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【連載小説】聖ポトロの彷徨(第18回)

49日目

昨日コムログを見つけた。電池は満タンになっており、ゲインからフルに切り替えても問題なさそうだった。
早速タイマーを確認すると、どうやら48日目のようだったから、あの時が何日目だったかは正確には分からないが、おそらく意識が戻ってから1週間ほど経過しているのだろう。


最初に目覚めた時、私を心配そうに覗き込んでいたノーラの表情を、私は今でも鮮明に覚えている。昔と同じ、普段顔でもなんだか困っているような形の眉根をさらに寄せ、彼女に似合わない不安げな面持ちで、彼女は私の顔を見下ろしていた。

そこは民家の一室のような趣の場所で、周囲は濃いこげ茶色をした焼き杉の壁板で囲まれている。開いている窓が一つあり、そこから、乾燥した風が白いカーテンを揺らしながら、開け放たれた向かいのドアへ、さらさらとそよいでいた。こげ茶色の床には、明るい日差しによって、窓枠の形が平行四辺形に映し出されていた。どうやらその時は日中だったようだ。

私が横たわっていたのは、壁同様の木材で造られたベッドの上だった。ベッドには柔らかく肌触りの良い、清潔な白いシーツがしつらえてあり、その上に横たわる私の体には、軽い素材でできた白くて温かい毛布が掛けられていた。

ノーラは私の傍らの丸椅子に座って私を見下ろしていたようだが、私が目を覚ますのを見て取ると、デフォルトの困り顔をぱっと笑顔に変えた。
辺りを見回そうとして、私が体を起こそうとすると、彼女はあわてて私の背中を支えてくれた。
私はきっと困惑したような不思議な顔になっていたと思うのだが、そんな私に構うことなく、彼女は私の手を嬉しそうに握った。久しぶりの感触、働き者の彼女の手は、あの頃のように少しがさがさしていて、そしてひんやりと冷たい。私はいつもそうしていたように、彼女の手を両手で握り返し、ゆっくりともみさすり温めようと努める。

その感覚が、私の理性を一気に吹き飛ばした。
彼女が再び私の隣にたおやかに座っていて、そして少し困ったような、いつもの表情で笑いかけてくれるのだ。どうして正気でいられようか。
私は彼女の手をぐっと引き寄せ、その体を力の限り抱きしめた。ほっそりとした彼女の体は繊細で温かく、あの頃と一つも変わってはいなかった。彼女の胸は決して豊かではないけれど、布越しに皮膚に触れるその柔らかなふくらみの感触は、長い旅で飢え乾いていた私の心を、見る間になみなみと満たしてゆく。満たされた私の心は急激に液化して膨張し、そして背筋を一気に駆け上がって、そのまま両方の涙腺からどっと溢れ出した。

私の嗚咽は、彼女には聞こえないはずだった。なぜなら、彼女は生まれつき音を感じることができないのだ。

やがて、ノーラは私から静かに離れると、パタパタと隣の部屋へ消えた。喜びに満たされつつも、かなり驚き混乱していた私は、ただぼんやりとその場に座り込んでいた。
やがて、彼女はスープの入った器を盆に載せて戻ってきた。私は彼女の手からそれをひったくると、むさぼるようにズルズルと平らげた。丸椅子に戻った彼女はそんな私の様子を、猫さながらに背中を丸めて、両ひじをひざの上に行儀よく乗せ、例の表情の顔を手のひらで支えながら、嬉しそうに眺めていた。

その晩、私たちは10年ぶりに激しく愛し合った。
何度も、何度も。
優しく、そして熱く。
私たちは水を得た魚となってシーツの海を泳ぎ、光を得た花となって咲き乱れた。

そしてやがて穏やかな時が訪れ、彼女の柔らかな寝息を確かめた後、私もとろとろと眠りに落ちた。ベッドで眠る事自体が久しぶりの事だったはずだが、私にとってはそれ以上に、腕に触れる彼女の髪の感覚が懐かしく、心には遠い日に消え去ったはずの安らぎを、再び手にした喜びが満ちていた。


