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小坂国継「西田幾多郎の思想」を読んで

まだ早い朝。電気ケトルを手に取り、水道から水を注ぐ。お湯を沸かしている間に今らか読む本を選ぶ。カチッという音が鳴る。ドラッグストアで買った安いドリップコーヒーを淹れる。朝日が半分だけ差したソファーに腰掛けて本を開く。
僕はこんな時間が好きだ。カフェでコーヒーを飲みながらというのもいいのだが、早朝の自分の部屋に優る場所はないんだよな。まだ誰も起きていない朝を我がものとした静けさといい6年間の付き合いの中で座り馴染むようになってきたソファーといいココにしかないものがある。そこでは空間と時間がとてもシームレスにつながっている気がするんだ。決してアニメのようにコマ割りされた1秒1秒を生きているんじゃなくて、継ぎ目がないような滑らかさをもって時が進んでいる。そこに僕はいない。ただ、コーヒーを淹れてソファーに座り本を読む。この主語がない文章のように。開かれているようで閉じているような世界。僕はたまにこんな日常の一コマがこの世の全てだと錯覚することすらある。ただの日常体験なんだけどその先にどこまでも奥深さがあるんだ。
禅を嗜まない僕にとっては、これが1番近しい体験なんだろうと思う。変化を続けた西田の表現を海面上の波だとすると、ありふれた日常の奥底にこそ真の実在があるという信念は深海のように静かにあり続けたものと思われる。僕にとっての西田哲学はまだ難しかった。今の自分の限界を感じた。しかし、自分の有限性を知るということは無限なるものの存在を認知することでもあるという意味では西田哲学の入り口に立てたのだと思う。まだ過程なのだ。そもそも西田の哲学も過程的である。「善の研究」で示された純粋経験はその後都度修正が加えられていき、過程的なものとなった。まず初めに、主客未分の経験がある。これは思慮分別や判断が入る前の経験であり、狭義の純粋経験である。そこから、主観や客観が入ってきて経験が分化し私たちが普通の意味で使う経験になる。その後、分化した主客を再び合一させることで、自我を没してありのままにものを見る見方を手に入れる。このプロセス全体が広義の純粋経験であることからすると如何に過程的なものかが分かる。始めの状態と終わりの状態は似ているようでちと違う。始めが、自我が分かれる前の状態ということで未我の状態とすると終わりは無我の状態なのだ。未我はこの本によると赤ん坊の体験だという。ここに戻れと言っているのではなくて、分化した主客を超えろと言っているのだ。当時西洋で産声を上げていたピュアエクスペリエンスを日本に持ち込むだけではなく、東洋ならではのエッセンスを加えながら独自の体系へと昇華させた西田。ここに日本らしさがあるのではないかと僕は思う。昨今、日本という国家の先行きは不透明だと言わざるを得ない。それはこの国にビジョンがないからであり、独自の国家観を問い直さなければならないという機運が高まっている。しかし、この国のオリジナル性を考える時にどうも他国との関係を排除しようとしている感が否めない。古来より、、、アメリカの言いなりになる前から日本はずっと、、、かくかくしかじかといった切り口が跋扈している。しかし日本は、むしろアレンジの国なんではないか。ハンバーガーをハンバーグに、中華そばをラーメンに、カリーをカレーにするように他国から輸入したものにアレンジを加えることが僕たちのオリジナルではなないのか。西田のように舶来のものを上手に受け入れて再解釈するのが日本らしさではないか。シュンペーターは新しい組み合わせこそがイノベーションだと言った。0から日本で生まれた文化なり思想にこだわる必要は無いと思う。いい意味での諦めが要るのではないか。それはまるで西田のいう自我を諦めることと似ている。自己を否定することで、新しい活路を見出せるという意味で自己否定は自己肯定になる。ここでいう活路とは日本は硬いビジョンを持つのではなくむしろ柔らかさを持って世界と接するべきではないかということだ。ダーウィンの進化論によると、生き残るのは強い種ではなく変化する種であるという。少子高齢化や人口減少という局面に突入した今は成長よりも生き残りが喫緊の課題だ。またAIが人間を越していく時代において、人間中心的に発展してきた強固な思想体系は障害になりうる。日本の思想がないという思想がむしろ変化の早い時代を生き残るしなやかさにつながるというつよさを持っているとも言える。三島由紀夫は日本のことを極東の空虚な経済大国と揶揄したがむしろその空虚さが必要なのかもしれない。犬という種がここまで繁栄できたのは、人間に取り入ったからだという。自分たちだけで生きていくことを諦めて長いものに巻かれた結果、生き残っているのだ。無論、僕自身も何らかの日本の思想性や根幹のようなものを求めないではない。多分不安なんだ。不安ということは現実に日本を通底するものがないことの証でもあるのだからその事実は認めなければならない。認めた上で再スタートを切る。0からではなく、自他の区別なく広く参照を求めながら材料を集めて日本という一つの形を紡いでいくのだ。肉とじゃがいもがあるということと、肉じゃががあるということは別のことだ。そんな態度を西田から学んだ。

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