた。

・アケミ

明るく気さくなホステス。
一見誰にでも好かれそうで、他人に謝らなければならない秘密や本性などなさそうな彼女。
彼女は、現代にはびこる無意識の加害を体現するキャラクターだったと思う。

菅原と伸二が、怪我をした香を追いかけ初めてスナックにきた際、唐突に伸二の胸筋を揉み「週一の筋トレでこれはポテンシャル高いよ!」と勝手に評価をする。
このシーンは第二幕で菅原がヒカルの胸を触るフリ(ポーズ)をし、その時の写真で「セクハラ変態記者」として炎上する流れの対比として描かれている。

後に泥酔した菅原が「男は女って言ったら怒られる、女も"男性"って言え」と言っていたように、現代において男女を取り巻く状況は平等ではなく、劇中菅原のセクハラは問題視されたがアケミのセクハラは軽く流される。

なぜなら、ヒカルは不快に感じ、伸二は不快に感じていなかった(と思われる)からである。

個人的には、昨今のハラスメントに対する「相手が不快に感じたらアウト」という判別方法はあまりに雑で容認できないと思っているが(言いたい放題になるため)、本作のテーマでもある"赦し"においては、相手がどんな価値観なのかや、ルールや建前は抜きに人と人として関わる上で相手を赦せるのか否かが重要であることから、ヒカルと伸二の価値観の差が、この2つの違いを生んだのだとも考えられる。

余談だが、スナックで彼女が歌ったAdoの《新時代

歌詞の《新時代はこの未来だ 世界中全部変えてしまえば》《ジャマモノ 嫌なものなんて消して》は、現代の 気に入らない物や価値観の合わないものは袋叩きにし消していく様を皮肉しているように聴こえた。

・ヒカル

正しいようで、正しくないようなヒカル。

加害者による被害者を生まない為だと、他人による制裁を正当化していた。
不倫をしている店の客を"加害者"とし、悪人である加害者を制裁し陥れるためなら、どんな行為も正義にしてしまうような危うさがあった。

不倫をした客も、されている妻も、ヒカルにとっては他人のはずだ。2人の間にしか分からない事象もある。
例えばかつての浩二と智子のように、最初に不倫をしたのは妻の方だったかもしれない。客は報復として一回だけ不倫を見せかけて、妻を反省させたかっただけかもしれない。

確かに不貞行為は良くないし、基本的に許されるべきではない。しかし事実の向こうにある理屈や背景を知りえない他人が、一方的に制裁を加えることは、はたして正義なのか?私はそうは思えなかった。

ただ、ヒカルがあのような考え方になってしまったのも理解できる。"学校でいじめられていた妹が自殺した"という過去から、ヒカルは人(加害者)を赦すことができなくなっているのだと思う。

恐らく、妹をいじめた"加害者"への怒りや憎しみは、ヒカルの心の中にトゲのように深く刺さり残り続けている。加害者がいて被害者がいるという構図は、妹の件と重なり、ヒカルの行き場のなくなった怒りの矛先となってしまう

何かのきっかけでいじめ加害者を赦すことがない限り、彼女の怒りは消えることはないのかも知れないと感じた。

■時代は周る─物語の流れ/舞台転換

中島みゆきの《時代》が流れ、《まわる まわるよ 時代はまわる》と聴こえた時、多くの観客が(舞台も回ってるな…)なんて冗談めかしく考えたんじゃないでしょうか?

たった1つの劇場の中で、まるで映像作品のような場面転換を魅せた本作。主演の丸山さんも大千秋楽の挨拶では「重労働でしょ?」「色んなドラマがありました」と、その過酷さに言及していた。

