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エフェメラ、砂上の楼閣、バベルの図書館


記憶の箪笥を開けると片隅にエフェメラという言葉が仕舞われていた。

言葉を手に取って眺めるのだが、何処で拾ってきた言葉なのか皆目見当がつかない。つかないながら言葉の持つ神秘的な響きが気になって辞典をひいた。


言葉の起源を探ると「一日しか存在し得ないもの」とあった。古いギリシア語であった。

一日しか存在し得ないものの例に花やカゲロウとある。それを同列に括って古代のギリシア人はエフェメラと呼んだ。
 

美しい言葉である。


我々の言葉の中に花とカゲロウを統括する言葉はあったであろうか。

 

話を変える。

砂上の楼閣とは脆弱性の例えであるが、僕の頭のなかには何故か桜蘭王国が浮かぶ。桜蘭はシルクロードの中途に栄えた商業都市である。砂漠の中の美しい町であったが、戦争で滅びた。滅びた都市を砂漠の砂が埋めて、跡形もなくなってしまった。長らく伝説の都市となっていたが、近代になって遺構が発見された。


そのようなイメージであるから僕の中では砂上の楼閣とは儚いことの美しさを例える言葉にすっかり替わっている。

 

伝説の、と言えばホルヘ・ルイス・ボルヘスの小説にも伝説の図書館が登場する。バベルの図書館と呼ばれるその図書館はこの世のあらゆる蔵書、過去に刊行されたものも、これから未来に渡って刊行されるものも含めて、が納められている。

司書たちはその図書館に生まれて図書館で一生を終える。無限の蔵書を彼らは永遠に分類分けし整理し続ける。

現実の図書館学でも書物は様々な分野に系統分けをされている。時代とともに新たな系統が生まれ、過去の蔵書の再整理を延々と繰り返す。


その図書館学にエフェメラと呼ばれる分類があるという。

一日で消えるカゲロウの如く、捨てられることを前提とした出版物群、つまり広告、宣伝ビラなどである。


下北沢の小劇場に並んだ演劇のチラシをせっせと集めていた時期がある。アバンギャルドなデザインが多く楽しかった。

チラシは舞台人たちの熱気をそのままに帯びていた。

だが時代はそれから十数年を経た。舞台は終わった。多くの劇団が解散した。集めたチラシも何処かに霧散した。

あの熱気は何処にも残っていない。
 

先日、僕は老婆と子どもがひとときを過ごす詩を書いた。

老婆は高齢で数年のうちに死ぬ。最近は記憶も朧だ。

子どもは幼く未だ神のうちで、記憶は保持されず夕べには消失する。

二人の睦まじい関係性は僅かの日数を経るだけで跡形もなく消滅するのだ。

僕は老婆と幼児が他愛ないやり取りをする中、その真ん中にいて、二人を眺めていた。

美しい光景であったが、忘れ去られるだけの悲しい光景でもあった。

 

その淡い光景が僕の記憶の中で蜃気楼のように揺れている。僕の記憶もまた曖昧の中にあって、彼女らの美しさをつぶさに留めておくとが難い。だから僕は彼女らを言葉に変えた。だが僕の言葉の上にもまた、僕や誰かの新たな言葉が降り積もる。毎日誰かの言葉が生まれて、堆積を続ける。今日の言葉は新たな言葉の下敷きになって遺失する。言葉もまた儚い。言葉もまた砂漠の廃墟の如くかき消えて忘れ去られるのだ。

http://murasaki-kairo.hatenablog.com/
(村崎懐炉の文学日記「現代詩ひさかたの・跋文にかえて」より転載、補筆)