祝300記事&無執着の心地よさ

今年の1月から始めたこのnoteも当記事で300記事目となりました。毎日コツコツ続けるぞーと言って書いてきて、300まできたと…。正直これだけ記事もたまってきたので、300を区切りに毎日更新辞めようかなと思っていたのですが、今のところまだ辞めるつもりはなく、辞める勇気もなく(笑)、まる1年までは続けようかなと思っております。

昨日仲の良い友人といつものように喋っていたのですが、仕事、お金、健康、恋愛などいろんな分野で悩みや壁や停滞を感じることがあるけれども、自分が執着していないものについては案外すぐに叶うし、スムーズにうまくいくものだよねという話になりました。その話は私も実体験から思い当たることがあるので、いやーホント、執着するほどうまくいかなくてこじらせることが多いよね、と改めて思ったのでした。なんというか、起きる事象に一喜一憂してしまうようなことが「執着」かなと思っているのですが、「こうでなければならない」「こうなりたい」という思いやこだわりが強すぎて、そうなるかならないかにやきもきしてしまう状態です。

私の場合は、占星術や数秘術、カバラなどの学びをもっと深めたいから、学べる機会や本、人などとたくさん出会えると良いなぁと漠然と、ふわっと思っていたのですが、そういう願いや願望って割とすぐに叶うんですよね。一時期立て続けにいろんな情報に触れる機会があったりして、おぉ~あんまり気にしてなかったらすぐに実現した…と思ったものです。逆に仕事とかお金とか恋愛とかって執着しやすくて、どうなるか気になって一喜一憂してしまったり、なかなか叶わないなぁと不足感にばかりフォーカスしてしまうことにもなります。書き手あるあるとしてはPV数やアクセス数を必要以上に気にして執着してしまうことはあると思います。私も以前はよく気にしていましたが、今はあまり見なくなりましたね。見なくなったらすごく増えた!ということもないですが(笑)、気持ち的にはすごく楽で、まぁどっちでもいいやという感じです。

執着してしまう、というのは、豊かさや恩恵、恩寵の枠を自分で制限しているということでもあると思っていて、たとえば恋愛だったら、「○○くんじゃないと嫌」というこだわりや制限があることで、本当はもっと合う人が近くにいても気付かないでスルーしてしまったり、○○くんとの関係性だけを見て「願いなんて叶わないじゃないか」と文句を垂れてみたりします(笑)。方法や誰から、何を受け取るということに対して、自分で制限しなければ、もっともっとたくさんの豊かさが受け取れるということはたくさんあると思います。

そしてこれは愛の話でもあり、人は自分が「これが愛だ」と思うもの以外の愛を受け取らないことで、すれ違いや葛藤を生んだりしているものです。「優しくしてくれるのが愛だ」と思っている人には、あえて厳しくする愛を受け取れず、「私は愛されていない」と傷ついてしまったりするものです。幼少期に起きたトラウマや傷の話をよくしていますが、幼少期に親に怒られたことがブロックとなっている場合、つまりは幼少期の自分が怒られた=愛されていないと思ってしまった場合であっても、それは実は親の愛であったりするわけです。甘いものばかり食べていて怒られた、でもそれは子どもが虫歯になったり太ったりしないようにしてあげようという親の愛であったと。必ずしも優しく食べていいよ食べていいよと言ってあげるのが愛ではないですからね。

「こうじゃないと嫌」というこだわりがあるほど生きるのが苦しくなり、不足感にフォーカスされるループを繰り返してしまうのは明らかで、でもその苦しさをあえて原動力にして楽しんでいる人もいるのでそれをどうするかは人それぞれです。私自身は、執着や制限が多いのは苦しいので、なるべく手放していけないものかと思っているタイプです。「こうじゃないと嫌、ダメ」というのは完全なる思い込み、固定概念なので、絶対的なものではありません。毎日noteを更新しなければならない理由なんてないですからね(笑)。自分で自分を苦しめる執着という名の自作自演の罠からさっさと抜け出して、自由にのびのびと人生を楽しんでいきたいものです。

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