本章では劇中の舞台装置と場面を照らし合わせながら振り返る。

劇中では4つの装置を使って、かなりの数の場面/場所を表現していた。

下手:香自宅/香自宅 玄関/事務所
上手:菅原自宅/スナック/カフェ
:歩道橋/しきじ付近
センター:サウナ/居酒屋/カラオケ/警察署前/街中/会見会場 etc

備忘録も兼ねて舞台転換の大まかな流れを記す。不要な方は飛ばしてください。

基本的に、下手側にある場面は香や加藤など世間に見られる側の人間達のシーンが多く一方で上手側では里美や菅原など所謂世間側によるシーンが繰り広げられていた。

橋本家の3人は下手と上手を行き来することがあったが、菅原や伸二などの一般人が下手側に行くことは全く無い。
このことは、業界の人間が世間を知る/世間の中にいることがあっても、その反対はないことを示しているようだった。

物語は基本的に舞台・セットの中で展開されていたが、終盤の香の謝罪会見のシーンのみ、香の視線は客席に向けられ、記者やカメラマンは客席に降りてくる。

演出の三浦さんは、インタビュー等でこの"謝罪会見"を演劇でやりたいという想いから本作を執筆したと答えている。
そんな肝となるシーンで、物語と現実(観客)の境界線まさにハザマがなくなる演出には、三浦さんの"ハザカイキの物語や登場人物、起きた出来事を他人事とは言わせない”という強い念を感じることができた。

■小道具/セット

・菅原の自宅

彼の自宅は、きれいに片付けられた香の部屋とは対照的で非常に生活感に溢れていた。
キッチンのコンロの油跳ね防止パネルや、冷蔵庫の上のふりかけや調味料。冷蔵庫や玄関横など目につく場所に掲示された郵便物、ベットの下の収納ケース。壁にかけられたサイズの違う2人のジャケット。テレビの上の棚にあるDVDや本。

これらは菅原と里美の同棲期間の長さや、どれだけ互いを理解しているかを(それだけの時間があったか)を示していた。

そんな中、並んだDVDの中には「ゴットファーザーパート1」や「ストリートオブファイヤー」などの有名作品と共に、たったひとつ(おそらく)存在しない作品が含まれていた。

真っ黒な無地のパッケージに書かれたタイトルは『男ともだち』
背表紙にはタイトルと共に「連続木曜ドラマ」「最終回」とだけ書かれていた。

これは、作中後半で伸二と菅原の関係性が見えてくることや、その関係性が危うくなりかけることを示唆していると思われる。

・カフェ

菅原がたびたび取材の面会で使っていたカフェ。
店名は“Cafe Verlet"だった。
実はフランスのパリに同名の有名なカフェがあるのだが、あえて今回はそこではない由来の可能性に言及する。

GoogleでVerletと検索すると、ドイツ語で“傷つく”の意味だと表示される。
※正確にはverletz

Google翻訳

裕子が香を陥れるためにリークをしたのも、川綱が菅原の人生を変えてしまうような記事を見せてきたのもこの場所だった。まさに人が傷つき、傷つけられるカフェ。

フランスの実在するカフェverletと、ドイツ語のverletzを掛けた監督の遊び心なのかも知れない。

・タバコ

本作の登場人物は喫煙者が多い。
また、その全員が今どき珍しく紙タバコを愛煙していた。

  • 菅原 ・・・ㅤㅤ マルボロメンソール

  • 智子 ・・・ㅤㅤ ラーク

  • アケミ ・・・ㅤㅤ アメリカンスピリッツ ライト

種類に明るくないため、銘柄による違いは読み解けないが、3人とも他の誰も吸っていない中で1人タバコに火をつける。あまり周りに気を遣っていない性格or気を遣わなくていい間柄であることを示していると考えられる。

ちなみに、劇中で主人公の菅原は計11本のタバコをふかす。
タイミングは自宅にいる際や、伸二と居酒屋やスナックにいるリラックスタイムの場合と、張り込みをする際やスクープ写真をとれた後、また自身のセクハラ記事を書かれると分かり自宅で怯えている際などの緊張状態の場合でおおまかに2パターンある。

・シーシャ

多くの喫煙キャラクターがいるのに対して、1人だけシーシャを吸っていた加藤。
最近の大学生〜30歳くらいまでの若者には馴染みのあるアイテムだろうか。

シーシャは所謂"水タバコ"だがそもそもニコチンの含有量は少なく、しかも最近はニコチンの入っていないフレーバーも存在しているため、単純にタバコの代替品というわけではない。
また、嗜む際に深呼吸をするように深く吸って吐いてを繰り返すことから、自律神経のバランスを整えリラックス効果があるとも言われている。

