芸術作品にも、我々にも「魂のケア」を

昨日は前々から行きたいと思っていて延び延びになっていた特別展『ルーヴルNo.9~漫画、9番目の芸術』@森アーツセンターギャラリーに行ってまいりました(公式サイトはこちら)。日本や大好きな米津玄師さんが公式ソングを担当しているということで興味を持ったのがきっかけだったのですが、行ってみたらまたそこでも色んな気づきや発見があって、行ってみて良かった~と本当に思いました。

この展示のコンセプトを引用します(引用元はこちら)。

日本の「まんが」、アメリカの「コミックス」のように、フランス、ベルギーなどのフランス語圏には古くから独自に発展してきた「バンド・デシネ(BD)」という漫画文化があります。「バンド・デシネ(BD)」には、大衆的な作品がある一方で、まるで絵画のような複雑で技巧に富んだ作品も多く、子どもから大人まで幅広い年代の人たちに楽しまれています。そうした特徴から、フランスにおいてBD(=漫画)は「第9の芸術」(※)と位置づけられるほどです。※フランスにおける芸術の序列。第1から8までは順に「建築」「彫刻」「絵画」「音楽」「文学(詩)」「演劇」「映画」「メディア芸術」とされる(諸説あり)。
「ルーヴル美術館BDプロジェクト」は、「漫画」という表現方法を通して、より多くの人々にルーヴル美術館の魅力を伝えるために企画されました。漫画家たちに、ルーヴル美術館をテーマに自由に作品を描いてもらう、という前代未聞の企画には、日本の漫画家を含むフランス内外の著名な漫画家が多数参加しており、すでに12作品が出版され、プロジェクトは現在も進行中です。

ルーヴル美術館を題材に描かれた、16組の漫画家による漫画作品、それに関連する展示を楽しめる特別展でした。私は美術やアートについては全くの初心者、フランスやルーヴル美術館についても予習せず、そして漫画も特に詳しくないのですが(日本人の漫画家さんも知らない人いた)、それでも楽しめたのでどなたにもお勧めですよ。

特に印象に残ったのが、フランスのエリック・リベルジュさんという方の『奇数時間に』という作品で、内容を深く読み込んではいないのですが、セリフに考えさせられるものがあったんですね。引用ばっかりで申し訳ないんですけど、あらすじを載せてみます。

主人公のバスチャンは耳が不自由な学生。恋人が彼のために就職口を探してくれているが、自分の力で就職先を探すことができないことがもどかしく、一方で、堅苦しい仕事に就くことで自分の自由が脅かされることを怖れてもいる。ある日、彼は就職活動の一環で、警備員の研修を受けにルーヴル美術館を訪れる。マナーを守らない彼はそこで一悶着起こすが、ある不思議な人物の導きでその場を逃れることに成功する。フュ・ジ・ハと名乗るその人物はルーヴルの夜間警備員、それも奇数時間だけを担当する警備員だという。奇数時間、それはルーヴル美術館に展示された作品がその魂を解放する時間だった。芸術作品は、その父親である芸術家たちから引き離され、表層しか見ない観客たちの視線にさらされ、ストレスを抱えている。それらの魂を慰め、管理するのが奇数時間の警備員の仕事である。興味を抱いたバスチャンはフュ・ジ・ハの手ほどきを受け、自らの力だけで芸術作品の魂と向き合うことになる。

私が印象に残ったのは、作品たちは生きていて、日常生活のケア(補修とか額縁を磨くとか)はしてもらえるけれど、「魂のケア」は誰もしてくれないと嘆いているという世界観です。作品は”孤児”であるという衝撃的なセリフもありました。芸術はただ消費されているだけ…誰も魂レベルで向き合ってくれない…という強いメッセージを感じましたね。

私はこの作品を観た時に、「どういう行為は芸術を消費していることになり、どういう行為は作品の魂と向き合っているということになるのかな?」と疑問に思いました。消費の意味を改めて調べると、「人が欲望を満たすために、財貨・サービスを使うこと。」(大辞泉)とあり、「芸術を欲を満たすために使う」という字面だけ見るとあまり良い意味ではない印象も受けます。作者の言うところの、「魂のケア」をされていない、という部分の言いたいことは何となくはわかりますよね。

私も美術館に行ったことは何度かありますが、初心者の私なんかは「美術館ってどうやって楽しんだらいいんだろう?」と思ったりしたこともあります。もちろんそんなの人それぞれ、正解はありません。時代背景や作者の生い立ち、どういう流れで生まれた作品か、といった知識を得たうえで楽しむのもよし、ただただ行ってみて気に入った作品の前で立ち止まってそれだけを楽しむのもよし、あとで感想を書くのもよし、刺激を受けて作品を創るのもよし…楽しみ方は無限大。

ただなんというかな、前述の作品の作者のメッセージというのは、「芸術は頭で楽しむものじゃないでしょ?」という問題提起だと思うんですよね。分析的に思考を巡らせて、時に批判的に観たり、いくらで売買というお金の価値的なものだけを算段したり…といったことではなく、一つの作品の魂と自分の魂の響き、共鳴=レゾナンスを楽しもうよ、といったことなのではないでしょうか。作品と自分との間に湧き起こる微細なエネルギー。その作品の前に立ちどまったことには意味がある。それはその作品の魂と自分の魂が響きあったことの現れに他ならないわけですよね。

人間同士が仲良くなったり、すごく嫌と思ったりするのにも(そして無関心な人がいるのにも)意味があり、自分のどこと共鳴しているかによって相手への捉え方も変わってくるんですね。すごく好ましく感じる人も、すごく嫌と感じる人も、どちらもその方自身の投影にほかならず、鏡なわけです。それと同じで、あらゆる芸術作品においても、興味関心を惹きつけられるものは、どこか自分を表す鏡であるということで、目に見えない意識の部分で共鳴し合っているってことですよね。

私が昨日のたくさんの展示の中でこの『奇数時間に』が印象に残った、ということにも意味があり、つまりは私の意識と一番深く共鳴した作品だったということです。100人いれば100人の感想は違います。ルーヴルと言えば『モナ・リザ』があまりにも有名で、誰もが認める名画として親しまれていますが、中には名画と思わない人もいるはず。芸術=消費するものと見てしまうと、他人の価値判断基準に自分を合わせるような感覚にもなるのかなと感じます。

「外の世界は全て自分の内面の世界の投影である」と言うと難しく感じますが、外の世界で気になる、心惹かれる=共鳴するものは全て、自分の内面の世界にあるものだ、ということです。もし『モナ・リザ』が多くの方の心と魂に響くのだとしたら、それは彼女の微笑みが「無条件の愛」という誰もが深遠な魂の記憶として持っている普遍的なものと共鳴するからなのではないでしょうか。

美術や芸術といったものに疎い私ではありますが、昨日の「人間にしかできないこと」の価値は高まるでも書いたように、究極的な人間らしさの表現としての芸術、アート、文芸、音楽といったものの価値というのは、これからもっともっと高まっていくと思うんですね。人々の霊性の目覚めに伴い、スピリットを自己表現したいという欲求が一般レベルでも高まっていくのは明らかだからです。現代社会の働き方に疲弊する私たちにこそ、日常生活のケアだけでなく、「魂のケア」が必要だと痛感しています。そのための第一歩として、この週末は近くの美術館にでも出かけて、お気に入りの一枚と魂を通わせあってみるのも良いかもしれませんね。

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