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0072:こんなチャンス、なかなか無い!

チャンス!(トリプルファイヤー調で)

今日は、死についてまた書きますね。

人間死んだらどうなるか? という話を、だいぶ前に書きましたが、覚えてますか?(0012
(^~^ )

人間は(ていうか生き物は全部)、死んだら天国に帰るんでしたね。だって、みんなそっちから来ていて、他に行く所、できることがないですから。

そんでもって、時間軸というものは、予め形が決まっていて(0067)、わしらの人生はそこに組み込まれた、レコードの溝の一本であって(0011)、いつどういう死を遂げるのか、だいたい決まっている、という話もしました。

決まっているのは「だいたい」であって、ちょいちょい修正されることがある、とも書きましたね(0057)。だから、わしらの人生、なるようになるけど、為せば成る、でもあるんです(0059)。

そして、死んだ人間は、やっぱり普通は復活しません。ファンタジーの世界では、魔法を使うと死者を生き返らせられる、という設定はよくありますが、現実世界ではなかなかどうして難しく、現在の科学では、死者を完全に復活させることは、まだまだ無理ですよね。

だからなんですけど、やっぱりね、

生きているっていうことは、チャンス

なんだと思うんです、最近。


父さんの思い出

最初にそう思ったのは、父親が亡くなったときでした。

わしの父親は、いいところが全然ない人間でしてね。いや、わしもなんですけどね(笑)。
(^~^;)

物心ついたときは、母親としょっちゅう喧嘩してて、暴力もよくふるってて、でも小心者で、人の気持ちがさっぱりわからなくて、嘘ばっかりで見栄張りで、その上にすごくケチで、アタマも悪くて学もない貧乏人でした。

わしは父親らしいことをしてもらった覚えが一つもなく、何かを買ってもらったり、遊びに連れて行ってもらったり、ということだけでなく、まともに人間らしい会話をしたことが一度もありませんでした。彼はいつも、自分がいかに素晴らしいかを(嘘を交えながら)一方的に話し、こちらの話や生活に全く興味を示しませんでした。

晩年は、母親のほうが弁が立ったからか、部屋に引きこもったままほぼ顔を見せなくなりました。友人も一人もいなかったようです。

それでも、毎日働きには出ていたので、一応「食わせてもらった恩義」みたいなものはあったんですが、死後聞いた話によると、あいつは家族を養うつもりなどなかったようで、給料のほとんどを自分のために使っていたそうです。給与明細を母親に見せたこともほとんどなかったみたいで、そりゃ母親も朝から晩まで働くわ・・・と、死してなお、わしをげんなりさせてくれました。

とまぁ、わしそっくりなダメ人間だった父親ですが、たしか56くらいで亡くなりましてね。2000年台初頭かな?

自分の退職金で建てた墓に入ったんだったと思いますが、晩年母親と離婚したあと、実家の親類や職場に、母親とわしら家族の悪口をそうとう吹聴していたらしく(もちろん全部デタラメです)、実子のわしは葬式にすら呼ばれませんでした。

さて、そんな男の一生は、背骨のガンであえなく終了するわけですが(死の直前、離婚した母親だけがあいつを介護していたのが、なんか象徴的でしたね)、その時、思ったんです。

この男が、「いいやつ」になるチャンスって、もうないんだなぁ

って。

いい思い出なんて一つもない父親だったし、死んだことそのものは悲しくもなんともないんだけど、でもそう思ったとき、わしは一粒だけ泣きました。


わしらにとって人生はやっぱりチャンス

人生で起こることは決まっているし、その時どんな選択を取るかも決まっていて、そしていつ死ぬかも決まっている。

そんな世界にわしらは生きているのですが、地獄で暮らすわしらには、それが分からないようになっている。なぜなら、そうでないと地獄に降りてくる意味がないから、でしたよね。
(転載注:地獄とは、わしらが生きているこの世界のことです(0004)。)

地獄でわしらがやりたいことは「じゃんけん」でしたよね(0021)。先が見えないからこそ、このじゃんけんが成り立つんでした。

とはいえ、地獄がたとえどんな仕組みで出来ていようと、わしらにとっては、未来は「まだ来ない」んです

だから、テトリスみたいに降ってくる個別のドラマ(0002,0016)を目の前にして、わしらはあくまで「判断」をしているわけです。どんな判断をするか、それすら決まっていたとしてもです。決まっていても、やっぱり「自分で選んでいる」感覚があると思います。

この『自分で選んでいる感覚』こそが、地獄ライフの醍醐味なんです。じゃんけんの醍醐味(0021)なんですよ。

んで、その選択の結果をみて、わしらはいろんなことを思うわけです。ときには、その過去の選択を、激しく後悔してしまうことだってありますよね。

んでもって、その経験があるからこそ、その後の人生の「個別のドラマ」で、別の選択をとり得るわけです。

わしら自身の意志で。

もちろん、そういう体験を経て、のちに新しい選択をする、ということも、時間軸には書いてあるのだけれども、わしらは未来のシナリオになんて書いてあるのか知らないので、結局、過去を積み重ねていくしか、新しい自分になるチャンスって、ないんですよ。

そう、だから生きているということは、常に「チャンス」なんです。

過去の体験を踏まえて、新しい自分になる「チャンス」なんです。

でも、死んでしまったら、そのチャンスは失われます。たとえわしらの人生が、神さまの視点から見たら「いつ死ぬか決まっている」ものだったとしても、そういったチャンスが失われることそのものは、変わりません。


生きてこそ

人生が辛い時、どうしても「なにもかもやめてしまいたい」と思うことがあったりするでしょう。わしにもありました。

生きていることと、死んでいないこと、どう区別したらいいのかわからない、そんなときが何度もありました。

でもね、あんな父親だったけど、あいつの死が、今わしが生きている、その下支えに、ちょっとだけ、なっていたりもするんです。不思議な話です。

あいつも多分、苦しんでいたんじゃないかと思います。そういう苦難に満ちた人生の中で、害虫みたいな生き様をわしに見せてくれたから、わしは「こうはなりたくない」と思えるわけで(我ながらひどい(笑))、そういう「役割分担」なんてのもあったりするんだなぁと思ってしまいます。勝手な話ですけどね・・・。



・・・なので、もし、汝が、今すぐ天国に戻りたいと思っていたとしても・・・もうちょっと待ってみませんか? どうせその時になったら、戻れるんだから。

もったいないよ?
d(^~゜ )

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ご注意:わしの話、よく考えてみてね。

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これは、拙ブログ『人生はなぜ辛いのか、と思った時に読むブログ』からの転載です。イラストや強調で分かりやすい、本家サイトはこちら。
https://jinseihanazeturainoka.blogspot.com/
このブログの文章を初めてお読みの方は、ぜひ第1回からお読みください。
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「ニンゲンのトリセツ」著者、リリジャス・クリエイター。京都でちまちま生きているぶよんぶよんのオジサンです。新作の原稿を転載中、長編小説連載中。みんなの投げ銭まってるぜ!(笑)