つまり、ニコチンを味や香りと一緒に嗜むためだったり、ファッション感覚の人だけでなく、それなりの理屈を通過した上でリラックスを求めて吸う人間もいるという、実に令和らしいアイテムだ。

加藤は、関ジャム(EIGHT-JAM)ぽい!と言われて、ダサいじゃんと嫌がっていたり、仲直りの際に格好つかずシャバいと自虐した様子から、中身のないカッコつけは嫌い、同時に真面目に物事を語ること‪もダサいが、格好つけるべき時には決めていたいという心理が見える。

令和っぽくない”と言われていた加藤にしては、寧ろ反対で令和の若者らしいアイテムを用意することで、加藤のそんな天邪鬼な一面も表現しているように感じられた。

■謝ること、赦すこと。


本作における、謝ること/赦すことの本質はなんなのか。
結論から述べると、私は
謝るとは【自分の気持ちやその背景を曝け出すこと】、
赦すとは【相手にを理解し、歩み寄り尊重すること】
であると感じた。

まず、「許す」ではなく「赦す」である理由を考えた。
辞書を調べると…

許す:相手がしたいようにさせる。まかせる。

赦す:過失や失敗などを責めないでおく。とがめないことにする。

デジタル大辞泉
※他にもいくつか定義あり

と、ある。

観劇した方なら、なぜ後者が使われているのかはもうお分かりだろう。
本作における赦しは、前者のような相手の行為を野放しにし自由にさせたり水に流すことではない。まさに後者の、行為や過ちは消えないがそれ以上"相手を責めないこと” “受け入れる”ことであった。

この許しと赦しの違いを意識しながら、劇中の登場人物達による謝罪シーンの数々を振り返りたい。

・香と加藤

本作で、最初にきちんと謝罪が描かれるのはこの2人。
携帯を見てしまったことを謝る香と、
怪我をさせてしまったことを謝る加藤のシーンだ。

この謝罪の段階では、2人は本音を曝け出していなかったと思っている。

香は普段からスマホのパスワードに探るほどに本音では加藤を信用していないし、加藤も違うと言っていたが実際ギャラ飲みに行っていたのかどうかなんて分からない。(犯罪行為も隠していたし)
だが、2人とものそのことに言及はせず、ただ今回における罪、携帯を見てしまったことと怪我をさせたことだけについて謝っていた。

それゆえに、後半に加藤の犯罪が明らかになった時は、香は自分の知っている彼のイメージとのギャップに苦しむこととなる。
2人は本当の意味で互いを知り・理解できていなかったのだと思う。

・智子から浩二

かつて自分がした不倫と、それに対する報復不倫がスキャンダルとなり芸能界を追われてしまった浩二への謝罪のシーン。

智子の場合、「私の人生が正しかったって思いたい。だから謝ったのよ。」の台詞からも分かるように、浩二に赦されるためだけではなく自分自身を赦すためにも謝っていた。
娘である香にも隠し事をしていることは、智子の背にずっと十字架となってのしかかり続けていた。そんな十字架を少しでも軽くするために謝った。

また、それと同時に、そんな自分の姿を浩二に見せるためにも謝ったようにも見えた。
娘や他人から見える自分を偽ることに葛藤し、スナックの従業員ヒカルに「老害」と罵られた智子。
浩二が古い価値観を変えられずにいることに悩む姿を見て、自分も同じだと共感し正面から向き合い謝罪することで、"私も同じ" "お互い様"だと示すことで浩二のことも赦したように感じられた。

・裕子から香

香のスキャンダルを週刊誌にリークした裕子。

そんな行動を取らせてしまった私が悪い…と自分を責める香に、「都合のいい理屈だね!」と感情を爆発させていた。
裕子は謝罪しながらも「親友がただの妬みや嫉みだけで人を陥れようとするなんて信じたくないよね」「言い訳なんてない、都合のいい理屈もない」と、“自分のしたことの背景やその感情に至った経緯はない”と言い切った。

泣きながら謝罪する裕子の姿は、一見自分の気持ちを赤裸々に曝け出すようにも見える。しかし、恐らく香はそれでは納得できなかったのではないだろうか?