それから1週間、私とノーラは料理をしたり、散歩をしたり、洗濯をしたり、絵を描いたりしながら暮らした。この建物は、私が目覚めた部屋のほかには、ダイニングとキッチンを兼ねた場所とバスルームがあるだけの、小さな木造の平屋だが、特に不自由はしなかった。

玄関を出ると、そこは遠くまで広がる草原で、そこここに多種の小さな花が自生している。その周辺では、小さな蝶が踊るように飛びまわっては、葉の上で翅を畳んで昼寝を楽しんでいた。

ノーラの絵の才能は衰えておらず、スケッチブックいっぱいに展開する、細部まで細かく描写された鉛筆書きの草花の絵は、まるで図鑑のような正確さでありながら、その生物の持つ美を極限まで再現し切っていた。
絵を描いているときの彼女には、何か鬼気迫るような不思議な迫力があると、昔から私は常々感じていた。鉛筆を握るその手や指の弱々しさからは想像できないような、豪快かつ大胆なタッチがざくざくと紙の上に生み出されていき、白い画用紙はあっという間に、色とりどりの花が咲き乱れるモノクロの花畑になるのだ。

一方、家の裏から伸びる土の道は海へと続いており、海岸の白い砂浜には、ところどころキラキラした石か貝殻が、半分うずもれた状態で顔を見せている。真っ青な空、水平線まで続くコバルトの海。時折、白い波頭が見え隠れしているものの、海はとても静かな凪だ。はだしで波打ち際に立つ彼女の髪を、通りすがりのそよ風がサラサラと優しく揺らした。


その時、彼女は水を汲むために、草原を越えたところにある水場まで出かけていた。私がコムログを見つけたのは、彼女がいない間に何となく家の中をうろうろしていたときのことだ。キッチンにある窓を開けようとした時、その窓枠に見覚えのある何か、黒くて四角くて無骨な感じの何かが立てかけてあるを見つけた。平穏な生活にすっかり脳が不活性になってしまっていたのか、私がそれを愛用の相棒だと思い出すまでに、実に10秒以上の時間を要した。

コムログは砂まみれだったが、窓際に置いてあったおかげで満充電に回復しており、幸運にも今までの記録も全て残っていた。だが、周辺探査だけはうまく行かなかった・・・地震のときにあれだけの衝撃を受けたのだ、故障したのかもしれない。
今朝、私はコムログを海に持って行き、波間で無造作にじゃぶじゃぶと洗った。あとは乾かしたあと、塩粒を払い落とせば元通りだ。


私たちは今、草原の只中で日光浴を楽しんでいる。ノーラは私の傍らでスケッチブックに向かい、一心不乱に鉛筆を動かしている。彼女の集中力にはいつも本当に驚かされる。今この瞬間も、私が隣でコムログにメッセージを吹き込んでいることを全く気にする様子もなく、手を様々に動かし、作品に線を加えていく。
コムログは彼女が拾ってくれたらしく、充電のために窓際においていてくれたのだそうだ。だが、彼女は私のコムログにはあまり興味を示さなかった。当然といえば当然だ、彼女には音が聞こえないのだから、私の旅の記録を参照することさえできないのだから。


初めの頃は、この生活はただの夢だと思っていた。だが、今この現実はこうしてここにある。10年前のあの時、確かに息を引き取ったはずのノーラも、今は私の隣で絵を描いているし、私は愛用の、そして憎むべき腐れ縁の、このコムログにメッセージを吹き込んでいる。これが現実ではないとしたら、私は何を現実と呼べばいいのか。

もしこれが夢なのだとしたら、できれば永遠に覚めないで欲しいと願うばかりだ。

【記録終了】



「ニンゲンのトリセツ」著者、リリジャス・クリエイター。京都でちまちま生きているぶよんぶよんのオジサンです。新作の原稿を転載中、長編小説連載中。みんなの投げ銭まってるぜ!(笑)