これは、終盤の香の謝罪会見の考察でも触れるが、
香は自分のことを「他人よりも自分に与えられたイメージに合わせるのが上手い、そういうコツを掴んでいる」と言ったように、常に"自分がどう思われているか" "周囲が何を感じているか"を敏感に察知できる/しようとする人間だった。

そんな彼女からすると、理由も背景もなく「妬みや嫉妬」といった感情が突然現れることは考えにくく、裕子の謝罪は説得力のない、ある種開き直りのようにも聞こえるのである。

裕子の説明不足な謝罪では納得ができないと体感したからこそ、後の自分の謝罪会見では全てを説明するというやり方をとったのだろう。


個人的には、裕子の言いたいことも分かる。

もちろん裕子の妬みや嫉妬には、香が売れていく様だったり加藤との交際、対して自分の売れない状況が理由にあっただろう。
ただ、それを打ち明けることを裕子は「都合の良い訳」にしかならないと考えた。だから、彼女は理由なんてないと言い切った。

これは自分の本音を隠す行為であり、同時に相手に理解してもらうための材料を与えないことになる。
そんな裕子の謝罪は赦されることを放棄していたとも受け取れる。

裕子の言葉「(リークや誹謗中傷が)SNSでは当たり前の時代。違うね、ありふれた時代。」にもあるように、現代ではSNS等で世間による"私刑"が頻繁に行われる。
心無い言葉や、行き過ぎた批判・追求をする人々は揃って「あんな悪いことをしたんだから仕方ない」「あいつはそういうやつだから自業自得」と正当性を主張し盾にする。

本当にそうだろうか?

勿論、どんな理由や経緯があろうと許されないことある。それは罰せられるべきである。
ただ、裁判ですら決定的な証拠がない限り"推定無罪"の考え方で行われる現代で、人となりや背景を全く知らないままに人を裁くことが果たして正義なのか。私は違うと思う。

ただ、裕子と香の場合、長年の親友で互いある程度知り尽くした仲だったはずだ。
裕子の行為は許されるものではない。しかし、裕子があの時嫉妬や妬みに至った、自分の気持ちの移ろいを全て曝け出していたら、もしかしたら香は納得し、「裕子が反省したならば…」と赦すことが出来たかもしれない。

・浩二と田村

個人的に、本作の"謝罪と赦し"を最も象徴しているのはこのシーンであると思う。

会場のあちこちから啜り泣く声が聞こえたこのシーンは、まさに台詞でもって赦しの本質を捉えていた。

浩二

「今回のことを気にしないことなんて出来ない。出来てしまった溝はもう埋まらないよ。」

「だから俺は(中略)大切なものを失うくらいなら変わろうと思う!」

舞台『ハザカイキ』より

田村

「一時の感情に‪任せてパワハラなんて言葉…この5年間1度も感じたことは無かった!」

「橋本さんと向き合うことから逃げてしまった」

舞台『ハザカイキ』より

2人は自分の罪や本音を隠さず正直に曝け出し謝罪した。そして相手の罪を無かったことにするのではなく、人間性をまるごと受け止め、共に生きていく覚悟を持って赦した

浩二は、自分の前時代的な考えや傲慢な態度という罪を謝罪し、田村が大切存在であることやそんな田村を失いたくないことをきちんと言葉にした。

また、田村は浩二と仕事することが何より喜びだったことにら変わりはないという気持ち、一時的な感情でパワハラとしただけで本音ではそう思っていないことを打ち明けた。

もし、このシーンで田村が事務所に来なかったら?
もし、浩二が示談に応じず裁判になっていたら?
もし、2人が出会ったばかりだったら?他人だったら?
この問題は“大物元芸能人のパワハラスキャンダル”となり、もう二度と浩二と田村が直接向き合い、赦し合える機会は訪れなかっただろう。

弁護士の松澤の台詞

「個人の直接の対話に、私は必要ありませんから」

舞台『ハザカイキ』より

にあるように、人間はみな不完全で相手の不完全さを理解できるからこそ、直接対話し向き合うことで本当の意味で赦し合うことが可能なのである。
弁護士や他人には分かり得ない5年間の関係値と、そこに甘んじず気持ちをしっかり言葉にして対話したことが、相手を赦すための理由になった。

このシーンは東京の初日から大阪の千秋楽に向けて、徐々に演者である風間さんと米村さんの台詞にさらに熱がこもり、毎回涙なしでは見れなかった。

・伸二と菅原

2人は「一緒にいるために」自分を偽り、
「一緒にいるために」謝り赦しあった。

伸二は菅原に対して、自身の恋心はもう終わったものだと友達でいるんだという"解ったフリ"をしてきた。
菅原は伸二に対して、ずっと親友でいてくれるんだと都合よく考えていた。伸二が解ったフリをしていることを感じながらも、それに気付かぬフリをしてきた。

伸二の謝罪のきっかけは菅原を襲ってしまったことへの懺悔だったが、それを発端に隠していた気持ちも打ち明けたのは、そんな自分の本音も赦してほしい受け止めて欲しいという想いからだと思う。

一言謝った後に、そのまま部屋を飛び出すことも出来たはずだった。しかし、伸二にとって「菅原と一緒にいたい」という想いは何より強く、これまで培った関係を捨てることはできず、正面から菅原に向き合うことを選んだ。

だからこそ菅原の本音も引き出すことができた。

菅原も、本当は伸二の“フリ”に気づいていたこと、それを見て見ぬふりをしてでも「一緒にいたかったこと」を謝った。
しかし菅原には里美がおり、伸二の好意に応えることは出来ない。そして、先述したように恐らく菅原と伸二は根っこの価値観が違っており、菅原と里美のような関係を築くこともできない。

だから菅原は、伸二の本音まるごと受け止め、全てを知った上でまた友人でいることを選んだ。
菅原は謝罪した後に、「お前こんな時に勃起してね?」と伸二をイジる。他人からすれば、こんな時になんてデリカシーのない残酷な奴なんだ…と感じられる(私も思ったが)この台詞に、伸二はいつも通り笑いながらツッコミを入れた。

この瞬間に2人は赦し合えたのだと、私は感じた。

好意を持ちつつ友人として解ったフリをする伸二を、
好意を知りつつ友人として接してくる菅原を、
2人は赦し「一緒にいること」を選んだ。

おそらく、2人の友人関係はこれまで通りには戻らない。それはギクシャクするとかいうことではなく、このシーンで互いが本音を口に出来て、これからもそれが出来る関係性になれたのではないかと思うからだ。

客観的には菅原だけが得をしていて、とにかくズルいように見えるかもしれない。

しかし2人が互いを赦したのだから、そこに他人が介入する必要などないのだ。

・里美と菅原

まずは里美から。
里美は菅原に対して、菅原が1番嫌う言葉だと1番指摘されたくない部分だと分かっている上で彼を非難したことを謝罪した。

里美は、性的マイノリティの伸二に対し「私はそういう人に理解があるつもり」「私はそんな偏見持ってない!」と言ったり、喧嘩の際にクッションを投げてきた菅原に「それモラハラだよ!!」と言ったりと、新しい価値観への知識や理解があるように見せていた。

しかし「時代に合わせたいと思ったり、やっぱり合わせたくないなぁと思ったり」という台詞もあるように、根底の考え方が変化しているというよりも、“そうありたい”と思って意識している故の言動と分かる。

しかし、おそらく物語前半までの菅原はそれを知らなかった。里美は俺と同じ価値観で、テレビの前や雑誌記者という安全圏からはなんでも言えるし、そんな勝手な自分達を正す気はないものだと思っていた。

だから2人が喧嘩をした際の菅原は、

「お前って、そういうこと言うやつだったんですね」

舞台『ハザカイキ』より

と、モラハラだと正論ぶった意見をつぶけてくる里美に幻滅していたのだと思う。


そしてこのシーンで里美は、そんな中途半端な自分でも受け入れて欲しいと、本音ではない批判をしてしまったことや本当は時代に追いつかない気持ちもあることを正直に打ち明けることで謝罪した。


対して、菅原。
彼は里美の謝罪に「分かるよ」と頷き、頭を下げる里美に返事をするように「俺も、本当にごめんなさい」と謝罪した。このシーンにおいて彼は何に対して謝っているのか、言葉にしない。

私は初回の観劇後すぐは「ああ、菅原も反省しているのだな〜よかったよかった」程度に思っていたが、よく考えると、彼は何を赦して欲しくて謝罪しているのかが全く描かれていなかった。

本来であれば本作における赦しにおいて、“説明不足”では相手を納得させることはできない。

しかし、当事者である里美は赦した。

それは恐らく、彼女には少ない言葉や態度からでも、菅原の謝罪を理解することができたからである。


なぜそれが出来たのか。
個人的に、菅原と里美は似ていたからだと思う。

元々は世間のために政治家の愚行を暴く正義の記事を書きたかったが、今はゴシップで稼ぐ芸能記者の菅原。
新しい価値観に合わせたいし正しくありたいが、根底では変化できず上手くついていけない里美。

恋人との喧嘩においても「論破ってことでいい?」と吐き捨て、あくまで自分が正しい側でいたい菅原。
クッションを軽く投げられただけで「モラハラ」と断罪する里美。

2人ともが自分が正しくありたい気持ちと、それに相反する本音や現実が入り混じり、葛藤していたように見えた。

似ている2人だからこそ、他人(観客)からは言葉足らずに見える謝罪の言葉でも、相手を理解し赦すことができたのではないだろうか。



また、このシーンの台詞からは、2人がすでに自分を曝け出し理解し合っていたことが読み取れる。

里美

「家でテレビとか観ながら裕ちゃん(菅原)とうだうだ‪文句言いあう時間が好きだった」

「一歩外に出たら、どういう価値観の人か見極めて他人に接しないとね。でも、そうやって言い合える人が1人でもいたら、どんなに時代が変わっても生きていける!」

舞台『ハザカイキ』より

菅原

「わかる、わかるよ」
「俺もそう思ってた」

舞台『ハザカイキ』より

謝罪の当初、里美は「あの言葉は自分の本音じゃなく、裕ちゃんが嫌がると分かってて(理屈を経過して)言ってしまった言葉なだけ」と謝っていたが、実際のところはあの言葉も、そしてこの謝罪の言葉もどちらも本当だったんだと思う。

正しくありたい里美からすれば、菅原の芸能記者の仕事はSNSで他人を陥れる人間と同じくらい下世話だが、正しくいられない・時代について行きたくない里美からすれば、そんな下世話な話を菅原とテレビを見ながらする時間も大切だったし、それに付き合ってくれる菅原も大切だった。

本当は人に知られたくないはずの、自分の中にある正しくない善人じゃない部分、それを共有していたことを改めて確かめ合えたからこそ、2人は互いを赦すことができた。
もともと、"赦し合える関係値"が出来ていたことを確かめ合うことが、この2人にとっての謝罪と赦しだったのだと思う。

・香から世間

香の謝罪会見。
あの台詞量と事前のインタビューからも分かるように、三浦監督がこのシーンにどれだけの熱を入れて演出したかは言うまでもない。

香は会見を開く前に、菅原に電話して「誰もが納得する、完璧な謝罪を思いついた」と言っていたが、まさにその通りで“誰かに邪推や思い違いをする隙を与えない”鉄壁のような謝罪だった。


香は、橋本香 "個人"として、"芸能人" 橋本香のイメージに添えなかったことを謝罪した。

先述したように、香は常に"周囲が何を感じているか"を感じ取ろうとしていた。
自分のスキャンダルが出た際も、自分がこれから芸能人としてどうなるか(=個人の人生がどうなってしまうか)を気にするのではなく、

「お父さんのスキャンダルの時、お母さんは世間からどう思われたの?」

「それで、お母さんはどう感じたの?」

舞台『ハザカイキ』より
スナックにて

と、世間の人々の感情の移ろいを気にしていた。

世間の人々はなにがあったから、そう感じるのか。
これが、香が会見で言っていた、感情にたどり着くまでに「頭の中でさまざまな理屈をこねくり回している」ということだと思われる。

そして、それらの理屈ごと感情を曝け出す事が、真の自分を知ってもらう事であり、知ってもらう事は香にとっての「完璧な謝罪」だった。


感情は、泣いたり笑ったりという表情によって、他人でも感じ取るができる。しかしその背後にある理屈は、本人が言葉にしなければ伝わらない

愛した加藤の悪事が全く普段のイメージと繋がらなかったことや、親友の裕子が自分を妬んでいたことも自分が知っている姿からは想像できなかったことから、香は表面的な感情という情報が、いかにその人を知るのに不十分であるかを痛いほどに実感していた。

だからこそ全て説明することで、スナックで智子が香に言った、「隠すことを無くすこと」を香は体現してみせた。


本来、人間なら誰しもが口には出さない本音の1つや2つあるはずだ。それらは、時には人間関係を円滑に進めるための真っ当な選択でもあるし、寧ろなんでも本音を口にしていれば誰かを傷つけることにもなりかねない。

しかし香は、自分が打算的であること、世間のイメージとはかけ離れており加藤との交際すらも打算を通過した結果であること、マスコミの勝手な報道に傷つきつつも「まるでウンコだなぁ!」と思っていること、菅原が同じ目にあって内心喜んでいることなど、全ての経緯を包み隠さず話した。

こうすることで、記者や世間の人間は「本当はこうかも知れない」「あれを隠しているかも知れない」なんて邪推をする余地がなくなり、香が発した言葉を受け入れるか・受け入れないかの2択を迫られることになる。

実際、会見に参加していた記者たちははじめこそペンを走らせていたが、後半になるにつれて手は止まっていき、最後の質疑応答では誰も手を挙げなかった。
香が全て説明したから、何も挟み込む隙が無かったからだ。

香が会見の最後に泣きながら言った

「もし、こんな私を赦してくださる方がいたなら、橋本香という芸能人は幸せだと思います。」

舞台『ハザカイキ』より
香の謝罪会見シーン

の言葉にもあるように、今回こうして"個人 橋本香"の全てを説明し、それでも尚 受けて入れてくれる人いたらならば、それは香の全てを赦したも同義であり、作られたイメージが商売道具である芸能人橋本香を救う行為でもあるのだと思う。

世間のイメージに添えなかったことを謝罪すると同時に、個人としての本音を曝け出した彼女。
ただ、「お騒がせしてすみません」で終わらせなかった理由には、芸能人としてだけでなく個人の橋本香も、誰かに受けとめ赦してほしいという想いがあったからじゃないだろうか。

ちなみにこのシーン、遅れて会場入りする菅原は我々観客の方もチラチラを怯えた目で見ており、会見中は全くメモを取らずに香をただじっと見つめていた。
持ってきていたカメラを構えることも無かった。

香が大声をあげる際には肩を振るわせ怯えており、この会見に取材する記者としてではなく(もちろん建前は記者として入場しているだろうが)、コタツ記事まで書いて陥れようとした張本人として彼女の言葉を聞くために来ている事が伺える。

■まとめ

観劇後の私は、登場人物の全員に対してどうしても他人事とは思えず、誰のことも責める気にはならなかった。

私がその感覚に陥ったのは、登場人物の誰かが自分と同じ境遇だとか、全く同じ考え方を持っていたからとかではない。
寧ろ「それはどうなの」と理解しきれない台詞や感情もたくさんあった。それでも全員が完全な悪人に感じられなかったのは、私自身も彼らと同じように中途半端だからだと思う。

正しくありたくて、全ての人を出来るだけ理解しようと努める日々があれば、どうしても苦手な人間の悪口で共感してくれた誰かと盛り上がってしまう夜もある。

他人には他人の事情があると分かっていても、自分と同じような被害を受けた(境遇のある)人には感情移入し、知りもしない他人を責めてしまう日もある。


完璧な人間なんていなくて、誰しもが間違ってしまう。それなのに一度の過ちですら赦されない現代で、被害者本人ではなく大勢の他人から責められる現代で、何が必要なのか。

それは、他人と自分は違うということを自覚することだと思う。


菅原や後輩記者の川綱が言う「ファクトは1つじゃない」は間違っているし、セコくて腹立つ理屈だったが、広義的には正しいようにも思えた。

もちろん起こった事実そのものは1つだけ。だからファクトは1つだ。
しかし、そこにある背景や、そこにいた人間の感じ方捉え方は人それぞれ。

劇中、菅原とヒカルの件はセクハラになったけれど、アケミと伸二はセクハラと騒がれなかったように。菅原の伸二に対する「勃起してね?」も、伸二にとってはもしかしたら『俺を笑い飛ばしてくれる救いの言葉』なのかも知れない。


もちろん、赦せない人を無理して赦す必要はないと思うし、決して許されない行為をした人間には、相応の罪が伴うべきだと思う。
けれど些細なトラブルなら、1度のミスなら、身近にいる互いの背景も知り得る相手のことは赦せるんじゃないのか。
間違ってしまう日もある。けれど、たった1人でも味方がいる場所では、本当の自分を見せてもいいんじゃないのか。折り合いをつけれるんじゃないか。

そう、言われているような気がした。


主演の丸山さんは、インタビューで本作について

「社会風刺でもないし、重いメッセージを皆さんに考えてもらおうというのでもない」

ステージナビ vol.89

と述べている。

実際、我々がこうして本作を機に自分のありかたを見直したところで、社会全体の改善には程遠い。

ヒカルの「私のような被害者を生まないために」という言葉を、“本当はセクハラ変態記者が憎いだけで、世間のためなんて気持ちはその次にあるはず"と香が指摘していたように。
ヒカルが他人の夫婦の不倫問題を、まるで自分の妹が亡くなった問題と地続きであるかのように怒ったように。

“世間のため”と銘打っても、結局人々の根底にあるのは自分の人生が豊かになるかどうかという意識でしかない。

しかし、それでいいのだと思う。

劇中で加藤が

「みなさんの目の前にあるものが人生」

「社会問題として議論する人もいるだろう。けれど、本当はそれは社会のためではなく自分の人生を豊かにするためにしている。」

「皮肉でもなんでもない、本当にそう思っている」

舞台『ハザカイキ』より
謝罪・引退宣言をしたシーン

と、言っていたように、我々人間には他人のことは解り得ない。目の前にあるものと、自分の中にあるものだけが確かなもので、それら全てで人生は構築される。

全くもって皮肉ではなく、当たり前に他人のことなど説明してもらわない限り分からないからである。自分が知り得るものだけが、その人の人生の真実になる。

その中で、なにかトラブルがあったり許せないことがあった時に我々が出来ることと言えば、そこから学び自分の人生とその周りの人々との関わり合いを改善することだ。
世間は変えられなくとも、"それぞれの人生が豊かにする"ことが、人間達にできる精一杯なのかも知れないと思った。

同時に、全てがそんな簡単に割り切れない時もあると個人的には思う。
黒人差別問題やフェミニズムなどの社会改善の歴史には、社会や人種全体で問題に向き合わなければならない時もあったはずだ。

自分の問題なのか、自分と相手の関わり合いの問題なのか、それとも社会の構造の問題なのかを常に考える必要があるのかも知れない。

映像作品のようなテンポのいい展開と、演劇ならではの目の前で繰り広げられるリアル感、そして人間のもっとも人間らしい部分を嘘偽りなく演じた俳優さんたちが私たち観客を“当事者”として巻き込んでいった。

テレビやスマホの画面越しでは出来ない、生身の今を生きてる、中途半端な人間同士だからこその関わり合いのカタチのあるべき姿を今一度考えさせられる作品だった。

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